幕末足軽物語(南寿吉著)
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土佐の森・文芸 (高松太郎)
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幕末足軽物語
土佐の森・文芸
融通無碍(南寿吉著)
[南史観<人物評伝>]
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
◆龍馬の系譜
坂本龍馬には子どもがいなかった。
没後『龍馬家』は、おいの高松太郎(坂本直)が養子となって受け継いだ。
高松太郎は、高知の東部安田(現安田町)の勤王医師・高松順蔵に嫁いだ龍馬の長姉(千鶴)の長男である。
高松順蔵(融通無碍/南史観<人物評伝>)
武市半平太の知遇を得て、土佐勤王党に加盟した。(血盟書は149番目)
武市半平太(融通無碍/南史観<人物評伝>)
ーーーーーーーーーーーーーーー
◆勝海舟と山内容堂の会談
文久3年(1863)1月15日夜、伊豆下田・宝福寺で、土佐藩主・山内容堂と幕臣・勝海舟(麟太郎)の会談が行なわれた。
山内容堂(融通無碍/南史観<人物評伝>)
この話し合いで、坂本龍馬が前年<文久2年3月>に犯した脱藩の罪が許された。赦免である。
龍馬脱藩の道(高知県梼原町)
龍馬脱藩の道・維新の道
龍馬、脱藩!!(融通無碍/南史観<私観>)
龍馬が赦免されたこの会談に、勝海舟の書生として高松太郎が同席していた。
・・・・・・・・・
◆伊豆の下田で「龍馬の脱藩赦免の会談」に立ち会う
《真吉日記・倦遣録より》
幕末足軽物語 樋口真吉伝完結編
<「幕末足軽物語樋口真吉伝完結編」ではP209>
・・・・・・・・・
文久3年1月15日
滞泊する。
真吉は蓮代寺温泉(静岡県下田市蓮台寺温泉)温泉に浸かる。
攝海(大阪湾)を出航した蒸気式幕船(=順動丸)が入港して来た。
この船には勝麟太郎が乗り組んでいた。
またこの船には、わが藩(土佐藩)の高松太郎、千屋虎之助、望月亀彌太が航海術修行のために乗っていた。
千屋寅之助(融通無碍/南史観<人物評伝>)
望月亀彌太(融通無碍/南史観<人物評伝>)
伊豆・下田の宝福寺
伊豆・下田でのこと(融通無碍/第4話)
ーーーーーーーーーーーーーーーーー
◆京都で「四侯会議」に関わる
<「幕末足軽物語樋口真吉伝完結編」ではP280>
・・・・・・・・・
慶応3年5月12日
薩摩と越前と宇和島の三侯が土佐藩邸に来る。(四侯会議の根回しか)
石川清之助、高松太郎と逢う。
======
[融通無碍]
三侯とは?
薩摩=島津久光、越前=松平春嶽、宇和島=伊達宗城、だ。
島津久光(融通無碍/南史観<人物評伝>)
松平春嶽(融通無碍/南史観<私観>)
伊達宗城(融通無碍/南史観<人物評伝>)
・・・・・・・・
石川清之助は中岡慎太郎の変名である。
中岡慎太郎(融通無碍/関連話<片岡正法>)
この時期、土佐藩では薩摩藩の西郷隆盛が主導する「四侯会議」を積極的に支持していた。
この日、山内容堂が薩摩と越前と宇和島の三侯を土佐藩邸に呼び、二条城での会見のすりあわせをしたものと思われる。(四侯会議は14日に、二条城で開催された。)
土佐藩邸で四侯会議のメンバーが議論した同じ日、真吉と中岡慎太郎、高松太郎が何のために逢い何を画策したのか、日記からは読み取れない。
四侯会議の翌日(15日)、板垣退助が江戸から京都に来る。
板垣退助(幕末足軽物語・融通無碍/南史観<人物評伝>)
22日、退助は容堂に
「今、倒幕に積極的に動かねば、いずれ薩長の手下同然になり後塵を拝する」と脅す。
決断のつかない容堂は悩み苦しむ。
徳川を倒したあとの世界にこそ出番ありと意気込む退助、徳川を倒すなど夢想もしない容堂。
世は動いている。
~~~~~~~~
◆四侯会議<史料:Wikipediaより>
慶応3年(1867年)5月14日、京都において設置された諸侯会議。有力な四侯による合議体制で、15代将軍・徳川慶喜や摂政・二条斉敬に対する諮詢機関として設置された。
公議政体論の流れの中で、薩摩藩の主導のもとに成立した会議であり、朝廷や幕府の正式な機関ではなかったが、それに準ずるものとして扱われた。
薩摩藩はこれを機に政治の主導権を幕府から雄藩連合側へ奪取し、朝廷を中心とした公武合体の政治体制へ変革しようと図ったが、幕府(徳川慶喜<実務は原市之進>)との政局に敗れ、ごく短期間で挫折した。
公武合体 (融通無碍/南史観<私観>)
原市之進(融通無碍/南史観<人物評伝>)
この結果、薩摩は徳川を含めた雄藩による公武合体路線をあきらめ、完全に倒幕路線に舵を切ることになる。
四侯会議 (融通無碍/南史観<私観>)
四侯会議の際に徳川慶喜が撮影したとされる写真。(右上から時計回りに)島津久光、山内容堂、伊達宗城、松平春嶽(福井市立郷土歴史博物館所蔵)
四侯会議(かごしま明治維新特集/南日本新聞)
~~~~~~~~~
なお、「四侯会議」の魁として、文久3年(1863年)末から文久4年3月まで京都に存在した、朝廷の任命による数人の有力な大名経験者から構成された合議制会議、およびその制度、いわゆる「参与会議」がある。
「四侯会議」とほぼ同じメンバーであったが、この会議も一ツ橋(徳川)慶喜の抵抗(幕府徹底支持)などがあり短期間で崩壊している。
参与会議 (融通無碍/南史観<私観>)
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[融通無碍]
《一部 ウィキペディア(Wikipedia)より』
◆高松太郎の生涯
天保13年(1842年)、土佐藩の郷士である父・高松順蔵(勤王医師)と母・千鶴(坂本龍馬の姉)の長男として生まれる。
19歳の時、九州に剣術修行の旅に出る。旅先で武市半平太に出会ったことをきっかけに土佐勤王党に加盟して尊皇攘夷運動に身を投じるが、のちに叔父・龍馬の紹介によって幕臣・勝海舟の弟子となる。
神戸海軍操練所で勝海舟に航海術を習うが、文久3年8月18日の政変の影響で土佐勤王党が弾圧されると、脱藩。
8月18日の政変(融通無碍/南史観<私観>)
勤王党への弾圧(融通無碍/南史観<私観>)
その後、一時は薩摩藩に匿われるが、叔父(母が龍馬の姉)にあたる坂本龍馬や陸奥宗光らと長崎で亀山社中(後の海援隊)を結成。龍馬と海軍(海運が正しいか)創設に尽力、行動をともにした。(薩摩藩名義で)長州藩船のユニオン号を購入するなど活躍する。
陸奧宗光(幕末足軽物語/関連話<人物評伝>)
亀山社中(融通無碍/南史観<私観>)
ユニオン号のこと(融通無碍/第33話)
大政奉還後、函舘裁判所権判事として函館に赴任するが、旧幕府軍が函館に侵攻してくると清水谷公考総督らとともに青森に撤退した。
維新後は宮内省に出仕するが早々に退職した。
その後の明治4年(1871年)8月、龍馬の家督を相続して朝廷から永世15人扶持を給せられ、名を坂本直と改める。
以後、東京府典事、宮内省雑掌、舎人などを歴任するも、キリスト教信奉を理由に宮内省を免職になる。キリスト教に帰依した後は高知教会(現在、日本基督教団高知教会)の熱心な信者になり、同じくクリスチャンとなった龍馬の暗殺犯とされる今井信郎を龍馬の法要に招いたりもしている。晩年は弟・坂本直寛宅に同居した。
明治31年(1898年)、病気のため57歳で死去した。
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[幕末足軽物語/関連話]
◆龍馬の手紙(高松太郎宛て)
わけあって、薩摩藩へ行きます。(寺田屋での傷の養生の為)<実は、日本初の新婚旅行>
龍馬の手紙(高松太郎宛て①<幕末足軽物語/関連話>)
寺田屋の元金100両(去年からの金利18両だけでも)どうにかこちらへ送って下さい。<龍馬の金策>
龍馬の手紙(高松太郎宛て②<幕末足軽物語/関連話>)
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土佐の森・文芸/融通無碍(南寿吉著)
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元高知県知事橋本大二郎氏
南寿吉先生の遺作(高知新聞/2021.7.2)
融通無碍/総集版
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土佐の森・文芸 (沢村惣之丞)
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土佐の森・文芸
融通無碍(南寿吉著)
[南史観<人物評伝>]
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沢村惣之丞
