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土佐の森・文芸 融通無碍
[人物評伝]
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森助太郎(1829~1909)
樋口真吉(1815~1870)

高知県香南市野市町新宮
文政12年、香美郡富家村新宮(現・香南市)の郷士・森喜右衛門の長男として生まれる。文武を好み、竹村東野、岡本寧浦らに学ぶ。
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文久元年、
武市半平太の土佐勤王党に加盟する。(血盟書は158番)
武市半平太(融通無碍/人物評伝)
土佐勤王党(NHK動画)土佐勤王党(融通無碍/関連話)~~~~~~~~~~
文久2年、土佐藩主・
山内豊範が参勤交代で上洛。
山内豊範(融通無碍/人物評伝)武市半平太は土佐勤王党の同士を引き連れて、大名行列の随行で京入りを果たす。以後、混迷する京都で国事(尊王攘夷活動)に奔走することに。
森助太郎は土佐勤王党の同志(
岡本次郎、
久松喜代馬、
島村衛吉、
平井収二郎、山本喜三之進、
大石弥太郎、
谷正方、
安岡覚之助、
小畑孫次郎、
橋本鉄猪、
清岡治之助、
千屋菊次郎ら)とともに供奉した。
岡本次郎(融通無碍/人物評伝)久松喜代馬(融通無碍/人物評伝)島村衛吉(融通無碍/人物評伝)平井収二郎(融通無碍/人物評伝)山本喜三之進(融通無碍/人物評伝)大石弥太郎(融通無碍/人物評伝)谷正方(融通無碍/人物評伝)安岡覚之助(融通無碍/人物評伝)小畑孫次郎(融通無碍/人物評伝)橋本鉄猪(融通無碍/人物評伝)清岡治之助(融通無碍/人物評伝)千屋菊次郎(融通無碍/人物評伝)三条実美勅使の東下にあたっては、姉小路公知の中小姓となり護衛の任を果たしている。
三条実美(融通無碍/人物評伝)~~~~~~~~~~
文久3年、「
8月18日の政変」を契機に、土佐勤王党への弾圧が始まり、武市半平太ら多くの同士が獄につながれたが、森助太郎は屈することなく尊皇活動を続ける。
8月18日の政変(融通無碍/関連話)~~~~~~~~~~
元治元年、各地の勤王志士の指導的立場に立つ者が高知城下に集結して「武市半平太らの解放」を協議することなった。「
小高坂密談」と云われている。
この密談には土佐東部の勤王党の首領清岡道之助も参加している。
清岡は真吉ほか同志に過激な提案をするが受け入れられず、これが結果的に「野根山騒動」に繋がることになる。
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《融通無碍》
◆小高坂密談(元治元年5月)
土佐藩の東西の有志(各郡から2・3名の代表者)が将来の運動の方向を定めるために、高知に集まり協議することになった。
安芸郡は、
清岡道之助、
清岡治之助清岡道之助(融通無碍/人物評伝)清岡治之助(融通無碍/人物評伝)香美郡は、
大石弥太郎、
谷作七、
森助太郎大石弥太郎(融通無碍/人物評伝)谷作七(融通無碍/人物評伝)森助太郎(融通無碍/人物評伝)長岡郡は池地退蔵
池知退蔵(融通無碍/人物評伝)土佐吾川郡は
曽和伝左衛門、小笠原忠五郎、
河原塚茂太郎、
望月清平、西山直次郎
曽和伝左衛門(融通無碍/人物評伝)河原塚茂太郎(融通無碍/人物評伝)望月清平(融通無碍/人物評伝)高岡郡は片岡団四郎
幡多郡は
樋口真吉、
田辺剛次郎樋口真吉(融通無碍/人物評伝)田辺剛次郎(融通無碍/人物評伝)~~~~~~~~
清岡道之助は、遠隔地の安芸・幡多二郡の志士は決起して威勢を示し、藩が要求を容れない場合は実力で獄舎を開放して、一同で長州に脱走するべきと主張した。
《藩論を挽回し在獄の同志を救出するには今までのような各自の行動では効がないので、七郡の同志が提携し死を決して藩庁に迫り、芸幡二郡は野外に屯集して示威運動を行一挙に解決しなければならない。もし藩庁が聴かなければ獄舎を破壊して在獄舎を救出し長州へ走るのである。》
樋口真吉は、今は黙して時節を待つにこしたことはないと主張した。
《今の藩庁は佐幕派に占められているので、暴力をもって当るとその反感により在獄舎に危害を加えるかも知れない。また、たとえ在獄舎を出すことができても武市半平太は脱藩の意志がないかも知れない。その時は同志の進退を如何にするか、今は黙して時節を待つにこしたことはない。》
清岡道之助から
「樋口先生は幡多で立ち、われらが東部で立てば必ず成功する」とまで言われたが、真吉は頑として清岡道之助の主張には同調しなかった。
大石弥太郎ら土佐勤王党の多数派も、清岡道之助の主張は過激すぎる、また武市半平太は救出しても長州には行かないだろうと考えて同調しなかった。
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獄中の土佐勤王党関係者(武市半平太ら)の救出が関係者間で懸命に模索された。
幕末足軽物語 樋口真吉伝完結編<「幕末足軽物語樋口真吉伝完結編」ではP248>
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元治元年6月5日
嘆願書について衆議が一致せず、藩庁への提出を断念する。
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《融通無碍》
◆嘆願書とは?
