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土佐の森・文芸 融通無碍
[人物評伝]
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武政左喜馬(1835~1899)
樋口真吉(1815~1870)

頌徳之碑(高知市春野町/森山公民館)碑文には「大道武政先生」とある。大道武政先生とは、武政左喜馬(大道、守山)のこと。
天保6年、吾川郡森山村(現・高知市)の養良塾の武政順作の子として生まれる。父に学んで、その業を継ぐかたわら学に励む。子弟の教育に力を注いだ。
嘉永6年、
間崎哲馬の私塾で経史を学び学頭となる。
間崎哲馬(融通無碍/人物評伝)間崎哲馬の私塾には門下生が数百人集まったといわれ、その中には
中岡慎太郎、
吉村虎太郎、
島本審次郎、
安東真之助、
沢村惣之丞、
能勢達太郎ら幕末の志士として活躍した人物が多々いた。
中岡慎太郎(融通無碍/人物評伝)吉村虎太郎(融通無碍/人物評伝)島本審次郎(融通無碍/人物評伝)安東真之助(融通無碍/人物評伝)沢村惣之丞(融通無碍/人物評伝)能勢達太郎(融通無碍/人物評伝)~~~~~~~~~~
文久元年、
千屋菊次郎に誘われ、伊勢に移って土井聱牙の塾で学ぶ。同年末に帰郷、
武市半平太の土佐勤王党に加盟する。(血盟書は100番)
千屋菊次郎(融通無碍/人物評伝)武市半平太(融通無碍/人物評伝)
土佐勤王党(NHK動画)土佐勤王党(融通無碍/関連話)~~~~~~~~~~
文久2年、土佐藩主・
山内豊範が参勤交代で上洛。
山内豊範(融通無碍/人物評伝)武市半平太は大名行列の随行で混迷する京へ入り、国事(尊王攘夷活動)に奔走することに。
土佐勤王党の同志(
岡本次郎、
久松喜代馬、
島村衛吉、
平井収二郎、山本喜三之進、
大石弥太郎、
谷正方、
安岡覚之助、
小畑孫次郎、
橋本鉄猪、
清岡治之助、千屋菊次郎ら)が供奉した。樋口真吉も藩主辺警要員で随行している。
岡本次郎(融通無碍/人物評伝)久松喜代馬(融通無碍/人物評伝)島村衛吉(融通無碍/人物評伝)平井収二郎(融通無碍/人物評伝)山本喜三之進(融通無碍/人物評伝)大石弥太郎(融通無碍/人物評伝)谷正方(融通無碍/人物評伝)安岡覚之助(融通無碍/人物評伝)小畑孫次郎(融通無碍/人物評伝)橋本鉄猪(融通無碍/人物評伝)清岡治之助(融通無碍/人物評伝)武政左喜馬も武市半平太に従い京に上るべく覚悟でいたが、諸事情があり上洛を断念する。地元で私塾教育に尽くすことに。
幕末足軽物語 樋口真吉伝完結編<「幕末足軽物語樋口真吉伝完結編」ではP176>
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文久2年6月28日、
土佐藩主・山内豊範の
参勤交代が出立した。
参勤交代行列の人数は通常600人程を、2,000人に増員した大部隊になったと伝えられ、武市半平太をはじめ多くの土佐勤王党の同志がも供奉したが、武政左喜馬は涙を呑んで随行しなかった。
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[融通無碍]
参勤交代(融通無碍/関連話)
「北山道」と呼ばれる参勤交代の道が残っている。高知城から見て「北の方に抜ける道」ということから「北山道」と言われるようになった。
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文久3年、土佐勤王党の資金調達のため、吉村虎太郎、島本審次郎が武政左喜馬宅を訪れた。 武市半平太と
島村寿之助(名前を使われただけ)が資金(100両)を必要としており、工面できないかという。
島村寿之助(融通無碍/人物評伝)武政左喜馬が100両揃えると、
「これを青蓮院宮令旨を以て政治工作に腐心している
間崎哲馬の所へ持っていけ」と 言って吉村虎太郎らは去っていった。
間崎哲馬(融通無碍/人物評伝) しかし、武政左喜馬は間崎哲馬ではなく、『入用』だと言ったという島村寿之助のところへ100両を持っていった。心当たりのない島村寿之助は「要らぬ金があるのなら窮民へやれ」と言って受け取らない。