土佐国土佐郡潮江村(現高知県高知市)の浪人の子として生まれる。
間崎哲馬に師事し、学問を学ぶ。
その後土佐勤王党に加入した。
間崎哲馬(融通無碍/南史観<人物評伝>)
土佐勤王党(融通無碍/南史観<私観>)
文久2年、吉村寅太郎と共に土佐藩を脱藩。
吉村虎太郎(融通無碍/南史観<人物評伝>)
武市半平太への現状報告のため一時帰国するが、その後坂本龍馬らと再び脱藩、その後は坂本龍馬と行動を共にし、亀山社中、海援隊の中核として龍馬の片腕となり股肱の活躍をおこなう。英語に長じ、海援隊では外人応接掛の重責を務めた。
武市半平太(融通無碍/南史観<人物評伝>)
亀山社中(幕末足軽物語/関連話)
海援隊(幕末足軽物語/関連話)
慶応3年、龍馬暗殺(近江屋事件)の際は、陸奧宗光らと容疑者とされた三浦休太郎の暗殺計画を実行する。(天満屋事件)
龍馬暗殺(融通無碍/南史観<私観>)
陸奧宗光(融通無碍/南史観<人物評伝>)
天満屋事件<竜馬暗殺復仇隊>(融通無碍/南史観<私観>)
慶応4年1月、鳥羽伏見の戦いで幕府軍の敗北の報に接した長崎奉行・河津伊豆守が長崎を退去、江戸へ逃走した。
最後の長崎奉行・河津伊豆守祐邦
これを察知した長崎駐在の土佐藩重役・佐々木高行は、沢村ら海援隊士を率いて長崎奉行所を占拠し長崎の町と港を警備することに。
佐々木高行(=三四郎)(融通無碍/南史観<人物評伝>)
長崎奉行所(幕末足軽物語/関連話)
その際、沢村惣之丞は酒を帯びた暴漢を射殺したが、後にこれが友好関係にあった薩摩藩士・川端平助だったことが判明した。
沢村は薩摩藩との軋轢を恐れ、海援隊本部で、薩摩藩関係者の制止にもかかわらず割腹して果てた。享年26。
沢村の辞世の句。
生きて世に残るとしても生て世の有らむ限りの齢なるらめ
龍馬の片腕、沢村惣之丞の悲劇(長崎龍馬便り)
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土佐の森・文芸/融通無碍(南寿吉著)
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元高知県知事橋本大二郎氏
南寿吉先生の遺作(高知新聞/2021.7.2)
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土佐の森・文芸 (白峰駿馬)
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土佐の森・文芸
融通無碍(南寿吉著)
[関連話<人物評定>]
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白峰駿馬
日本造船界の先駆者 白峰駿馬
弘化4年、越後・長岡に生まれる。
文久2年、江戸に行き、勝海舟の門下生になる。
元治元年、長岡藩を脱藩して神戸海軍操練所に参加する。
神戸海軍操練所(融通無碍/南史観<私観>)
神戸海軍操練所の閉鎖後は坂本龍馬が結成した亀山社中に参加、薩摩名義で長州が購入したユニオン号、ワイル・ウェフ号で薩摩と長州の中をとりもつ。
ユニオン号のこと(融通無碍/南史観<私観>)
薩摩から長州へ武器を、長州から薩摩へ食糧を運ぶ。
が、その途中ワイル・ウェフ号は五島列島沖で遭難・沈没した。
乗り組んでいた「不死身の男」と云われた池内蔵太は死亡したが、白峰駿馬は奇跡的に生還した。「不死身の男」の上をゆく不死身の男と龍馬が評した。
ワイル・ウェフ号が遭難・沈没(長崎龍馬の道より)
池内蔵太(融通無碍/南史観<人物評伝>)
その後、白峰は海援隊にも幹部として加わり活発に活動している。
薩摩藩からユニオン号の代船として供与された太極丸の船将<船長>となり長崎、大阪間を回航した。
薩摩から供与された(最終的には後藤象二郎<土佐藩>が買い受けた)太極丸はユニオン号とともに薩長同盟に貢献することに。
薩長同盟(融通無碍/第38話)
◆大極丸のこと(千屋寅之助宛ての「龍馬の手紙」より)
第二次長州征伐で龍馬は薩摩藩から供与された帆船ワイルウェフ号を遭難・沈没させ、また、ユニオン号も戦時の長州藩へ引き渡すことになり、亀山社中には船がなくなってしまった。
船がなくなったので、
「水夫たちに暇を出したが、大方は離れようとしない」と窮状を薩摩藩に伝えると、代船として帆船「大極丸」を亀山社中に供与した。
薩摩藩から供与された大極丸は、ユニオン号の艦長千屋寅之助の相方・白峰駿馬が船将として運航された。
『大極丸の件は後藤象二郎が引き受けてくれることになりました。私を海援隊隊長とし、諸君も修行(海運業・交易)することの都合をつけて下さい。これは西郷吉之助(西郷隆盛)が山内容堂に説いた話です。』
龍馬の手紙(千屋寅之助宛て)
千屋寅之助(幕末足軽物語/関連話<人物評伝>)
ーーーーーーーーーーーー
龍馬が京都河原町の近江屋で暗殺されたとき、報せを聞いて現場へ駆けつけた海援隊士の中に白峰駿馬がいた。(龍馬が殺されたとき、まだ息のある龍馬が「酢屋にいる白峰駿馬を呼んでくれ」と云ったという。)
海援隊(左から長岡謙吉、溝渕広之丞、坂本龍馬、山本洪堂、千屋寅之助、白峰駿馬)
長岡謙吉(融通無碍/南史観<人物評伝>)
溝渕広之丞(融通無碍/南史観<人物評伝>)
明治2年、亀山社中及び海援隊の同志・千屋寅之助と共にアメリカ合衆国に留学し、ラトガース大学やニューヨーク海軍造船所にて造船術を学ぶ。
明治7年に帰国、翌明治8年、勝海舟(海軍卿) の推薦で海軍省の主船寮主船小匠司となり、東京府下函崎町官用地で帆前船の「白峰丸」を建造した。白峰丸は日本における洋式造船の先覚となる。
明治11年には白峯造船所を興した。
明治42年4月1日、死去。享年63。
アメリカ・ラトガース大学へ留学中の日本人学生(後列右端が千屋寅之助、右から4人目が白峰駿馬)
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土佐の森・文芸/融通無碍(南寿吉著)
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南寿吉先生の遺作(高知新聞/2021.7.2)
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土佐の森・文芸 (千屋寅之助)
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2024-03-15T23:54:00+09:00
2024-03-15T23:54:02+09:00
2023-07-16T19:59:43+09:00
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幕末足軽物語
土佐の森・文芸
融通無碍(南寿吉著)
[南史観<私観>]
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千屋寅之助=菅野覚兵衛
天保13年、土佐の東部・和食(わじき、現安芸郡芸西村和食)に生まれる。
武市半平太の土佐勤王党に加盟し<血判盟約書の34番目>、勤王活動を始める。
武市半平太(融通無碍/南史観<人物評伝>)
文久2年(1862年)、江戸で蟄居している前土佐藩主山内容堂を警護する五十人組に参加、中岡慎太郎、望月亀弥太、安岡金馬らと江戸へ。
山内容堂(融通無碍/南史観<人物評伝>)
五十人組(融通無碍/南史観<私観>)
中岡慎太郎(融通無碍/片岡正法<人物評伝>)
望月亀弥太(融通無碍/南史観<人物評伝>)
安岡金馬(融通無碍/南史観<人物評伝>)
江戸で勝海舟の私塾に入門、勝海舟の弟子となる。
勝の進言によって幕府が神戸に設置した神戸海軍操練所に参加することに。龍馬と出会い、以後、行動をともにすることに。
神戸海軍操練所(融通無碍/南史観<私観>)
~~~~~~~~~~~
幕末足軽物語 樋口真吉伝完結編
・・・・・・・・・・・・
<「幕末足軽物語樋口真吉伝完結編」ではP209>
文久3年1月15日、
伊豆・下田/宝福寺で、前土佐藩主・山内容堂と幕臣・勝海舟(麟太郎)との会談が行なわれた。
千屋寅之助はこの会談に、勝海舟の随行者として高松太郎、望月亀彌太とともに同席している。
高松太郎(融通無碍/南史観<人物評伝>)
伊豆・下田の宝福寺
伊豆・下田でのこと(融通無碍/第4話)
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その後、神戸海軍操練所が閉鎖されると、寅之助は龍馬や陸奥宗光らと行動を共にして長崎での亀山社中(のちの海援隊)の結成に尽力する。
陸奥宗光(融通無碍/南史観<人物評伝>)
亀山社中(融通無碍/南史観<私観>)
海援隊(融通無碍/南史観<私観>)
