◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
土佐の森・文芸 融通無碍
プレイバック/土佐の森・文芸
[第49話]
脱藩◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

維新の門(高知県梼原町)<左から沢村惣之丞、坂本龍馬、那須俊平>
脱藩とは?(AI回答)~~~~~~~~~~
文久2年、
吉村虎太郎、
宮地宜蔵、
沢村惣之丞、
曽和伝左衛門が脱藩。(曽和伝左衛門は武市半平太の意向もあって脱藩を断念、藩内に留まる。)
吉村虎太郎(融通無碍/人物評伝)宮地宜蔵(融通無碍/人物評伝)沢村惣之丞(融通無碍/人物評伝) 曽和伝左衛門(融通無碍/人物評伝)ーーーーーーーー
文久2年3月6日、吉村虎太郎は、同志から融通を受けた通行手形もあったことから、白昼堂々と薩摩への使者と偽り姓名も名乗って番所を通過し、土居村(現城川町)の矢野方に泊まって、その翌日長浜に着いたとされる。
吉村虎太郎の脱藩に触発される形で、その後土佐からは「脱藩」という形で幕末の動乱の世界へ飛び込んで行く若者が続いた。吉村虎太郎らは
久坂玄瑞を頼り長州へ。
久坂玄瑞(融通無碍/人物評伝)ーーーーーーーーー
坂本龍馬、沢村惣之丞(2回目)が脱藩。(梼原町韮ケ峠)
坂本龍馬(融通無碍/人物評伝)峠(融通無碍/第7話)ーーーーーーーー
脱藩する龍馬(NHK動画)龍馬、脱藩の道(高知県梼原町/NHK)さらば土佐よ(NHK龍馬伝)《龍馬は
武市半平太<大森南朋>が
吉田東洋<田中泯>を殺そうとしていると知り、吉田東洋に会いに行く。東洋が武市の言うような悪人ではなく、真に土佐藩のことを考えていると悟り、暗殺をやめるよう武市を説得する。その一方で、
沢村惣之丞<要潤>から「勤王党に見切りをつけ、脱藩しよう」と持ちかけられ、龍馬の心はしだいに脱藩へと傾いていく。》
武市半平太(融通無碍/人物評伝)吉田東洋(融通無碍/人物評伝)龍馬、脱藩!!(融通無碍/関連話)==========
那須信吾、
安岡嘉助、
大石団蔵が吉田東洋を暗殺して脱藩。
那須信吾(融通無碍/人物評伝)安岡嘉助(融通無碍/人物評伝) 大石団蔵(融通無碍/人物評伝)ーーーーーーーー
3人は京都の長州藩邸に逃げ込み、久坂玄瑞に保護されている。路用のため、武市半平太から金子を渡されたという。
那須信吾・安岡嘉助は
天誅組に参加、吉村虎太郎と行動をともにすることになるが、大石団蔵は天誅組には参加せず薩摩藩邸に移り薩摩藩の保護下に入っている。
天誅組(融通無碍/関連話)その後、大石団蔵は薩摩藩士・奈良原繁の養子となり、薩摩藩士として活動することに。名前も「高見弥市」と改名した。

那須信吾、那須俊平、玉川壮吉
==========
田所謄次郎、
鍋島米之助、
楠目清馬が脱藩。脱藩後は京都に行き諸藩の志士と交流、国事(尊皇攘夷運動)に奔走する。
田所謄次郎(融通無碍/人物評伝)鍋島米之助(融通無碍/人物評伝)楠目清馬(融通無碍/人物評伝)==========
土佐勤王党の弾圧が始まると
髙松太郎が脱藩して江戸へ。
髙松太郎(融通無碍/人物評伝)髙松太郎は叔父・龍馬の紹介によって江戸で幕臣・
勝海舟の弟子となる。
望月亀弥太や
千屋寅之助とともに航海術などを学ぶ。
