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土佐の森・文芸 融通無碍
[人物評伝]
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村田馬太郎(1834~1865)
樋口真吉(1815~1870)

中央の墓石が村田馬太郎夫妻の墓で、手前左は弟・
村田忠三郎の墓。
村田忠三郎(融通無碍/人物評伝)親戚筋に
村田角吾がいる。
村田角吾(融通無碍/人物評伝) 天保9年、香美郡古川村(現・吉川村)の郷士・村田新十郎の長男として生まれる。村田家は甲斐源氏の後裔という。
父・村田新十郎は
武市半平太と親しく、また村田馬太郎自身は
間崎哲馬と親しかったという。
武市半平太(融通無碍/人物評伝)間崎哲馬(融通無碍/人物評伝)安政5年、津藩(現・三重県津市)に遊学し、斎藤抽堂に入門した。医術を学び医を業とした。
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文久元年、武市半平太らによって土佐勤王党が結成されると、親戚筋の
村田角吾とともに加盟した。(血盟書は97番)
村田角吾(融通無碍/人物評伝)
土佐勤王党(NHK動画)土佐勤王党(融通無碍/関連話)~~~~~~~~~~
文久2年、村田馬太郎は
島村衛吉の紹介状を持って土佐藩家老・五藤内蔵助に面会を求め、吉田東洋の非を挙げ土佐勤王党員の憤懣を伝えた。(吉田東洋暗殺の示唆か?)
島村衛吉(融通無碍/人物評伝)吉田東洋(融通無碍/人物評伝)ーーーーーーーー
文久2年4月8日、
武市半平太方に客が来て、
「本日、吉田東洋が御會(藩主・
山内豊範への講義)のため登城することを、上士衆などの同志の面々から聞いた。」と伝える。
武市半平太(融通無碍/人物評伝)山内豊範(融通無碍/人物評伝)その夜、
大石団蔵、
那須眞吾、
安岡嘉助らが、吉田東洋が下城するとき殺害に及び、その場から直ちに脱走(脱藩)した。(翌早朝、武市半平太が桜馬場を往来したとの風聞があった。)
大石団蔵(融通無碍/人物評伝)那須眞吾(融通無碍/人物評伝)安岡嘉助(融通無碍/人物評伝)
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この事件の直後、村田馬太郎は藩主の御内命で、京都ヘ行き(伏見で)
野本平吉に対面し、釈迦日(4月8日の釈迦誕生日)の変事(吉田東洋暗殺)を告げた。
野本平吉(融通無碍/人物評伝)この時、野本平吉は土佐稲荷神社がある土佐藩大坂蔵屋敷に土佐藩吏として任じていた。
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山内容堂の身辺警護と称して
五十人組が土佐藩の非合法な組織として結成され、村田馬太郎は
中岡慎太郎らと江戸に向かった。
山内容堂(融通無碍/人物評伝)中岡慎太郎(融通無碍/人物評伝)五十人組(融通無碍/関連話)~~~~~~~~~~
文久3年、藩の許可を得ないで江戸を発途した。潜行して伏見に至り、薩摩藩の本田弥右衛門に情勢を聞いている。その後、さらに京都・摂津・九州の情勢を探索したのち、注進のため帰国して報告するが、許可を得ないで江戸を離れたことが脱藩となり「追込みの刑(刑罰の一つで、一定の部屋に閉じ込めて出入りを禁ずること)」に処されている。
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元治元年、土佐勤王党の獄が起こると、同志らと藩政の非を訴え、捕らえられた武市半平太らの釈放を求める。
幕末足軽物語 樋口真吉伝完結編ーーーーーーーー
<「幕末足軽物語樋口真吉伝完結編」ではP247>
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元治元年5月27日、
ご隠居の任官御祝いを言上するため執政を訪ねる。
藤本淳七氏宅で村田馬太郎と出会う。ついでに
島村寿太郎を訪ねる。
藤本淳七(融通無碍/人物評伝)島村寿太郎(融通無碍/人物評伝)ーーーーーーーー
<「幕末足軽物語樋口真吉伝完結編」ではP248>
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元治元年6月13日、
総勢27名で(武市半平太らの釈放求める)建白書を風憲(監察)に出す。
これに対応したのは大監察・
小八木五衞兵、
横山覚馬それに板坂、若尾の諸氏だった。
小八木五衞兵(融通無碍/人物評伝)横山覚馬(融通無碍/人物評伝)村田馬太郎は建白書に署名している。(真吉と藤本淳七、島村寿太郎は署名していない。)
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慶応3年、香美郡村村作配役、また文武館教授になっている。
明治6年、死去。享年36。
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元高知県知事橋本大二郎氏
南寿吉先生の遺作(高知新聞/2021.7.2)ーーーーーーーーーーーーーー
2025.07.01.22.51