この時期、獄中の勤王党関係者の救出が関係者間で懸命に模索されていた。
特に首領格の武市半平太を早急に釈放させることは喫緊の課題だった。
獄中にあった半平太への監視は厳重でなく緩やかだった。外部との手紙の交換は牢番人を介して行なわれたほどで、かれが獄中で書いた書簡は相当な量が今に伝わる。その中には
『藩庁の尋問に対し樋口真吉も同盟者であると答えてしまった。次回の尋問で取り消すから真吉に謝っておいてくれ』という内容のもある。(真吉は血判同盟者ではない。)
が、この嘆願書の提出が見送られて土佐東部で騒動が起きる、とのみ言っておこう。(騒動は野根山事件だ)
野根山騒動始末記・・・・・・・・・
元治元年6月13日
総勢27名で(武市半平太らの救出)嘆願書を風憲(監察)に出す。(これに応対したのは大監察・
小八木五衛兵、
横山覚馬それに板坂、若尾の諸氏だった。)
小八木五衛兵(融通無碍/人物評伝)横山覚馬(融通無碍/人物評伝)=======
《融通無碍》
◆嘆願書に署名した者
大石弥太郎、
門田為之助、岡本恒之助、
上田楠次、片岡孫五郎、沖野平吉、北川源五郎、山本四郎、
村田馬太郎、
森助太郎、岡本猪之助、
谷作七、
川原塚茂太郎、田処庄之助、
池知退蔵、
佐井寅次郎、平石六五郎、阿部多司馬、三原惣彌太、仲彦太郎、中平喜久馬、権馬、四郎馬、瀧馬など
大石弥太郎(融通無碍/人物評伝)門田為之助(融通無碍/人物評伝)岡本恒之助(融通無碍/人物評伝)上田楠次(融通無碍/人物評伝)村田馬太郎(融通無碍/人物評伝)谷作七(融通無碍/人物評伝)川原塚茂太郎(融通無碍/人物評伝)池知退蔵(融通無碍/人物評伝)佐井寅次郎(融通無碍/人物評伝)~~~~~~~~~~
慶応3年、森助太郎は、
中岡慎太郎、
板垣退助らと気脈を通じて、討幕運動に奔走する。
中岡慎太郎(融通無碍/人物評伝)板垣退助(融通無碍/人物評伝)~~~~~~~~~~
慶応4年、戊辰戦争に迅衝隊の第二番隊長として従軍、
二本松の戦いで負傷している。
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◆二本松の戦い
<「幕末足軽物語樋口真吉伝完結編」ではP365>
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慶応4年7月29日
先発組は二本松に進む。輜重隊がこの後に続く。二本松まで二里。二本松城主・丹羽左京大夫は城を棄て逃げていたが、徹底抗戦を決意した勢力は大手門外に出て迎え撃つ態勢だ。
(戦いが始まった)この戦いで小兵の大石弥太郎が敵と組み打ちとなったがおおかたの予想に反し、大兵の敵を組み敷き見事に首級を揚げた。
(城を出て戦ったから)城を占領された敵は逆に大手門を破って侵入し、ついに城に火を放つ。敵は多くの死傷者を出した。真吉の指揮する輜重隊は城中に入り、小憩する。

二本松城
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【真吉、6連銃を発す】
城中に入り、小憩していると、突然隣の部屋で大騒ぎが起きた。階上に敵1人が潜んでいたからだ。
大勢でこの敵を取り囲むと敵も獅子奮迅の働きを見せて抵抗するから真吉も
6連発銃を撃ち掛ける。薩兵も撃ったから敵は乱射の銃弾に倒れた。射殺された敵兵は会津兵であった。この騒ぎで大垣兵が1人戦死した。
真吉も人に銃口を向けて発射したのは初めてだったようだ。多分拳銃だろう。冷静な男も興奮して記録したか。真吉54歳。まだ若い。
6連発銃(融通無碍/関連話)~~~~~~~~~~
維新後は明治新政府に出仕、士官となったが辞して郷里に帰る。
明治7年、征韓論に敗れ下野した板垣退助を中心にした政治結社・立志社が出来ると、大石弥太郎や池知退蔵らと嶺南社を興した。
明治13年、香美郡立田に香長学舎を建設し教育にも尽力した。
明治42年、没。享年81。
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元高知県知事橋本大二郎氏
南寿吉先生の遺作(高知新聞/2021.7.2)2025.07.01.22.53