勝海舟(融通無碍/人物評伝)望月亀弥太(融通無碍/人物評伝)千屋寅之助(融通無碍/人物評伝)その後、勝の進言によって幕府が神戸に設置した
神戸海軍操練所に参加することに。
神戸海軍操練所(融通無碍/関連話)==========
南部展衛が脱藩して上洛。諸藩の尊王派志士と交わるなど国事(勤皇活動)に奔走した。
南部展衛(融通無碍/人物評伝)三条実美の衛士となり護衛を勤めている。
三条実美(融通無碍/人物評伝)「
8月18日の政変」が起きると、三条実美に随従して長州に逃れる。
8月18日の政変(融通無碍/関連話)~~~~~~~~~~
文久3年、坂本龍馬が
勝海舟の口ききで山内容堂から脱藩の罪を許され、形式ばかりの7日間の謹慎を命ぜられた。その時の警護役が
宮地彦三郎で坂本龍馬と知り合うことに。龍馬を大坂から京都へ警護する。その時以来、坂本龍馬の影響を受けて、10月に脱藩して
北添倍摩などと連絡をとりながら志士活動に挺身、奔走した。
宮地彦三郎(融通無碍/人物評伝)北添倍摩(融通無碍/人物評伝) ==========
土佐勤王党への弾圧が始まるとそれを逃れて
中岡慎太郎が脱藩。
中岡慎太郎(融通無碍/人物評伝)土佐勤王党への弾圧(融通無碍/関連話)ーーーーーーーー
脱藩後は長州に身を寄せ高杉晋作と意気投合。
==========
池内蔵太は
山内容堂の命で大坂・江戸の探索をするが山内容堂の佐幕的な姿勢を嫌い、これを契機に
上田宗児とともに脱藩。長州藩に逃げ込む。
山内容堂(融通無碍/人物評伝)池内蔵太(融通無碍/人物評伝)上田宗児(融通無碍/人物評伝)==========
勝海舟の神戸海軍塾で学ぶ土佐藩の塾生・坂本龍馬、高松太郎、
安岡金馬らが脱藩。
安岡金馬(融通無碍/人物評伝)ーーーーーーーー
<「幕末足軽物語樋口真吉伝完結編」ではP224>
土佐勤王党への弾圧が始まると勝塾(神戸海軍塾)で学ぶ土佐藩の塾生にも帰国命令が出る。坂本龍馬や高松太郎ら多くの同志は命令を無視して修行を続ける(再び脱藩ということ)が、安岡金馬は勝海舟と相談の上、一旦土佐へ帰国する。
しかし、土佐に帰ると安岡金馬は身の危険を感じ、翌元治元年に脱藩して中岡慎太郎、池内蔵太がいる長州へ向かうことに。
==========
能勢達太郎、
小松小太郎らが脱藩。
能勢達太郎(融通無碍/人物評伝) 小松小太郎(融通無碍/人物評伝)ーーーーーーーー
脱藩して上洛。土佐藩士の
北添佶磨、
安岡斧太郎、小松小太郎らと蝦夷地を視察し、さらに北国諸州を巡遊して江戸に帰った。その後、中岡慎太郎を頼って長州に走る。
北添佶磨(融通無碍/人物評伝)安岡斧太郎(融通無碍/人物評伝)==========
尾崎幸之進、
田所壮輔、
安東真之助が脱藩。(梼原町韮ケ峠)
尾崎幸之進(融通無碍/人物評伝)田所壮輔(融通無碍/人物評伝)安東真之助(融通無碍/人物評伝)ーーーーーーーー
中岡慎太郎を頼り長州の三田尻・
招賢閣に入る。
招賢閣(融通無碍/関連話)ーーーーーーーー

高知県高岡郡梼原町 維新の門(掛橋和泉)
尊皇攘夷の声が高まるなか、梼原には次々と脱藩者が集まり、その手引き地元の那須俊平、玉川壮吉、掛橋和泉らが行った。掛橋和泉の家は裕福であったので志士たちに資金援助を行っていたが、義母はこれを知り叱責がきつく、和泉和泉は事実を語ると同志の秘密を知らせることになり、それかといって義母をあざむくことはできないとして苦悶の末死を決し、同志玉川壮吉を訪ね意中を語り死後を託した。玉川壮吉は酒を飲み慰め脱藩をすすめたが、和泉和泉はその夜、玉川壮吉の家を忍び出て先祖の墓地に行き銃をあて自殺した。
