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土佐の森・文芸 融通無碍
[人物評伝]
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南部展衛(1845~1923)
樋口真吉(1815~1870)

弘化2年、高岡郡大野見村久万秋(現・中土佐町に合併)の土佐藩郷士・南部従吾(忠克、静斎)の長男として生まれる。
父・南部静斎は佐藤一斎に学んだ陽明学者で、門人には
武市半平太、
谷干城らがいた。
武市半平太(融通無碍/人物評伝)谷干城(融通無碍/人物評伝)~~~~~~~~~~
文久元年、武市半平太の土佐勤王党に加盟する。(血盟書は82番)

土佐勤王党(NHK動画)土佐勤王党(融通無碍/関連話)~~~~~~~~~~
文久2年、脱藩して上洛。諸藩の尊王派志士と交わるなど国事(勤皇活動)に奔走した。
三条実美の衛士となり護衛を勤めている。
三条実美(融通無碍/人物評伝)「
8月18日の政変」が起きると、三条実美に随従して長州に逃れる。
8月18日の政変(融通無碍/関連話)~~~~~~~~~~
文久3年、
三条実美の衛士となり護衛を勤めている。
三条実美(融通無碍/人物評伝)「
8月18日の政変」が起きると、三条実美に随従して長州に逃れる。
8月18日の政変(融通無碍/関連話)~~~~~~~~~~
元治元年、南部展衛は
中岡慎太郎が世話をしていた長州三田尻の
招賢閣に集まっていた諸藩の脱藩浪士が中心なって結成された長州藩への合力部隊・忠勇隊(総督は中岡慎太郎・真木和泉・真木外記)の一員として「
禁門の変」に参陣する。堺町門の戦いに敗れ、再び長州に逃れる。
中岡慎太郎(融通無碍/人物評伝) 招賢閣(融通無碍/関連話)禁門の変(=蛤御門の変)(融通無碍/関連話)=====
[融通無碍]
忠勇隊には土佐を脱藩した勤王志士が多数おり、南部展衛も参陣した「禁門の変」では、那須俊平・尾崎幸之進・柳井健次・上岡胆治・中平龍之助・伊藤甲之助・松山深蔵・能勢達太郎・安東真之助・千屋菊次郎らが何らかのかたちで命を落としている。
那須俊平(融通無碍/人物評伝) 尾崎幸之進(融通無碍/人物評伝) 柳井健次(融通無碍/人物評伝) 上岡胆治(融通無碍/人物評伝) 中平龍之助(融通無碍/人物評伝) 伊藤甲之助(融通無碍/人物評伝) 松山深蔵(融通無碍/人物評伝) 能勢達太郎(融通無碍/人物評伝) 安東真之助(融通無碍/人物評伝) 千屋菊次郎(融通無碍/人物評伝) ~~~~~~~~~~
慶応3年、大政奉還がなされると三条実美らと京に戻り国事に尽力する。
大政奉還~龍馬暗殺まで(融通無碍/関連話)~~~~~~~~~~
慶応4年、戊辰戦争では東山道先鋒総督の書記兼斥候を命じられ従軍している。
戊辰戦争従軍(融通無碍/第28話)「流山の戦い」で
近藤勇が投降するきっかけを作ったのは
平川光伸、南部展衛、
上田楠次の3名の策略によるといわれている。
近藤勇(融通無碍/人物評伝)平川光伸(融通無碍/人物評伝)上田楠次(融通無碍/人物評伝)~~~~~~~~~~
維新後は、
明治新政府に出仕。
明治新政府(融通無碍/関連話)明治元年、兵部少録任官を皮切りに、熊本裁判所長、神戸裁判所長、司法権大書記官・民事局長、大審院長心得(兼大審院部長)、東京控訴院長など、主に司法畑の要職を歴任した。
明治29年、大審院長に就任。退官後は枢密顧問官を務め、法曹会の設立にも尽力した。
大正12年、死去。享年79。
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元高知県知事橋本大二郎氏
南寿吉先生の遺作(高知新聞/2021.7.2)ーーーーーーーーーーーーーー
2025.07.01.22.51