第二次長州征討(四境戦争/下関海戦)では、ユニオン号の艦長(砲手長は石田英吉)となって龍馬とともに実戦に加わり、高杉晋作の長州藩海軍を支援して幕府軍を撃破した。その後も、海援隊の幹部として八面六腑の活躍をする。
第二次長州征討(融通無碍/南史観<私観>)
ユニオン号のこと(融通無碍/南史観<私観>)
石田英吉(融通無碍/南史観<人物評伝>)
龍馬は、この戦いについて戦況図付きの長文の手紙を兄・権平に書き送っている
下関海戦図(手前の山は下関市の火の山で現在展望台があり、そこへ登るとこの通りに見える。龍馬は最初門司の半島右側からの攻撃に参加したが、のち下船して火の山に登り、大砲を使って援護射撃をした。「戦のはなしはやった者でなければ分からない」「鉄砲の音がゴマを煎るように聞こえる」など、絵の海部分いっぱいに感想を書いている。/高知県立坂本龍馬記念館より)
高杉晋作/戦場で三味線
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慶応3年11月に京都で龍馬が暗殺されると、翌慶応4年3月生前の龍馬の希望もあり長崎で龍馬の妻・お龍の妹・君江(起美)と結婚。
千屋寅之助夫妻
寅之助の実家(高知県和食<わじき>)には一時お龍も同居しており、和食の琴ヶ浜松原には「お龍・君江姉妹像」の銅像がある。
お龍・君枝姉妹像(高知県芸西村和食)
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慶応4年
戊辰戦争では長崎振遠隊の幹部として、海援隊の同志・石田英吉(この時は長崎振遠隊長)とともに秋田戦争に従軍した。
長崎振遠隊
長崎振遠隊(融通無碍/南史観<私観>)
◆秋田戦争
戊辰戦争時、奥羽越列藩同盟を離脱して新政府軍に参加した久保田藩(秋田藩)が官軍と共に、庄内藩・盛岡藩を中心とする列藩同盟軍を相手に繰り広げた一連の戦い。秋田庄内戊辰戦争ともいう。
慶応4年7月19日に長崎港からイギリス船フィロン号に乗り組み、海路で秋田に。同月24日に秋田領船川に到着した。秋田城下に入り角間川の戦いで、庄内藩の酒井忠篤の軍と戦ったものの敗走した。その後盛岡藩降伏の報を受けて、雫石で雫石・橋場口の戦いを経て、10月に盛岡城へ入った。
秋田での戊辰戦争
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海援隊(左から長岡謙吉、溝渕広之丞、坂本龍馬、山本洪堂、千屋寅之助、白峰駿馬)
長岡謙吉(融通無碍/南史観<人物評伝>)
溝渕広之丞(融通無碍/南史観<人物評伝>)
白峰駿馬(融通無碍/南史観<人物評伝>)
日本造船界の先駆者 白峰駿馬
戊辰戦争終結後の明治元年、海援隊の同志・白峰駿馬とともにアメリカ合衆国に渡りニュージャージー州のラトガース大学に留学。
アメリカ・ラトガース大学へ留学中の日本人学生(後列右端が千屋寅之助、右から4人目が白峰駿馬)
アメリカから帰国後は、勝海舟の紹介で海軍省に入省、海軍少佐となる。
退官後は、北添佶磨、坂本龍馬らと抱いた北地開拓の夢の実現のため、とりあえず福島県郡山市の安積原野に入植、開拓事業に携わり滅私奉公の活動をする。
北添佶磨(融通無碍/南史観<人物評伝>)
しかし、その道半ばに病のため倒れ、明治26年に死去。享年52。
****************
千屋寅之助の故郷は土佐東部の和食<わじき>(現・高知県芸西村和食)
幕末には多くの勤王の志士を輩出している。
和食の志士
*安岡金馬は、五十人組で江戸へ、中岡慎太郎と行動をともにする。馬関海峡戦で龍馬に誘われ、海援隊が組織されると参加している。
*野老山吾吉郎は、北添佶磨、望月亀弥太とともに池田屋騒動に巻き込まれたが、脱出に成功している。北添佶磨は新撰組に惨殺され、望月亀弥太は自刃した。
野老山吾吉郎
池田屋騒動(融通無碍/南史観<私観>)
~~~~~~~~~~
また、和食には樋口真吉の妹が嫁いでいる。
真吉は東部方面へ出掛けるときには、必ず和食の妹宅に立ち寄っている。この時、和食の勤王志士と交流があったものと思われるが記録にはない。
◆和食の妹
<「幕末足軽物語樋口真吉伝完結編」ではP265>
・・・・・・・・・・・・
元治2年1月17日
芸西の和食(実妹が嫁いでいる)に行く。
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[融通無碍]
◆和食川
筆者が気になるのは芸西の和食川だ。集中豪雨でまれに氾濫することもあるが、普段はごく小さな川幅も狭い川だ。
和食川(融通無碍/南史観<私観>)
高知から、てくてくと歩いて来ると手結山の峠(有名な茶屋餅あり)を越え降りて来ると一筋の流れにぶつかる。和食川だ。
融通無碍/第7話・峠
《シバテン - 令和の現在の和食川にゃ河童が棲んじゅう?》
夏なら履いていた草履を脱いで両手に持ちこの川を渡る。
夏川を 渡る楽しさ 手に草履
読者諸賢も芸西の和食川を夏に訪れ、ニコニコしながら川を渡る真吉の姿を思い描いてたのしむべし。筆者すでに何度も足を運び、毎度この空想をしてはニヤニヤする。
入道雲がモコモコ大きくなる。そうでなくとも暑い。川がある。入れば涼しい。向こう岸に目的地がある。渡らねばならぬし、渡りたい。草履も道中で少し傷んだ。ひょいと脱いで左右の手に持つ。ジャバジャバ音を立てて小川を渡る。川辺の黄色いハマボウの花が鮮やかだ。
=================
[史料] HP/日本の歴史ガイドより
◆龍馬の手紙
菅野覚兵衛(=千屋寅之助)宛て
【原文】
拝啓。然に大極丸は後藤象二郎引受くれ申候。そして小弟をして海援長と致し、諸君其ま〃御修行被成候よふ、つがふ付呉候。是西郷吉が老侯にとき候所と存候。福岡藤次郎此儀お国より以て承り申候。然に此度土州イロハ丸かり受候て、大坂まで急に送り申候所、不計も四月廿三日夜十一時頃、備後鞆の近方、箱の岬と申所にて、紀州の船真横より乗かけられ、吾船は沈没致し、又是より長崎へ帰り申候。何れ血を不見ばなるまいと存居候。
其後の応接書は西郷まで送りしなれば、早々御覧可被成候。航海日記写書送り申候間、御覧可被成候。此航海日記と長崎にて議論すみ候までは、他人には見せぬ方が宜と存候。西郷に送りし応接書は早々天下の耳に入候得ば、自然一戦争致候時、他人以て我も尤と存くれ候。惣じて紀州人は我々共及便船人をして、荷物も何にも失しものを、唯鞆の港になげあげ主用あり急ぐとて長崎に出候。鞆の港に居合せよと申事ならん。実に怨み報ぜざるべからず。早々頓首。四月二十八日才谷龍菅野覚兵衛様多賀松太郎様追而船代の外二千金かりし所、是は必代金御周旋にて御下被成るよふ御頼み申候。
別紙ハ航海日記、応接一冊を西郷ニ送らんと記せしが猶思ふに諸君御覧の後、早々西、小松などの本ニ御廻、付てハ、石川清の助などにも御見せ奉願候。又だきにて御一見の後、御とゞおき被成候てハ、不安候間、御らん後、西郷あたりニ早々御見せ可被下候。実ハ一戦仕りと存候間、天下の人ニよく為知て置度存候。早々。四月廿八日龍菅野様多賀様
【現代文】
①大極丸の件
拝啓、大極丸(海援隊で使うための船)の件は後藤象二郎が引き受けてくれることになりました。
後藤象二郎(融通無碍/南史観<人物評伝>)
私を海援隊隊長とし、諸君も修行(海運業・交易)することの都合をつけて下さい。これは西郷吉之助(西郷隆盛)が山内容堂に説いた話です。
福岡藤次郎(福岡孝悌)がこの話をお国(土佐)からもってきた。
福岡藤次郎(福岡孝悌)(融通無碍/南史観<人物評伝>)
②いろは丸の件
また、土佐藩がいろは丸を借り受けて大阪まで急行したいと申したが、はからずも4月23日の夜11時頃、備後の鞆の浦近くの箱の岬(現在の六浦)という場所で紀州藩の船が横から乗りかかってきて、我々の船は沈没しました。
いろは丸事件(融通無碍/南史観<私観>)
これからまた長崎へ参ります。
何にしても血を見ることになるでしょう。
この後の応接書は西郷まで送りましたので早々にご覧下さい。
航海日誌と写真を送りますのでそれもご覧下さい。この航海日誌は長崎にての示談が済むまでは他人には見せない方がいいと思います。
さらに紀州人は我々と同じように輸送船なので、こちらは荷物も全て失ったと言うのに鞆の浦の港に投げ上げて、主用があるため急ぐと言い長崎に向かいました。鞆の浦の港に居て下さいと申してました。実に恨み深いことです。
慶応3年4月28日
菅野覚兵衛様(海援隊士)
高松太郎様(海援隊士:龍馬の甥)
高松太郎(融通無碍/南史観<人物評伝>)
別紙は航海日誌、応接一冊を西郷に送ろうと記したが、思うに諸君がご覧のあと、早々に西郷、小松などへお回し下さい。
また、中岡慎太郎にも見せて下さい。
中岡慎太郎(融通無碍/南史観<人物評伝>)
また、この件についてはまだ整理が付かず、不安でもあるので西郷あたりに早々に見せて下さい。