梼原のこと(融通無碍/関連話)==========
吉村虎太郎(2回目)、
中平龍之助、
土居佐之助が脱藩。京へ上る。(梼原町九十九曲峠)
中平龍之助(融通無碍/人物評伝)土居佐之助(融通無碍/人物評伝)ーーーーーーーー
吉村虎太郎は孝明天皇の大和行幸の先駆けとなるべく京都で尊攘派公卿・中山忠光(明治天皇の叔父)を擁立して天誅組を組織、大和国で挙兵する。天誅組は中山忠光が大将となり、吉村虎太郎、松本圭堂、藤本鉄石が総裁を務める布陣、河内義党、十津川義党も加わり総勢1200人を超す大部隊になったという。
天誅組(融通無碍/関連話)天誅組に参加した土佐の若き志士たち(融通無碍/関連話)◆土佐の19名の同士
吉村寅太郎、那須信吾、安岡嘉助、安岡斧太郎、
森下儀之助、土居佐之助、田所謄次郎、
沢村幸吉、
森下幾馬、楠目清馬、
前田繁馬、鍋島米之助、
島村省吾、中倉才治郎<吉村虎太郎家来>、木村楠馬<吉村虎太郎家来>(15名が戦死、若しくは京都六角獄舎で刑死)
森下儀之助(融通無碍/人物評伝)沢村幸吉(融通無碍/人物評伝)森下幾馬(融通無碍/人物評伝)前田繁馬(融通無碍/人物評伝)島村省吾(融通無碍/人物評伝)池内蔵太、上田宗児、
石田英吉、
島浪間、(4名が逃げ延び長州へ)、《残り1名、宮地宜蔵は天誅組の結成直前に病死している》
石田英吉(融通無碍/人物評伝)島浪間(融通無碍/人物評伝)==========
千屋金策が脱藩。(梼原町韮ケ峠)
千屋金策(融通無碍/人物評伝)ーーーーーーーー
千屋金策が那須俊平宅に来て泊まる。
那須俊平が
玉川壮吉と謀って脱藩させた。
那須俊平(融通無碍/人物評伝) 玉川壮吉(融通無碍/人物評伝) ==========
那須俊平、玉川壮吉、
中平保太郎、
上岡胆治、
松山深蔵、
千屋菊次郎が脱藩。(梼原町韮ケ峠)
中平保太郎(融通無碍/人物評伝) 上岡胆治(融通無碍/人物評伝) 松山深蔵(融通無碍/人物評伝) 千屋菊次郎(融通無碍/人物評伝) ーーーーーーーー
長州の中岡慎太郎のもと(招賢閣)に身を寄せる。長州藩の忠勇隊(諸藩の脱藩浪士が中心なって結成された長州藩への合力部隊。隊長は松山深蔵。)に所属し「蛤御門の変」に出陣。
蛤御門の変(融通無碍/関連話)この戦いで多くの土佐の脱藩志士ら(那須俊平・尾崎幸之進・
柳井健次・上岡胆治・中平龍之助・
伊藤甲之助・松山深蔵・能勢達太郎・安東真之助・千屋菊次郎ら)が何らかのかたちで命を落としている。
柳井健次(融通無碍/人物評伝) 伊藤甲之助(融通無碍/人物評伝) ==========
大利鼎吉が脱藩して上洛。
大利鼎吉(融通無碍/人物評伝) 大利鼎吉は京都三条木屋町(三条小橋)で
池田屋事件に遭遇。
池田屋事件(融通無碍/関連話)その後、
禁門の変に関わるが逃げ延びる。堺町御門の戦いで重症を負った伊藤甲之助の自刃を介錯している。
禁門の変(融通無碍/関連話)さらにその後(慶応元年)、大坂で土佐勤王党の残党(大利鼎吉、
田中光顕、大橋慎三(=
橋本鉄猪)、池田応輔ら)と大坂南瓦町にぜんざい屋を構える石蔵屋政右衛門(本多内蔵助)で、大坂市街に火を放ち、其の混乱に乗じて大坂城を乗っとるという計画を立てた。いわゆる「ぜんざい屋事件」である。
