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土佐の森・文芸 融通無碍
[人物評伝]
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島本審次郎(1833~1892)
樋口真吉(1815~1870)

前列中央が司法卿・
江藤新平、左が大輔・
福岡孝弟。後列左から2人目が警保頭・島本審次郎(=島本仲道)、5人目が
尾崎忠治。明治5年/司法省。
江藤新平(融通無碍/人物評伝)福岡孝弟(融通無碍/人物評伝)尾崎忠治(融通無碍/人物評伝)天保4年、土佐郡潮江村蛭ヶ谷(現・高知市)の藩士・島本卓次の二男として生まれる。幼時より陽明学を好む。島本審次郎(=島本仲道)は通称。
安政5年、江戸に出て安井息軒に入門、長州藩士・久坂玄瑞らと交流する。
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文久元年、
武市半平太が江戸で土佐勤王党を結成して土佐に戻ったとき真っ先に加盟し(血盟書には16番目に署名)、武市半平太の土佐での同志糾合に尽力した。
武市半平太(融通無碍/人物評伝)
土佐勤王党(NHK動画)土佐勤王党(融通無碍/関連話)~~~~~~~~~~
文久2年、土佐藩主・山内豊範の上洛(武市半平太の策略で、江戸への参勤交代の途中に上洛を果たす。)の実現に尽力した。
山内豊範(融通無碍/人物評伝)=================
[融通無碍]保古飛呂比/佐々木高行日記
島本審次郎は郷廻り役(下横目=下っ端の警察官)をつとめていたが、御密事御用(藩の機密に関する職務)のため、京都・大坂方面に派遣された。
その際、天朝より長州藩への内勅を同藩の者より借り受けた。
折から(藩邸が国許への)飛脚を立てることになったので、国許に(内勅を)送ろうとして、留守居役方の書記にそのことを告げておき、再度(内勅を)持参したところが(飛脚は)先刻出発したと言われた。
そのため、(審次郎は)とやかく文句をつけ、ついに留守居役にまで直に申し出た。
そのとき(審次郎は)いろいろ不当な言いがかりをつけたので、帰国のうえ役儀御免を命ぜられた。
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文久3年、間崎哲馬、平井収二郎、弘瀬健太は、土佐勤王党(武市半平太)による土佐藩政改革/尊皇攘夷論化を行うため、土佐勤王党が仲介して青蓮院宮尊融親王(中川宮朝彦親王)の令旨を奉拝しようと活動していた。(結果的に中川宮朝彦親王が令旨を発したが、このことが「土佐藩主の権威を失墜させる越権行為、不遜の極み」であると山内容堂の逆鱗にふれ、3人の捕縛、切腹、ひいては土佐勤王党への弾圧へと繋がることに。)
この間崎哲馬らの活動資金を工面しようと島本審次郎は
吉村虎太郎と謀り、
武政左喜馬宅を訪れた。(
100両事件)
吉村虎太郎(融通無碍/人物評伝)武政左喜馬(融通無碍/人物評伝)100両事件(融通無碍/関連話)この事件を契機に土佐勤王党への本格的弾圧(=獄)が始動した。藩主・山内豊範による発令だが、実権は山内容堂の手にある。あわせて高知城下に混乱回避の命令(=戒厳令のごときもの)も出された。
藩による勤王党を排除する動きは民情を不安に陥れるから。
「一体、何が起きたのか。次に何が来るのか」と武家にも商人にも警戒する心が広がり浮き足立つ。
勤王党の獄にあって島本審次郎は御預け処分となる。武市半平太らは揚屋(牢屋)入りとなる。
幕末足軽物語 樋口真吉伝完結編<「幕末足軽物語樋口真吉伝完結編」ではP236>
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文久3年9月21日
小南五郎右衛門氏が勤務の差し控え(処分を受ける)。
小南五郎右衛門(融通無碍/人物評伝)武市半平太、
島村衛吉、
河野万寿彌、
小畑孫次郎、
小畑孫三郎が揚げ屋(牢屋)入りとなる。
島村寿之助と下代類・
島本審次郎(=島本仲道)は御預け処分。
島村衞吉(融通無碍/人物評伝)河埜万寿彌(融通無碍/人物評伝)小畑孫次郎(融通無碍/人物評伝)小畑孫三郎(融通無碍/人物評伝)島村寿之助(融通無碍/人物評伝>)ーーーーーーーーーーー
島本審次郎は武市半平らと獄に入ったが、獄窓に月を眺めて次の歌をよんだ。
「忌はしき獄舎の軒の隙よりも月は誠を照してぞ行く」
これに応えて武市半平太は、
「大空に照る月影は清けれど蔽へる雲を如何にせむ君」
「筆の跡見るにつけつつゆかしさのなほいやまさる君の面影」と詠じたという。
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慶応元年、島本審次郎は獄中で、文久3年に起きた吉村虎太郎・島本審次郎・
間崎哲馬らが武政左喜馬に強要した「
100両事件」について土佐藩監察から厳しく詮議されている。
間崎哲馬(融通無碍/人物評伝)100両事件(融通無碍/関連話)この事件については、武市半平太も詮議されているが、
「同意の上金を得た事に罪があれば恐れ入るが、不義に用いる為ではない」と述べている。
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<「幕末足軽物語樋口真吉伝完結編」ではP271>
慶応元年5年11日
岡田以蔵、
久松喜代馬、
村田忠三郎、
岡本八之助の4人が牢屋において斬首された。
岡田以蔵(融通無碍/人物評伝)久松喜代馬(融通無碍/人物評伝)村田忠三郎(融通無碍/人物評伝)岡本八之助(融通無碍/人物評伝)園村新作、島村寿之助、
安岡覚之助、河埜万寿弥、
森田金次郎、小畑孫次郎、小畑孫三郎、
吉永良吉、島本審次郎は引き続き牢屋に監禁され、小南五郎右衛門殿は御預け処分となった。
園村新作(融通無碍/人物評伝)安岡覚之助(融通無碍/人物評伝)森田金次郎(融通無碍/人物評伝)吉永良吉(融通無碍/人物評伝)武市半平太は屠腹(切腹)を命じられた。
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慶応3年、
板垣退助は土佐勤王党弾圧で投獄されていた森田金三郎、島村寿之助、安岡覚之助、小畑孫次郎、
山本喜三之進、吉永良吉、島本審次郎らを赦免・釈放した。
板垣退助(融通無碍/人物評伝)山本喜三之進(融通無碍/人物評伝)~~~~~~~~~~
慶応4年、島本審次郎は伏見戦争で松山討伐の土佐藩兵の監察使として従軍、軍功を挙げ監察加役に昇進して上士待遇となる。
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明治4年、新政府に出仕。
明治5年、兵部権少丞、地方官を経て、司法省に入る。司法大丞、大検事や警保頭を兼任。司法卿・江藤新平に信頼され司法制度の改正、新律綱領の制定に尽力した。
明治6年、征韓論に敗れ下野、土佐に戻った。帰国後は立志社の自由民権運動に関わる。
明治14年、自由党顧問となり河埜万寿弥と政治家として活躍したが、保安条例により東京から追放された。
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明治26年没。享年60。
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元高知県知事橋本大二郎氏
南寿吉先生の遺作(高知新聞/2021.7.2)ーーーーーーーーーーーーーー
2025.07.01.22.51