この件については一戦も交える覚悟ということを、天下の人に知らせておこうと思います。
いろは丸事件
《日記・倦遣録より》
幕末足軽物語 樋口真吉伝完結編
<「幕末足軽物語樋口真吉伝完結編」ではP282>
・・・・・・・・・・・・
慶応3年5月26日
「大洲船を借りて器械を長崎から運ぶ途中、箱の岬で紀州船と衝突して沈められた」という報せが届いた。
4月23日夜の事故。龍馬が大洲藩から借りたいろは丸が紀州船と衝突した。
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ブログ
土佐の森・文芸/融通無碍(南寿吉著)
編集・発行
土佐の森グループ/ブログ事務局
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南寿吉先生の遺作(高知新聞/2021.7.2)
融通無碍/総集版
2023.08.01.23.54
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幕末足軽物語/関連話<坂本龍馬>
http://mori100s.exblog.jp/241654572/
2024-03-14T01:43:00+09:00
2024-03-14T01:43:02+09:00
2022-11-16T13:09:58+09:00
mori100s
幕末足軽物語
坂本龍馬 龍馬伝(NHK)
天保6年11月15日、
坂本龍馬は、土佐藩郷士(下級武士・足軽)坂本家の二男として生まれた。
22歳年上の兄(権平)と3人の姉(千鶴、栄、乙女)がいた。
幼少時は泣き虫で弱虫のひ弱な少年であった。実母の幸を10歳の時に病気で亡くす。以後、姉の乙女が母代わりに龍馬を教育する。
姉の乙女宛ての手紙(幕末足軽物語/関連話)
龍馬が住んでいる街には河田小龍の塾(寺子屋)があった。
河田小龍(融通無碍/南史観<人物評伝>)
近所の(饅頭屋の倅)近藤長次郎/龍馬と3つ違い、長岡謙吉/龍馬1つ違い、が幼少の頃通っていたという。
近藤長次郎(融通無碍/南史観<人物評伝>)
長岡謙吉(融通無碍/南史観<人物評伝>)
後年、龍馬はこの二人と亀山社中・海援隊で深い繋がりを持つことになるが、幼少の龍馬もこの寺子屋で学んだとすれば3人は、近所の幼なじみということかもしれない。
龍馬の性格形成(融通無碍/南史観<私観>)
弘化3年(1846年)<龍馬12歳> 母・幸死去。小高坂の楠山塾で学ぶが退塾。
嘉永元年(1848年)<龍馬14歳> 日根野弁治の道場へ入門し小栗流和兵法を学ぶ。
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嘉永3年(1850年)、竜馬16歳、真吉36歳
土佐藩直轄の四万十川改修工事が始まり、竜馬は四万十川(土佐藩庁・幡多奉行所)に派遣された。
真吉と龍馬の出逢い(融通無碍/南史観<私観>)
竜馬 四万十川にゆく(融通無碍/第26話)
竜馬の四万十川伝説
竜馬の四万十川伝説(幕末足軽物語/関連話)
桜づつみ公園/四万十市
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嘉永6年(1853年)、龍馬19歳、真吉39歳
龍馬は剣術修行のための1年間の江戸自費遊学を藩に願い出て許された。
出立に際して龍馬は父・八平から『修業中心得大意』を授けられ、溝淵広之丞とともに土佐を出立した。
溝淵広之丞(融通無碍/南史観<人物評伝>)
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4月
江戸に到着し、築地の中屋敷に寄宿し、北辰一刀流の千葉道場の門人となる。
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[融通無碍]
◆龍馬の手紙
姉・坂本乙女に宛てた手紙がある。千葉道場の千葉佐那の印象を記している。
「馬にもよく乗り、剣も出来、なぎなたも出来、力は並みの男子より強く、まず例えばうちに昔いたギンという女の力量くらいはあります。容姿は平井加尾(龍馬初恋の人「平井収二郎の妹」)より少しいいです。」と書き送っている 。
龍馬の手紙<坂本乙女宛て>(幕末足軽物語/関連話)
また、平井収二郞が切腹したとき、妹の加尾を心配した「龍馬の手紙」がある。
龍馬の手紙<坂本乙女宛て>(幕末足軽物語/関連話)
平井収二郎(融通無碍/南史観<人物評伝>)
NHK大河ドラマ龍馬伝(竜馬<福山雅治>と加尾<広末涼子>と平井収二郎)
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6月3日
米国東インド艦隊司令長官ペリー提督率いるアメリカ海軍艦隊が浦賀沖に来航した。(黒船来航)
自費遊学の龍馬も臨時招集され、品川の土佐藩下屋敷守備の任務に就いた。
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[融通無碍]
◆龍馬の手紙
父・坂本八平に宛てた手紙がある。
「戦になったら異国人の首を打ち取って帰国します」と書き送っている 。
龍馬の手紙<坂本八平宛て>(幕末足軽物語/関連話)
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12月
剣術修行の傍ら龍馬は当代の軍学家・思想家である佐久間象山の私塾(=五月塾)に入学した。そこでは砲術をはじめ、漢学、蘭学などの学問が教えられていた。
佐久間象山(融通無碍/南史観<人物評伝>)
佐久間象山の「五月塾」(融通無碍/南史観<私観>)
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◆佐久間象山 江戸の徳丸原砲術演習場。徳丸原は現在の高島平(東京都板橋区高島平)
嘉永4年(1851年)、佐久間象山は松前藩からの依頼で鋳造した洋式大砲の演習を江戸で行ったが、砲身が爆発して大砲は全壊してしまい、観衆から大笑いされ、立ち会っていた松前藩の役人達からは「鋳造費用が無駄になった」と責め立てられてしまう。
しかし象山は「失敗するから成功がある」と述べて平然としており、さらには「今の日本で洋式大砲を製造できるのは僕以外にいないのだから、諸大名はもっと僕に金をかけて(大砲の)稽古をさせるべきだ」と豪語して役人達を呆れさせたという。
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[融通無碍]
嘉永6年のこと(融通無碍/関連史料)
◆黒船来航
浦賀沖にアメリカ軍艦が来航し、日本中が大騒ぎ。黒船騒動だ。
黒船来航(融通無碍/第5話)
黒船来航(NHK動画)
この時、龍馬は剣術修行のため江戸自費遊学中。
黒船騒動を目の当たりにした龍馬(NHK動画)
黒船来航ー揺れる江戸幕府ー(NHK動画)
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[真吉の動静]
嘉永6年4月
*偶々<たまたま>、土佐藩庁の公務で中村に来た上士・福岡藤次が旅館に真吉を招く。
福岡藤次(融通無碍/南史観<人物評伝>)
福岡藤次
この時、藤次はわずか19歳で、かたや真吉39歳。
この年齢差を身分制度は無視する。19歳に見識など期待する方が無理というもの。
しかし真吉は誠実に応対した。二人は酒を飲みながら懇話した。武人としての真吉は既に良く知る福岡藤次だが、予想もしなかった砲術などの新知識と時代認識のもつ鮮烈さに瞠目しただろう。真吉の存在を強く意識した。
龍馬と生まれ年が同じだから3年前に龍馬が中村に来たことも真吉から聞かされたかもしれない。しかもこの時龍馬は剣術修行で江戸に行っていた。
真吉と福岡が出会ったとき、神奈川・浦賀にアメリカの軍艦(黒船)4隻が現われる。天下は騒然となる。
真吉は長崎、江戸で得た新知識とそれまでに師・田所左右次から学んだ基礎土台を活かし、高知県西部の沿岸部に多くの砲台を構築した。
これらの砲台の詳細図面(=『砲台図絵』)が残っている。真吉の自筆である。高知県須崎市から県境の宿毛市の間に作られた砲台全てに関与したといってもいい。むろん、大砲は貧弱粗製で一部は銅製ですらなく、松の板を竹の箍たがで結束した樽のようなものであったという記録も残る。
砲台図絵
その後、福岡藤次は後藤象二郎とともに龍馬らが画策した「大政奉還の建白書」を閣老・板倉周防守に提出(慶応3年10月3日)、13日に徳川慶喜が王政復古(=大政奉還)を布告することになる。
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安政元年(1854年)、龍馬20歳、真吉40歳