田中光顕(融通無碍/人物評伝)橋本鉄猪(融通無碍/人物評伝)しかし、その情報が新選組に洩れてしまい襲撃され、大利鼎吉は討ち死にした。
==========
土佐勤王党への弾圧が始まると、
柳井健次は脱藩して長州三田尻の
招賢閣に入り長州藩の忠勇隊に加入する。
柳井健次(融通無碍/人物評伝)招賢閣(融通無碍/関連話) その後、
禁門の変に参戦、堺町門の戦闘で銃弾を受け戦死。享年23。
禁門の変(融通無碍/関連話)==========
安岡勘馬は上洛して土佐藩京屋敷に滞在。
8月18日の政変が起こり土佐勤王党への弾圧が始まると、京都藩邸を脱出(脱藩)して中国地方を放浪、諸国の尊皇攘夷派の志士と談合する。
8月18日の政変(融通無碍/関連話)元治元年、京都にもどるが、幕府の尊王攘夷派弾圧の厳しさから世を悲観し、鴨川の河原で自刃した。享年22。
安岡勘馬(融通無碍/人物評伝)~~~~~~~~~~
元治元年、
中島与市郎、
中島信行、
細木核太郎が脱藩。(吾川郡名野川・水ノ峠)
中島与市郎(融通無碍/人物評伝)中島信行(融通無碍/人物評伝)細木核太郎(融通無碍/人物評伝)ーーーーーーーー
3人は長州に向ったが、中島与市郎は水ノ峠の大師堂で、足の傷を養生中に捕吏民兵に囲まれて銃撃を受け自刃した。
==========

佐川(高知県佐川町)は仁淀川の中流域にある小京都的な町である。領主・深尾氏の領地だった。
井原応輔、濱田辰彌(=
田中光顕)、
橋本鉄猪、
那須守馬、
池大六が集団脱藩。(佐川町赤土<あかつち>峠)
井原応輔(融通無碍/人物評伝)田中光顕(融通無碍/人物評伝)橋本鉄猪(融通無碍/人物評伝)那須守馬(融通無碍/人物評伝)池大六(融通無碍/人物評伝)ーーーーーーーー
佐川組の集団脱藩(融通無碍/関連話)==========
野根山騒動が起こり、清岡道之助ら
23烈士が野根山を越えて阿波領に集団で脱藩。
土佐との高誼を重視する阿波藩は丁重に扱い、蜂起勢に感激はしたが最終的には全員を土佐に引き渡す。
幕末足軽物語 樋口真吉伝完結編<「幕末足軽物語樋口真吉伝完結編」ではP259>
元治元年9月朔日、阿波から、野根二十三士の乱を起こした柏原禎吉ら7人を甲浦で引き取る。
野根山二十三烈士(融通無碍/人物評伝)==========
<「幕末足軽物語樋口真吉伝完結編」ではP263>
元治元年11月12日
桑原義之助の亡命(脱藩)の報せが届いた。
桑原義之助(融通無碍/人物評伝)脱走したのは9日である。これに同行したのは尾川保馬(=
平川光伸)と
小松清拙(清雪)。
平川光伸(融通無碍/人物評伝)小松清拙(融通無碍/人物評伝)=======
《融通無碍》
桑原義之助は幡多の楠島生まれの郷士で真吉の門下生であるが、定見のない藩庁に憤慨して脱藩した。
尾川保馬(=平川光信)は安芸郡芸西村和食の産である。戊辰戦争にも従い維新後は平川和太郎と改名し、司法関係に進んだ(筆者、縁あってかれの蔵書一冊が手許にある)
この桑原義之助と小松清拙の2人が真吉の影響下にあっての脱藩者となった。
しかし、小松清拙(=俗名:小松勇道)は東部の物部村に生れたから例外とすべきかもしれない。
真吉は徒党を組む、集団で行動するのを嫌った。
だが、他から見れば真吉を盟主とする『