そこで間崎哲馬の所へ持っていくが、間崎は「知らぬ振りをして島村寿之助が受け取る様に」という書簡を持たせて、 再度島村の所へ行かせるが、やはり受け取らない。もう一度間崎の所へ戻ると『よきようにする』といって100両を受け取った。
資金のやりとりが不自然で納得がいかない武政左喜馬は、武市半平太と会って100両のことに関連して天下の情勢を聴こうと京に出掛けることにした。
京で武市半平太と対面する。その人物の素晴らしさに接し武政左喜馬は内弟子を願い出た。 武市半平太はこれを承知し少しのあいだともに過ごした。
吉村虎太郎、間崎哲馬らにたばかられ100両を差し出した事を武市に話すと(武市半平太には身に覚えのない事であり、武政左喜馬も武市の人となりを知ってその様な無心をする 人物ではないと思ったが)武市が
「詐欺まがいの不義は到底許される事ではなく追求する」と言うが、武政左喜馬は表沙汰にしたくなく追及は望まなかった。
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慶応元年、武市半平太が獄中で「
100両事件」について詮議されている。
文久3年に起こった、吉村虎太郎・島本審次郎・間崎哲馬による100両事件に詮議が及ぶ。
土佐藩庁の横目(警察任務)から詰問された武市半平太は名前を利用されただけだという立場であったが、島本審次郎が関わっていた事は知らなかった。
武市半平太は島本審次郎と外部同志島村寿之助へと『不都合千万』と獄信を出し、党へ害が及ばぬ様工作を試みるが 島村寿之助から武政左喜馬への指示が間に合わなかった。
ありのままを話した武政左喜馬の供述を以て島本審次郎が詮議を受けると武市半平太は
「同意の上金を得た事に罪があれば恐れ入るが、不義に用いる為ではない」と言い、恐らくもともと 表沙汰にしたくはなかった武政左喜馬も強くは言わず、その後の展開は特になかった。
100両事件(融通無碍/関連話)~~~~~~~~~~
維新後、武政左喜馬は
第一回県議会選挙で当選している。
明治32年、没。享年65。
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[閑話休題] 高知県議会HPより
◆第一回高知県会議員選挙
明治11年7月、政府が公布した府県会規則に基づいて、県会(当時は「県議会」ではなく「県会」。)が設置されることになり、翌明治12年1月に議員定数58名(土佐国27名、阿波国31名)が定められ、2月に初めての選挙が行われた。(その後、明治13年3月に阿波国が分離されて徳島県が設置されたため、県会は土佐国7郡の選出議員27名で構成されることになった。)
10月には第1回の県会が招集され、立志社で自由民権運動に力を注いだ片岡健吉(土佐国選出)が初代議長に、磯部為吉(阿波国選出)が初代副議長に選出さる。
当時の県会議員選挙法は、満20歳以上の男子で年間5円以上の地租税を納める者に選挙権を、満25歳以上の男子で年間10円以上の地租税を納める者に被選挙権を与えることを定めていた。
片岡健吉は、このような制限選挙では、民意を公正に県会に反映することができないとして、第1回の県会に議員選挙法の改正案を提出したが、混乱の中、改正案は採否が決定されず、県会内部の情勢に絶望した片岡は11月に議員を辞職し、代わって副議長磯部為吉が第2代議長に就任した。
土佐勤王党の中心メンバーであり、戊辰戦争でも功績を挙げた大石彌太郎も第一回高知県会議員選挙で当選しているが、1か月後、県会議員選挙の制限選挙制に反対して片岡健吉と共に辞職している。
このように、紛争で幕を開けた高知県会は、以降もしばしば県令(県知事)と衝突するなどし、全国的にもまれな難治県として注視されることになる。

第11代高知県知事石田英吉氏(明治25年~明治30年)
石田英吉(融通無碍/人物評伝) 
第55代高知県知事橋本大二郎氏(平成7年~平成19年)
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元高知県知事橋本大二郎氏
南寿吉先生の遺作(高知新聞/2021.7.2)ーーーーーーーーーーーーーー
2025.07.01.22.51