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6月23日
龍馬は15か月の江戸修行を終えて土佐へ帰国した。
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[融通無碍]
◆龍馬の手紙
姉・坂本乙女に宛てた手紙がある。
千葉道場の千葉先生の娘・佐那のことについて書き送っている 。
龍馬の手紙<坂本乙女宛て>(幕末足軽物語/関連話)
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7月29日
ペリー提督が再来航して、横浜で日米和親条約(神奈川条約)が調印される。
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11月
土佐藩の絵師・河田小龍から海外事情を聞く。
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[融通無碍]
◆日米和親条約、そして日米修好通商条約へ
再現劇「日米和親条約(下田条約)調印式」
日米修好通商条約(NHK動画)
攘夷策略について<意見/樋口真吉>(融通無碍/南史観<私観>)
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◆河田小龍
河田小龍は絵師として名高い。
坂本龍馬に海からの視点を与えたのは自分であると、明治30年代に自著で明らかにした。
河田小龍(融通無碍/南史観<人物評伝>)
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[真吉の動静]
安政元年3月から8月の間藩命により幡多郡の海防のため各地に砲台を構想し、設計と施工管理に当たった。
大砲の鋳造にも取り組み、中村・下田など幡多郡内17箇所に砲台を築造する。小砲は8月から翌年冬まで多数作った。また私的に(中村の豪商などの援助を得たか)巨砲数門を鋳造する。
【真吉の築いた砲台】
場所は幡多郡下田浦、宿毛・鷺洲、同・大島、橘浦、柏島、沖ノ島、下川口、三崎、清水、中の濱、窪津、下ノ加江浦、布浦、上川口そして佐賀浦の計十四箇所。海防上、特に重要と考えられた下ノ加江には二箇所砲台があったという伝承も残る。
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安政2年(1855年)、龍馬21歳、真吉41歳
龍馬は再度の江戸剣術修行を申請して、8月に藩から1年間の修業が許され、9月に江戸に到着し、大石彌太郎・龍馬と親戚で土佐勤王党を結成した武市半平太らとともに築地の土佐藩邸中屋敷に寄宿した。
長崎ではオランダ軍人による海軍伝習が開始される。
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[融通無碍]
大石彌太郎(融通無碍/南史観<人物評伝>)
武市半平太(融通無碍/南史観<人物評伝>)
長崎海軍伝習所(融通無碍/関連史料)
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[真吉の動静]
この年(安政2年)に中村・文武館が完成した。
真吉は安政6年までの4年間、「文武館」の運営に力を注ぐ。
文武館の運営方針は「来る者は拒まず去る者は追わず」であり、寺子屋要素も含んだ文武の総合的教育機関を目指していたため近辺の子供までもが通っていたという資料もある。
文武館は「樋口道場」の延長線上にあり、この方針は樋口道場の不文律「規則も決まり事もないが、規律はある」が基になっている。
《文武館に集まった門下生は1000人を越えていたともいう。後に、武市半平太の土佐勤王党と対峙する「幡多勤王党」ともいうべき存在になってゆくことになる。》
文武館のこと(融通無碍/関連話)
幡多勤王党<=中村・文武館>(融通無碍/南史観<私観>)
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安政3年(1856年)、龍馬22歳、真吉42歳
初代駐日総領事ハリスが、下田に着任。
ハリスは日米和親条約の11条に記された駐在領事への就任を望み、大統領フランクリン・ピアースから初代駐日領事に任命された。ハリスは日本を平和的に開国させ、諸外国の専制的介入を防いでアメリカの東洋における貿易権益を確保を目的に、日本との通商条約締結のための全権委任を与えられる。
ハリスは江戸城にて将軍・家定に謁見し、米国大統領の親書を奉呈し、公使の江戸駐在と通商条約交渉の開始を要求した。幕府は開国を決定し、全権となった下田奉行・井上清直と目付・岩瀬忠震がハリスとの交渉を開始。
後の安政5年、大老となった井伊直弼が京都の朝廷の勅許無しでの通商条約締結に踏み切り、日米修好通商条約が締結された。これにより初代駐日公使となり、下田の領事館を閉鎖して、江戸の元麻布善福寺に公使館を置くことに。日米修好通商条約はハリス条約(Harris Treaty)とも通称される。
~~~~~~
[融通無碍]
日米修好通商条約(外務省外交史料館蔵)
日米修好通商条約(NHK動画)
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[真吉の動静]
5月に幡多郡越浦<こしうら>に清国・漁船が漂着したおり、真吉は奉行所の命をうけて現地に出向く。
10月には薩摩の軍艦が沖ノ島(高知県宿毛市の離島)近海でオランダ製の錨を海中に落とし、この捜索のため海底を探し回った。
船の錨を失うことは船乗りには非常な不面目であった。藩有船なら船長は切腹ものだったろう。薩摩の紛失した錨を土佐が探したのだから、二藩の良好な関係があったこともわかる。
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安政4年(1857年)、龍馬23歳、真吉43歳
第13代将軍・徳川家定の継嗣問題では血統を重視する立場から紀州藩主の徳川慶福を推挙する南紀派の井伊直弼と、一橋慶喜を推す前水戸藩主・徳川斉昭ら一橋派との対立が激しくなった。
・・・・・・・・・・
10月
龍馬は、藩に1年の修行延長を願い出て許された。
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《安政4年/真吉の動静》
真吉は、5月に幡多奉行所の職を辞した。
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安政5年(1858年)、龍馬24歳、真吉44歳
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1月
龍馬は、師匠の千葉定吉から「北辰一刀流長刀兵法目録」を授けられる。
・・・・・・・・・・
9月
土佐へ帰国した。
土佐藩では、藩主の山内容堂が吉田東洋を参政に起用して、意欲的な藩政改革に取り組んでいた。
また、容堂は水戸藩主・徳川斉昭、薩摩藩主・島津斉彬、宇和島藩主・伊達宗城らとともに将軍継嗣問題では一橋慶喜を推戴して幕政の改革をも企図していた。
しかし、井伊直弼が幕府大老に就任すると、幕府は一橋派を退けて徳川慶福(家茂)を将軍継嗣に定め、開国を強行して反対派の弾圧に乗り出した。(安政の大獄)
・・・・・・・・・・
隅谷は公武合体の勤王論者だった。公武合体論を広げようと各地を遊説し、土佐にも来て龍馬と接触した経験がある。
その印象記に「龍馬は幕閣の名前すら知らない田舎者だった」とある。土佐に絶望して去った。
11月
公武合体の勤王論者の水戸藩士・隅谷寅之助は、公武合体論を広げようと各地を遊説していた。土佐にも来て龍馬とも接触した記録がある。
その隅谷の印象記に
「龍馬は幕閣の名前すら知らない田舎者だった」とある。
土佐に絶望して去った。
隅谷寅之助は、立川御殿の近くの荷宿で龍馬と会見した。
立川御殿(融通無碍/南史観<私観>)
その時に、隅谷に宛てた「龍馬の手紙」がある。
龍馬の手紙(隅谷寅之助 宛て)
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安政6年(1859年)、龍馬25歳、真吉45歳
・・・・・・・・・・
2月
安政の大獄で、一橋派の容堂は、家督を養子・山内豊範に譲り、隠居を余儀なくされた。隠居謹慎したものの藩政の実権は容堂にあり、吉田東洋を中心とした藩政改革は着々と進められた。
吉田東洋(融通無碍/南史観<人物評伝>)
9月20日
土佐藩の西洋流砲術家・徳弘孝蔵に入門、高島流西洋流砲術を習得する。
高島流西洋流砲術(融通無碍/南史観<私観>)
西洋砲術流派の起請文に押された坂本龍馬の血判(左下)
坂本龍馬が砲術を学んだ流派の巻物に龍馬の血判が押されている。