幡多勤王党』的な組織が存在した。
幡多勤王党(融通無碍/関連話)ーーーーーーーー
平川光伸は安芸郡芸西村和食の人である。
井上佐市郎暗殺事件に関与、実行犯ではなかったが嫌疑が及んだため脱藩した。
井上佐市郎暗殺事件(融通無碍/関連話)脱藩後は
三条実美の下で
清岡半四郎と京阪地区の情報収集に奔走した。
三条実美(融通無碍/人物評伝)清岡半四郎(融通無碍/人物評伝)==========
白峰駿馬は越後長岡藩を脱藩。,江戸にでて勝海舟に入門。のち坂本竜馬の海援隊にくわわる。
白峰駿馬(融通無碍/人物評伝)==========

維新の門(高知県梼原町韮ケ峠<にらがとうげ>)
群像の中央には家財を費やして志士たちを援助した掛橋和泉、向かって右側には坂本龍馬、澤村惣之丞、那須俊平、左側には、吉村虎太郎、那須信吾、前田繁馬、中平龍之助
~~~~~~~~~~
慶応3年長岡謙吉が脱藩して長崎に赴き、
坂本龍馬の下で
亀山社中、
海援隊に参加した。
長岡謙吉(融通無碍/人物評伝)坂本龍馬(融通無碍/人物評伝)亀山社中(融通無碍/関連話) 海援隊(融通無碍/関連話) ーーーーーーーー
慶応3年11月14日に幕府から
宮川助五郎の身柄の引渡し通告が土佐藩に出た。
宮川助五郎(融通無碍/人物評伝)土佐藩大監察・
福岡孝弟が、宮川助五郎の身柄を陸援隊が引き受けるよう中岡慎太郎に要請した。
福岡孝弟(融通無碍/人物評伝)
幕末足軽物語 樋口真吉伝完結編<「幕末足軽物語樋口真吉伝完結編」ではP300>
・・・・・・・・
慶応3年11月15日(龍馬が暗殺された日)
宮川助五郎(上士)を幕吏から受け取る。宮川はさきに三条の制札を踏んで幕府に捕縛されていた。
中岡慎太郎は「宮川助五郎の処遇の件」を
坂本龍馬に相談するため近江屋に出掛けた。その夜、二人は暗殺された。
坂本龍馬(融通無碍/人物評伝)その後、宮川助五郎は、土佐に強制送還される途中、脱走(脱藩)した。
ーーーーーーーー
宮野々関門旧址(高知県檮原町宮野々)

高知県檮原町宮野々には江戸時代の番所跡があり、「宮野々関門旧址」と刻んだ石碑が建てられ、その裏面に以下の文章がある。
「幕末維新之時
土佐勤王烈士十二人前後此ノ関門ヲ脱出シ 国事二奔走シ皆難二殉ス 其精忠苦節世二倫ナシ
此二石ヲ建テ 名ヲ刻シ 其ノ忠烈ヲ不朽二伝フ
昭和10年4月 寺石正路撰 檮原村建之
脱藩志士12名
坂本龍馬 吉村虎太郎 那須俊平 千屋菊次郎 松山深蔵 上岡胆治 田所壮輔 沢村惣之丞 中平龍之助 尾崎幸之進 安藤真之助 千屋金策
彼らは宮野々番所から九十九曲峠を越えて、脱藩したものである。
大部分の者は隠密裏に脱藩したが、吉村虎太郎は、文久2年3月6日、同志から融通を受けた通行手形もあったことから、白昼堂々と薩摩への使者と偽り姓名も名乗って番所を通過し、土居村(現城川町)の矢野方に泊まって、その翌日長浜に着いたとされる。
坂本龍馬及び沢村惣之丞については、九十九曲峠越えではなく檮原町韮(にら)が峠から野村町小屋-河辺村-小田川-長浜というルートにより脱藩したという。
*****************
ブログ
土佐の森・文芸/融通無碍

編集・発行
土佐の森グループ/ブログ事務局
**************

元高知県知事橋本大二郎氏
南寿吉先生の遺作(高知新聞/2021.7.2)2024.12.31.20.37