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土佐の森・文芸 融通無碍
[人物評伝]
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山崎広馬(生没年不詳)
樋口真吉(1815~1870)
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文久元年、
武市半平太、
大石弥太郎らによって土佐勤王党が結成されると加わり尊攘活動に奔走する。(血盟書は115番)
武市半平太(融通無碍/人物評伝)大石弥太郎(融通無碍/人物評伝)
土佐勤王党(NHK動画)土佐勤王党(融通無碍/関連話)~~~~~~~~~~
慶応4年<=明治元年>

《戊辰戦争/鳥羽伏見の戦い/1月、新政府有栖川宮熾仁親王を征東大総督に/2月、甲州勝沼の戦い/3月、江戸城無血開城/4月、新政府軍会津若松城を攻撃/8月、会津戦争に勝利し東京・高知に凱旋/11月》
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■戊辰戦争で真吉が引率するのは輜重隊
真吉は輜重隊(融通無碍/関連話)《日記:戊辰戦争従軍記より》
幕末足軽物語 樋口真吉伝完結編<「幕末足軽物語樋口真吉伝完結編」ではP338>
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慶応4年4月20日
山崎広馬が戻って言う。
【山崎広馬の情報】
○官軍は彦根、笠間、壬生に展開中である。敵勢力、千余人らしい。
○土佐藩兵は20日に進軍して戦う予定
○薩摩は流山の賊を攻撃する予定
○戦場は広大で樹木も茂り放題で、麦の背も高いから肩先が見え隠れするほどで、視界も利かず一丁(約100m)先もよく見えない。埋伏して前進する(=匍匐前進。敵の攻撃を避けるため這いつくばって進む)と前後が分からなくなるほどだ。
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[融通無碍]
集団・整列して戦う火縄銃戦法は、後込めの新式銃を持った兵に散らばって攻撃(散兵戦法)されると弱い。
火縄銃は先込めのため戦士は起立しないと弾込めできない。後込め銃は寝転がって装弾できる。伏せた状態での移動・攻撃を得意とする官軍にはどうもよろしくない戦地のようだ。
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慶応4年4月21日
断金隊小頭・
美正貫一郎が甲府に戻る。
美正貫一郎(融通無碍/人物評伝)【美正貫一郎の情報】
○旧幕勢力の保有する船舶(軍艦)は37隻、主力は感(開)陽丸と富士山
○上総出身の探索人・弥助が探索から戻り復命する
○古河(茨城県古河市)より北にある万ヽ田で18日、19日戦争があった。
○古河から江戸までの間は平穏無事である(官軍の勢力下にある)。
○古河と江戸との距離は16里あり、この間の官軍勢力は約6千人。粕壁(春日部)・関宿と壬生などへ分隊して兵を派遣する。土佐兵の主力は古川に向かう。
○結城藩の内紛は続き、城主・水野氏は白河に逃げたという。
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[融通無碍]
隠居側勢力が藩主側に勝った。時代の趨勢を見極めるのは至難で、藩存続のため父子が争う、対立する、和解する、協調する動きが日本各地で展開された。従前の考えに固執すると『守旧派』『俗論党』などと呼ばれた。
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慶応4年4月27日
間々田での会戦で(官軍の)彦根藩兵は敗走した。勝った賊は大砲・銃を分捕ったものの、移動中にはこれが邪魔となって遂には大砲などを井戸に投げ込んだ。これを(物陰からこっそり見ていた)兵が夫卒に命じて引き揚げてもって来た。功労はその夫卒にあるから褒金(ほうび)を与えた。
昨日輜重隊を守衛する人々が到着した。
【守衛人の名簿】
宮川胡作 宮地午吉 遠近晋二郎
山崎広馬 佐田庫吉 木戸武士衛 沖恵之助 中屋格之助 土居民助 下代・多作
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[融通無碍]
筆者、これらの名前を一読して思う。その姓名は決して高い身分の人々とは思えない。
さらに苗字は土佐の幡多に特徴的なものばかりである。遠近はまず幡多以外で耳にしない。佐田も沖も中屋もそうである。
真吉が呼び寄せたのか、真吉を慕って志願して来たのか。心強かろう、軽装備で戦乱の中を味方の兵士のために駆け巡る輜重兵を守ってくれるのが知人・縁者であるとしたら。
「これは断じて脱線に非ず」とのみ言わせて下さい。
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元高知県知事橋本大二郎氏
南寿吉先生の遺作(高知新聞/2021.7.2)*****************
2025.07.01.23.59