巻物は、西洋砲術流派「高島流」を土佐で教えていた徳弘孝蔵の入門者が、流派の技術を外に漏らさないことを誓う箱入りの起請文(誓約書)で、長さ約13メートル、幅約19センチ。
龍馬の名前や、入門年月日が書かれており、龍馬のサインの上に、茶色く変色した血判が押されている。他に、武市半平太や岡田以蔵のものと見られる血判もある。
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《安政6年/真吉の動静》
真吉は、5月に復職した。
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安政7年(1860年)、龍馬26歳、真吉46歳
3月3日
井伊直弼が江戸城へ登城途中の桜田門外で水戸脱藩浪士らの襲撃を受けて暗殺される。(桜田門外の変)
事件が土佐に伝わると、下士の間で議論が沸き起こり、尊王攘夷思想が土佐藩下士の主流となった。
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7月
龍馬の朋友であり、親戚でもある武市半平太が、武者修行のために門人の岡田以蔵、久松喜代馬、島村外内らとともに土佐を出立した。
龍馬は「今日の時勢に武者修行でもあるまい」と笑ったが、実際は西国諸藩を巡って時勢を視察することが目的であった。
武市半平太(融通無碍/南史観<人物評伝>)
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《安政7年/真吉の動静》
2月に、真吉は幡多を離れて藩東部の香美郡奉行所下役加役に配置換え、これも9月には辞めた。
香美郡奉行所を辞めた後、高知の吸江<ぎゅうこう>に転宅する。三十一番札所竹林寺のある五台山にほど近い内海(浦戸湾の一部)の集落だ。臨済宗の名刹・吸江寺がある。有名な夢窓疎石が暮らし絶海中津、義堂周信が学んだ学問寺だ。真吉の菩提寺、中村の太平寺はこの宗派に属した。
吸江では有志の面々と情報交換しつつ、好きな釣りに興じたかも。のちにこの家を売り払って、容堂に献じた六連発銃を買うことになる。
真吉が赤岡から高知・吸江に転居したことを知った安田町に住む勤王医師(龍馬の長姉の連れ合い)高松順三(号:小埜<しょうや>)が真吉に送った和歌が残っている。(=「採樵録」は高松の歌集でこの中にある)
上記一首のほか真吉が最初に安田を訪問した際に作られた歌も採樵録にある。
真吉は香美郡奉行所(赤岡にあった)に勤務したから五藤氏の領地・安芸を過ぎ少し東に進むと高松の住む安田はすぐそこだ。一日で往復可能な距離。
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文久元年(1861年)、龍馬27歳、真吉47歳
4月
武市半平太は大石彌太郎の招聘(名目は剣術修行)で江戸に上り、水戸・長州・薩摩などの諸藩の藩士と交流を持った。
大石彌太郎(融通無碍/南史観<人物評伝>)
土佐藩の勤王運動が諸藩に後れを取っていることを了解し、武市は長州の久坂玄瑞、薩摩の樺山三円と各藩へ帰国して藩内同志の結集を試み、藩論をまとめ、これをもって各藩の力で朝廷の権威を強化し、朝廷を助けて幕府に対抗することで盟約を交わした。
武市は江戸で密かに少数の同志とともに「土佐勤王党」を結成し、盟曰<めいえつ>を決めた。
土佐勤王党(融通無碍/南史観<私観>)
武市は土佐に戻って192人の同志を募り、龍馬は9番目、国元では筆頭として加盟した。武市が勤王党を結成した目的は、これを藩内勢力となして、藩の政策(主に老公山内容堂の意向)に影響を与え、尊王攘夷の方向へ導くことにあった。
真吉は秘密裏に結成された土佐勤王党のご意見番的地位にあった。が、真吉は思うところがあり土佐勤王党への加盟はなかった。
山内容堂(融通無碍/南史観<人物評伝>)
勤王党結成以来、武市は藩内に薩長二藩の情勢について説明をするのみならず、土佐もこれに続いて尊王運動の助力となるべきと主張した。
しかし、参政吉田東洋をはじめとした当時の藩政府は「公武合体」が藩論の主要な方針であり、勤王党の尊王攘夷の主張は藩内の支持を得ることができなかった。
吉田東洋(融通無碍/南史観<人物評伝>)
公武合体(融通無碍/南史観<私観>)
脱藩挙藩勤王を目指す武市は、積極的に方策を講じるとともに絶えず諸藩の動向にも注意し、土佐勤王党の同志を四国・中国・九州などへ動静調査のために派遣しており、龍馬もその中の一人であった。
武市半平太が帰国(融通無碍/南史観<人物評伝>)
幕末足軽物語/関連話<武市半平太>
龍馬が派遣された長州・久坂玄瑞の元へは、吉村虎太郎、大石団蔵も派遣されている。
吉村虎太郎(融通無碍/南史観<人物評伝>)
大石団蔵(融通無碍/南史観<人物評伝>)
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10月
龍馬は丸亀藩への「剣術詮議」(剣術修行)の名目で土佐を出た。
~~~~~~
[融通無碍]
龍馬が土佐を出た日のことが、真吉の日記(倦遣録)に記録されている。
◆倦遣録
倦遣録(原本:四万十市立郷土資料館蔵)
倦遣録は文久元年9月3日から慶応3年2月26日までの、真吉の日記だ。
日記・倦遣録(融通無碍/南史観<私観>)
融通無碍<第30話>日記:倦遣録/樋口真吉
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文久元年10月11日
坂竜飛騰と記す。(この日、龍馬は武市半平太の密命で長州へ向かった。)
~~~~~~
[融通無碍]
真吉日記中、もっとも有名な文言だ。坂本龍(=竜)馬→坂竜だろう。
飛騰は中国の詩人屈原がその著書「楚辞」で使った言葉、同郷の詩人・間崎哲馬の詩にも出る。
《飛翔して碧空に騰<とう>せよ》
「坂本龍馬という人間が、蟠わだかまる龍が貯めたエネルギーを一気に噴出して大空に沸騰するかのように飛翔する」の意味か。
親交があった二人は連絡を取り合っていたのだろう。香川県丸亀に剣術修行を名目として土佐を出国する龍馬の真の目的を真吉は知っていたようだ。それは長州に使いして、密書(久坂玄瑞にあてた武市半平太の手紙)を届けること。
坂竜飛騰(融通無碍/南史観<私観>)
~~~~~~~
文久2年2月、
武市半平太が長州の久坂玄瑞の元へ送った吉村虎太郎から、薩摩藩国父・島津久光が精兵2,000をもって率兵上京するとの情報がもたらされた。(真吉は文久元年の暮れにはこの情報をつかんでいる。)
吉村虎太郎(融通無碍/南史観<人物評伝>)
龍馬も密命を果たし長州から久坂玄瑞の返書を持って帰着した。
久坂玄瑞ら攘夷派は、島津久光の上京を「攘夷のための挙兵である」と勝手に解釈しており、吉村虎太郎は武市半平太に「脱藩して薩摩の勤王義挙に参加すべし」と説くが、半平太は飽くまでも一藩勤王の実現を目指すべきだと自重を促した。(久光の上京は幕府に「公武合体」をせまるものであった。攘夷のためどころか、京では自藩の尊攘派過激分子を粛清<寺田屋騒動>している。)
吉村は半平太の指図に納得せず、宮地宜蔵とともに脱藩して長州へ向かい、次いで沢村惣之丞、(吉村と同じく半平太が久坂の元に送った)坂本龍馬も脱藩してしまった。
龍馬の脱藩について半平太は後に
「龍馬は土佐の国にはあだたぬ(収まりきらぬ)奴。広い処へ追い放してやった」と語っている。
龍馬脱藩(融通無碍/南史観<私観>)
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[融通無碍]
薩摩の島津久光が1000人の兵を引き連れて江戸にのぼり、徳川幕府に体制の変革(公武合体論)を迫った。
島津久光(融通無碍/南史観<人物評伝>)
公武合体(融通無碍/南史観<私観>)
公武合体は、なんとも微温的で日本人好みの「足して二で割る」予定調和的世界だ。妥協の世界だ。
予定通り(思惑通り)ことが進めば何の問題もなく、ものごとはすべて調和して収まるが、当てが外れると「とんでもない事」になる。
幕末の混乱は、その「とんでもない時代」であった。
予定調和(融通無碍/第21号)
京都には、尊王攘夷派の過激な浪士(志士)が集まるようになり、京都の治安が悪化した。
そこで幕府は京都に新しく「京都守護職」という幕府の役職を置いて、京中の警備に当たらせた。
京都守護職には会津藩主・松平容保が火中の栗を拾う覚悟で就任した。
本陣を京都市左京区黒谷の金戒光明寺に置いた。
金戒光明院は鳥羽・伏見の戦いで戦死した会津藩士の菩提を弔っている。
京都守護職の下には京都見廻組、 新選組の実働部隊が作られた。
新選組(融通無碍/南史観<私観>)
島津久光が上洛したのは、そのとんでもない時代=文久2年のこと
(3月16日鹿児島出発、4月16日京都着、6月7日江戸着、9月7日鹿児島帰着)
