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土佐の森・文芸 融通無碍
[人物評伝]
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池知退蔵(1831~1890)
樋口真吉(1815~1870)

高知県南国市上末松
天保2年、長岡郡西野地村(現・南国市)の郷士の家に生まれる。
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文久元年、
武市半平太の土佐勤王党に加盟する。(血盟書は178番)
武市半平太(融通無碍/人物評伝)
土佐勤王党(NHK動画)土佐勤王党(融通無碍/関連話)~~~~~~~~~~
文久3年、
山内容堂に従い上洛、機密を扱う御用掛けの命を拝し諸藩の動向を探索するなど土佐藩士(尊王攘夷派)として奔走した。
山内容堂(融通無碍/人物評伝)~~~~~~~~~~
元治元年、土佐勤王党の獄が起こると、同志らと藩政の非を訴え、捕らえられた武市半平太らの釈放を求める。
各地の勤王志士の指導的立場に立つ者が高知城下に集結して「武市半平太らの解放」を協議することなった。「
小高坂密談」と云われている。
この密談には土佐東部の勤王党の首領清岡道之助も参加している。
清岡は真吉ほか同志に過激な提案をするが受け入れられず、これが結果的に「野根山騒動」に繋がることになる。
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《融通無碍》
◆小高坂密談(元治元年5月)
土佐藩の東西の有志(各郡から2・3名の代表者)が将来の運動の方向を定めるために、高知に集まり協議することになった。
小高坂密談(融通無碍/関連話)安芸郡は、清岡道之助、清岡治之助
清岡道之助(融通無碍/人物評伝)清岡治之助(融通無碍/人物評伝)香美郡は、
大石弥太郎、
谷作七、
森助太郎大石弥太郎(融通無碍/人物評伝)谷作七(融通無碍/人物評伝)森助太郎(融通無碍/人物評伝)長岡郡は池知退蔵
土佐吾川郡は
曽和伝左衛門、小笠原忠五郎、
河原塚茂太郎、
望月清平、西山直次郎
曽和伝左衛門(融通無碍/人物評伝)河原塚茂太郎(融通無碍/人物評伝)望月清平(融通無碍/人物評伝)高岡郡は片岡団四郎
幡多郡は
樋口真吉、
田辺剛次郎樋口真吉(融通無碍/人物評伝)田辺剛次郎(融通無碍/人物評伝)~~~~~~~~
清岡道之助は、遠隔地の安芸・幡多二郡の志士は決起して威勢を示し、藩が要求を容れない場合は実力で獄舎を開放して、一同で長州に脱走するべきと主張した。
《藩論を挽回し在獄の同志を救出するには今までのような各自の行動では効がないので、七郡の同志が提携し死を決して藩庁に迫り、芸幡二郡は野外に屯集して示威運動を行一挙に解決しなければならない。もし藩庁が聴かなければ獄舎を破壊して在獄舎を救出し長州へ走るのである。》
樋口真吉は、今は黙して時節を待つにこしたことはないと主張した。
《今の藩庁は佐幕派に占められているので、暴力をもって当るとその反感により在獄舎に危害を加えるかも知れない。また、たとえ在獄舎を出すことができても武市半平太は脱藩の意志がないかも知れない。その時は同志の進退を如何にするか、今は黙して時節を待つにこしたことはない。》
清岡道之助から
「樋口先生は幡多で立ち、われらが東部で立てば必ず成功する」とまで言われたが、真吉は頑として清岡道之助の主張には同調しなかった。
大石弥太郎ら土佐勤王党の多数派も、清岡道之助の主張は過激すぎる、また武市半平太は救出しても長州には行かないだろうと考えて同調しなかった。
幕末足軽物語 樋口真吉伝完結編<「幕末足軽物語樋口真吉伝完結編」ではP248>
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元治元年6月13日、
総勢27名で(武市半平太らの釈放求める)建白書を風憲(監察)に出す。
これに対応したのは大監察・
小八木五衞兵、
横山覚馬それに板坂、若尾の諸氏だった。
小八木五衞兵(融通無碍/人物評伝)横山覚馬(融通無碍/人物評伝)=======
《融通無碍》
◆建白書(嘆願書)に署名した者
大石彌太郎、
門田為之助、
岡本恒之助、
上田楠次、片岡孫五郎、沖野平吉、北川源五郎、山本四郎、
村田馬太郎、森助太郎、岡本猪之助、
谷作七、
川原塚茂太郎、田処庄之助、
池知退蔵、
佐井寅次郎、平石六五郎、阿部多司馬、三原惣彌太、仲彦太郎、中平喜久馬、権馬、四郎馬、瀧馬など
門田為之助(融通無碍/人物評伝)岡本恒之助(融通無碍/人物評伝)上田楠次(融通無碍/人物評伝)村田馬太郎(融通無碍/人物評伝)谷作七(融通無碍/人物評伝)川原塚茂太郎(融通無碍/人物評伝)佐井寅次郎(融通無碍/人物評伝)~~~~~~~~~~
慶応3年、京に上り
中岡慎太郎と交わり、
坂本龍馬と中岡慎太郎が暗殺された後も、遺志を継いだ。
中岡慎太郎(融通無碍/人物評伝)坂本龍馬(融通無碍/人物評伝)~~~~~~~~~~
慶応4年、池知退蔵は戊辰戦争に
迅衝隊の陸目付として従軍している。
迅衝隊(融通無碍/第56話)<「幕末足軽物語樋口真吉伝完結編」ではP322>
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慶応4年2月5日、
大監察・上野耕作と
佐井寅次郎、池知退蔵、
大石利左衛門が今後東征に必要な資金を早急に送るよう要請するため本藩に向けて出発する。
佐井寅次郎(融通無碍/人物評伝)大石利左衛門(融通無碍/人物評伝)ーーーーーーーー
<「幕末足軽物語樋口真吉伝完結編」ではP333>
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慶応4年3月16日、
田中金助と池知退蔵、結城七郎らが甲府からの公金(軍資金)を護送するために総勢16人でやって来た。かれらはそのまま下屋敷に留まる。
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維新後は、郷里の西野地村戸長(村長)を務めたり、士族の授産(失業者などに仕事を授けて、生活の道を得させること。)の為の産業振興にも尽力した。
また子弟教育の為に、香美郡立田村(現・南国市)に嶺南社香長学舎を開設するなどして、後進の教育にも尽力した。
自由民権運動が始まると、保守中正の立場に立ち、高陽会を興し新聞の発刊や、土佐国州会議員や県会議員等も歴任する。
明治7年、征韓論に敗れ下野した板垣退助を中心にした政治結社・立志社が出来ると、池知退蔵は、
森助太郎、
大石弥太郎らと嶺南社を興した。
森助太郎(融通無碍/人物評伝)大石弥太郎(融通無碍/人物評伝)明治23年、死去。享年60。
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元高知県知事橋本大二郎氏
南寿吉先生の遺作(高知新聞/2021.7.2)ーーーーーーーーーーーーーー
2025.07.01.22.51