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土佐の森・文芸 融通無碍
[人物評伝]
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沖野平吉(生没年不詳)
樋口真吉(1815~1870)
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文久元年、武市半平太が土佐勤王党を結成。沖野平吉は54番目に加盟。

土佐勤王党(NHK動画)土佐勤王党(融通無碍/関連話)~~~~~~~~~~
文久2年、
山内容堂の身辺警護と称して
五十人組が土佐藩の非合法な組織として結成された。
山内容堂(融通無碍/人物評伝)五十人組(融通無碍/関連話)沖野平吉は
五十人組に2番組伍長として参加、配下に
依岡権吉、
岡田啓吉、仲彦太郎、
森下幾馬、村上保二郎らがいた。京都と江戸の間を往来して国事に奔走した。
五十人組(融通無碍/関連話)依岡権吉(融通無碍/人物評伝)岡田啓吉(融通無碍/人物評伝)森下幾馬(融通無碍/人物評伝)~~~~~~~~~~
元治元年、文久4年2月20日に改元され、以後「元治元年」となる。文久4年は2ヶ月足らずしかない。
<「幕末足軽物語樋口真吉伝完結編」ではP248>
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元治元年6月5日、
嘆願書について衆議が一致せず、藩庁への提出を断念する。
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[融通無碍]
◆嘆願書とは?
この時期、獄中の勤王党関係者の救出が関係者間で懸命に模索されていた。真吉も土佐勤王党の同士とともに懸命に模索していた。
特に首領格の武市半平太を早急に釈放させることは喫緊の課題だった。
獄中にあった半平太への監視は厳重でなく緩やかだった。外部との手紙の交換は牢番人を介して行なわれたほどでかれが獄中で書いた書簡は相当な量が今に伝わる。その中には
「藩庁の尋問に対し樋口真吉も同盟者であると答えてしまった。次回の尋問で取り消すから真吉に謝っておいてくれ」という内容のもある。
が、この嘆願書の提出が見送られて土佐東部で騒動が起きる、とのみ言っておこう。
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元治元年6月12日、
再度の建白書(=嘆願書)持参の手順について関係者間で協議したが同意に到らず分裂する。真吉ら(五十嵐文吉、山本喜三之進、田所謄次郎ら)は提出を断念する。
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元治元年6月13日、
大石彌太郎、
門田為之助、
上田楠次、沖野平吉、
山本四郎、
村田馬太郎、
谷作七、
川原塚茂太郎、
田所荘之助、
池知退蔵、
佐井寅次郎、
阿部多司馬、
三原兎弥太、
島浪間、ら総勢27名が「建白書」を土佐藩風憲(監察)に提出した。(五十嵐文吉は同調していない。真吉も。)
大石彌太郎(融通無碍/人物評伝)門田為之助(融通無碍/人物評伝)上田楠次(融通無碍/人物評伝)山本四郎(融通無碍/人物評伝)村田馬太郎(融通無碍/人物評伝)谷作七(融通無碍/人物評伝)川原塚茂太郎(融通無碍/人物評伝)田所荘之助(融通無碍/人物評伝)池知退蔵(融通無碍/人物評伝)佐井寅次郎(融通無碍/人物評伝)阿部多司馬(融通無碍/人物評伝)三原兎弥太(融通無碍/人物評伝)島浪間(融通無碍/人物評伝)これに応対したのは大監察・
小八木五衛兵、
横山覚馬それに板坂、若尾の諸氏だった。(小八木、横山ともに土佐藩の佐幕派幹部のため、真吉の危惧した通り却下される。)
小八木五衛兵(融通無碍/人物評伝)横山覚馬(融通無碍/人物評伝)~~~~~~~~~~
慶応4年、沖野平吉は、戊辰戦争には土佐藩
迅衝隊士として従軍している。
迅衝隊(融通無碍/第56話)
幕末足軽物語 樋口真吉伝完結編<「幕末足軽物語樋口真吉伝完結編」ではP376>
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慶応4年10月11日
沖野平吉が来る。駄馬を買う。
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元高知県知事橋本大二郎氏
南寿吉先生の遺作(高知新聞/2021.7.2)ーーーーーーーーーーーーーー
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