京では伏見の寺田屋に集結した有馬新七ら自藩の尊攘派過激分子を粛清する寺田屋事件を起こした。(4月23日)
寺田屋事件(融通無碍/南史観<私観>)
江戸では目的をほぼ達成、帰路には武蔵国橘樹郡生麦村でイギリス人を殺傷する「生麦事件」を起こした。(8月21日)
生麦事件(融通無碍/南史観<私観>)
生麦事件は、その後の「薩英戦争」、そして英国を後ろ盾とした薩摩藩による「倒幕の陰謀」、「戊辰戦争」へと繋がってゆく。
文久2年のことども(融通無碍/南史観<私観>)
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龍馬は長州から帰着後、武市半平太の吉田東洋暗殺計画を知った。
吉田東洋(融通無碍/南史観<人物評伝>)
それが実行される直前、3月24日夜城下を立ち脱藩した。前年秋からこの2月まで半平太のために長州に使いした龍馬が、である。
龍馬は吉田東洋暗殺計画を知り、その醜さを嫌悪したのだろう。半平太の人格に自分と相容れない決定的異質をみた。
脱藩を決意する前に真吉に手紙を書いたかもしれない。
前年の秋に龍馬の丸亀行き(本当の行き先は長州で久坂玄瑞に逢うこと)を「坂竜飛騰」と書いた真吉が龍馬脱藩については、その前後の日記に一切触れていない。それまでの親交を考えれば腑に落ちぬことではないか。
長州滞在中に書簡の往復があったか。龍馬が長州に赴いている間に真吉が半平太との確執から中村に帰ってしまったこと、真吉の帰郷が龍馬に何らかの示唆を与えたのか。
相談することなしに両者は「龍馬なら」、「樋口のおんちゃんなら」と符合したのだろう。
龍馬は脱藩した。
脱藩する龍馬(NHK動画)
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《文久元年/真吉の動静》
【日記・倦遣録】<文久元年9月3日=起筆>
樋口真吉の残した日記『倦遣録(けんけんろく)』(原本:四万十市立郷土資料館)
文久元年9月3日から慶応3年2月26日までの日記だ。
幡多沿岸の医儒の姿を真吉は「愚庵」と記し、臨床医の如く社会の病を治す心境だったのか、日記・遣倦録を当初「愚庵筆記」と題した。(角田慶子記)
融通無碍<第30話>日記:倦遣録/樋口真吉
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文久2年(1862年)、龍馬28歳、真吉48歳
1月
龍馬は長州萩を訪れ、長州藩における尊王運動の主要人物である久坂玄瑞と面会、久坂から「草莽崛起、糾合義挙」を促す武市宛の書簡を託された。
萩へ向かう途中で宇和島藩に立ち寄り、窪田派田宮流剣術師範・田都味嘉門の道場に他流試合を申し込むが、この田都味道場には土居通夫、児島惟謙がいた。
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[融通無碍]
田都味嘉門(融通無碍/南史観<人物評伝>)
◆土居道夫
田都味道場へ坂本龍馬がやってきて他流試合を申し込まれ、この時に龍馬から「脱藩すればいい、こんな城下で何ができるのか。」と言われる。この時は驚いたが後に脱藩する行動のきっかけとなった。
慶応元年、勤皇を志して脱藩、土肥真一と改名して大坂に出る。大身代の金貸し・高池三郎兵衛家で、用心棒として奉公。剣だけでなく金銭出納の能力を発揮する。半分商人の剣客として大阪で評判になった頃、宇和島で匿われていた薩摩藩の中井弘と再会したことがきっかけで勤皇運動に関わる。鳥羽・伏見の戦いにおいて土佐藩の後藤象二郎配下で活躍、遠からず京が戦乱に巻き込まれるから、その時は宇和島藩邸に米を送ってほしいと、大津の米問屋で依頼する。戦いの後、この功を認められたこと、薩摩藩からの謹白書が出されたことで帰藩する。
後に、大阪商業会議所会頭に22年間在任、近代大阪財界の基盤を固めた五代友厚亡きあとの大阪財界最有力指導者として活躍した。通天閣を建設する。
大阪商工会議所の土居通夫像
◆児島惟謙
少年期、田都味嘉門の道場へ入門、大阪財界の大立役者となる土居通夫と剣術修業に励む。 慶応元年<1865>に長崎に赴いて坂本龍馬、五代友厚らと親交を結んだ。慶応3年<1867>に脱藩して京都に潜伏し、勤王派として活動した。戊辰戦争にも参戦した。
明治24年<1891>に大審院長に就任する。大津事件の際には、大審院長として司法権の政治部門からの独立を守り抜き、「護法の神様」と高く評価された。
児島惟謙胸像(関西大学)
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2月
龍馬は、長州からもどり土佐に帰着した。
このころ、薩摩藩国父・島津久光の率兵上洛の知らせが吉村虎太郎により土佐に伝わる。
島津久光(融通無碍/南史観<人物評伝>)
土佐藩が二の足を踏んでいると感じていた土佐勤王党同志の中には脱藩して京都へ行き、薩摩藩の勤王義挙に参加しようとする者が出てきた。
これは実際には島津久光が幕政改革を進めるための率兵上洛であったが、尊攘激派の志士の間では討幕の挙兵と勘違いされたものであった。
尊攘派志士の期待と異なり、島津久光の真意はあくまでも公武合体であり、尊攘派藩士の動きを知った久光は驚愕して鎮撫を命じた。
しかし、薩摩藩の勤王義挙に参加するべく、まず吉村虎太郎が、次いで沢村惣之丞らが脱藩し、彼らの誘いを受けて龍馬も脱藩を決意したものと思われる。
脱藩とは藩籍から離れて一方的に主従関係の拘束から脱することであり、脱藩者は藩内では罪人となり、さらに藩内に留まった家族友人も連座の罪に問われることになる。
武市は藩を挙げての行動を重んじ、草莽の義挙には望みを託さず脱藩には賛同しなかった。
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3月24日
龍馬が脱藩した。
龍馬、脱藩!!(融通無碍/南史観<私観>)
脱藩する龍馬(NHK動画)
既に脱藩していた沢村惣之丞や、那須信吾(のちに吉田東洋を暗殺して脱藩し天誅組の変に参加)の助けを受けて土佐を抜け出した。
沢村惣之丞(融通無碍/南史観<人物評伝>)
龍馬の片腕、沢村惣之丞(長崎龍馬便り)
那須信吾(融通無碍/南史観<人物評伝>)
吉田東洋(融通無碍/南史観<人物評伝>)
天誅組(融通無碍/南史観<私観>)
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[融通無碍]
◆天誅組の総裁は「津野山郷の吉村虎太郎」
吉村虎太郎象(高知県津野町)
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龍馬が脱藩を決意すると、兄・権平は彼の異状に気づいて強く警戒し、身内や親戚友人に龍馬の挙動に特別に注意することを要求し、龍馬の佩刀を全て取り上げてしまった。このとき、龍馬と最も親しい姉の乙女が権平を騙して倉庫に忍び入り、権平秘蔵の刀「肥前忠広」を龍馬に門出の餞に授けたという逸話がある。
脱藩した龍馬と沢村は、まず吉村寅太郎のいる長州下関の豪商白石正一郎宅を訪ねたが、吉村は2人を待たずに京都へ出立していた。
吉村虎太郎(融通無碍/南史観<人物評伝>)
白石正一郎(融通無碍/南史観<人物評伝>)
白石正一郎旧宅跡<高杉晋作奇兵隊結成の地> (下関)
白石正一郎の邸宅(招賢閣)は、当時は全国の脱藩の志士達がたむろする<情報を交換する、議論をする>場所になっていた。
高杉晋作の奇兵隊が結成された場所としても知られる。
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[融通無碍]
◆招賢閣とは・・・
長州藩と朝廷内の尊皇攘夷派を排除するためのクーデター(8月18日の政変/七郷落ち)で、三条実美をはじめ七卿が都落ちをして来た時の宿所であり、脱藩の志士達の議論の場となった場所。
8月18日の政変(融通無碍/南史観<私観>)
蛤御門の変(NHK動画)
長州藩は七卿を賓客として迎え入れ、公邸である三田尻御茶屋の招賢閣を七郷の居館とした。
中岡慎太郎が、招賢閣会議員として尊皇攘夷派浪士たちの指導的役割を担う志士として活動していた。慎太郎は土佐で土佐勤王党が排斥されたこともあり七卿の傘下として動くことになる。
中岡慎太郎(融通無碍/慎太郎伝<片岡正法>)
七卿は招賢閣で長州藩の奇兵隊を護衛とし、高杉晋作らと武力上京について協議している。
また、中岡慎太郎は京都の公家と実美を提携させることを模索していた。その連携相手がかつての政敵である岩倉具視であった。実美は岩倉がかつての「大姦物」であると難色を示したが、岩倉の縁戚である東久世通禧の説得で提携を受け入れた。
岩倉具視(NHK動画)
慎太郎は、これを契機に三条実美の随臣(衛士)となり、朝廷とも繋がりを持つことになる。
三条実美(融通無碍/南史観<人物評伝>)
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4月8日
吉田東洋が暗殺され(勤王党の犯行とされる)、武市半平太が藩論の転換に成功して藩主の上洛を促していた。
吉田東洋(融通無碍/南史観<人物評伝>)
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4月23日
寺田屋事件が起こり薩摩藩尊攘派は粛清、伏見で義挙を起こそうという各地の尊皇攘夷派の計画も潰えた。吉村はこの最中に捕縛されて土佐へ送還されている。
当面の目標をなくした龍馬は、一般的には沢村と別れて薩摩藩の動静を探るべく九州に向かったとされるが、この間の龍馬の正確な動静は明らかではない。
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[融通無碍]
◆龍馬、脱藩後の足取り
龍馬は3月末、脱藩した後、中国筋を経て九州に入る。長崎を見たあと薩摩入りを図ったが関所の固め厳しく果たせずUターンして大坂京を目指した。
通説では脱藩後の足取りは不明で、その年の暮れに福井藩の松平春嶽、幕臣勝海舟などに会うまでは空白とされる。
が、これは史料をさがす努力に欠けるというべきで、真吉日記のほか同年9月、江戸にいた間崎哲馬の書簡には「外輪には坂本龍馬・・・」とあり、脱藩の身故、江戸藩邸に顔出しこそしないが、江戸市中に潜伏していた事実は歴然だ。
潜伏先は土佐藩とは全く無関係な外輪の千葉道場というのが定説。
また、龍馬と松平春嶽がどのようにして会ったのかは諸説あるが、千葉道場の千葉貞吉が福井藩の剣の指南役を務めており、その伝もあったという説もある。
4月から11月までの「空白の8ヶ月」に真吉日記と間崎書簡から確実な二点(大坂と江戸)が打ち込まれる。これで行動の推定が容易になる。
「3月に高知をでて、暮れは江戸にいた」の始点と終点のみの情報で、その間の龍馬の行動を推し量るは乱暴だ。なぜ今までの歴史家は点と点の間にあるはずの点を探す努力を怠ったか。
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7月
龍馬は大坂に潜伏、街中で真吉と出逢っている。
龍馬は望月清平と連絡をとり、自らが吉田東洋暗殺の容疑者とみなされていることを知らされる。
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文久2年7月23日
竜馬に逢う。一円贈る。平井収二郎が京に帰る。
竜馬に逢う、一円贈る(融通無碍/南史観<私観>)
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[融通無碍]
真吉は龍馬に1円(=一両)を渡した。当時の一両は東海道の2食付安宿なら、おおよそ20泊が可能な金額。別れに真吉一言いう。
「龍馬、へんしも江戸にいけ。遅いことなら誰でもする」
京の混乱事情を熟知していた真吉は、大坂街中で、京ではなく江戸へゆけと示唆した。
江戸までの路銀に足る金子のほか、大きなものを与えた。「真吉の人脈」である。
これにより、龍馬はわらしべ長者のように次々と「龍馬の人脈」をつくり、最終的には勝海舟の門下生となる。
勝海舟の門下生になったことにより、伊豆下田での「龍馬脱藩の罪が赦免される」ことになる。
伊豆・下田でのこと<龍馬、赦免!!>(融通無碍/南史観<私観>)
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◆竜馬と平井収二郎
同年生まれで親交が深く、収二郎の妹・加尾は龍馬の初恋の人という説がある。文久3年(1863)6月に収二郎が切腹させられると龍馬は姉・乙女宛ての手紙で「平井収二郎のことは誠にむごい、妹の加尾の嘆きはいかばかりか」と加尾を案じている。
平井収二郎(融通無碍/南史観<人物評伝>)
NHK大河ドラマ(竜馬<福山雅治>と加尾<広末涼子>と平井収二郎)
馴しミ国の 春なわすれそ(NHK動画)
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壬戊日記には
「市中に於いて竜馬に逢い、一円を与えて別れる」とある。
龍馬は、この年3月末に脱藩した。
龍馬脱藩(NHK動画)
そして、約4ヵ月後に、大坂市中で真吉に逢う。平井収二郎も一緒だったか。
龍馬、脱藩!!(融通無碍/南史観<私観>)
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[融通無碍]
脱藩に当たり龍馬は才谷屋の秘蔵する銘刀を持ち出したらしい。脱藩途中に立ち寄ったらしい土佐・須崎では便所に行くにも刀を気にしていたという情報がある。よほど高価な刀だったのだろう。
良い刀には良い拵えが必須だ。その拵えを売り食いしながら脱藩の旅を続けた。大坂での別の目撃談によれば龍馬の刀の柄糸がほどけ、手拭いで巻いてあったという。
握り部分の飾り細工の頭かしらとか縁ふちは金銀を使う等高価な物である。だから売れば旅費の足しになる。がこれらは柄糸を固定する働きがある。この両方を売り飛ばせば柄糸はよれよれとなり、みっともない格好になる。
柄糸の内側には豪華な目貫めぬきもあっただろう。小柄も笄こうがいなどはとうの昔に売り払って食費にしただろう。
坂本龍馬の刀【陸奥守吉行 】
竜馬に逢う 一円贈る(融通無碍/南史観<私観>)
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◆肌付きの一両
龍馬の尾羽打ち枯らした哀れな姿を見て真吉は即座に金を与えた。
当時士さむらいには面白い慣習があった。
『肌付きの一両』という。
懐中の巾着が空になっても肌身離さず身に着けた小判。たった一両だが、これさえあれば急場は凌げたらしい。その用心のため必ず身に着けることを励行したという。廉恥を知る者は不時に備え常に準備を怠らないものだ。
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真吉は藩主に随行して大坂長堀の藩邸にいた。大坂は真吉には土地勘があり街中をぶらぶら歩く。大坂の夏は蒸し暑い。夕凪で風もぴたりと止まり商家の軒先の暖簾もはただ暑苦しげにぶら下がっている。西日が通りを煎り付けるように差している。
少し先の小路から出てきた男がいる。自分に背を見せて同じ方向にふらふらしながら歩いている。旅の若者のようだ。「尾羽打ち枯らした」の形容がぴったりとするひどい姿だ。
背が高く、どこか見覚えのある後ろ姿だ。刀は一本差し、ぼうぼうの頭髪は癖毛で細い髷が乗っている。
(竜馬じゃないか)
汚い衣服からは追いつくより早く悪臭が漂ってくる。長い間洗われていない犬のような臭いだ。垢まみれの手足がのぞく。
「龍馬、おんしゃあ、どうした」
「ああ、真吉のおんちゃん。アシはもうふらふらよ」
「そんなこたぁ、見りゃ分かっちょう」
「3日、風呂にも宿にも・・・」
「わかった。ちくと裏へ行こ」
真吉は龍馬に一両渡した。当時の一両は東海道の二食付安宿なら、おおよそ二十泊が可能な金。
この金子で龍馬は江戸を目指すことに。別れに真吉、一言う。
「竜馬へんしも江戸にいけ。遅いことなら誰でもする。」
当時の勤王の志士は京を目指して行動を起こしたが、真吉は龍馬に江戸へ行くことを示唆した。そのため、龍馬に「金子と人脈」を与え、このことが後の龍馬の人生・運命を決定づけることになる。
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炎熱の7月、大坂街中で真吉は竜馬と逢って江戸への路銀に足る金子のほか大きなものを与えた。人脈である。
「剣名は捨てよ、江戸へ行ったら間崎哲馬に逢え。」
間崎哲馬(融通無碍/南史観<人物評定>)
(江戸にいた哲馬の書簡に「外輪には坂本龍馬が・・・」という記録があり、江戸藩邸に顔出しこそしないが市中に潜伏して哲馬と接触していた事実は歴然だ。)
時局に開眼するため人物を知れ。九州での実見は最新だから江湖の人士を瞠目させるに価する。お前にはワシから学んだ海防論がある。ジョン万の体験も詳しく知る。
哲馬は盲目的な尊皇攘夷論者ではない。開明派だ。半平太勤王党のブレーンだが、かれとは一線を画す。
お前は暗殺を嫌い国抜けした。
ならば今後の方向を決めるために哲馬の意見は参考になるはずだ。
その後、龍馬は哲馬を介して福井藩主・松平春嶽、幕臣・勝海舟の知遇を得る。
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8月
龍馬は江戸に到着した。
江戸で、龍馬は土佐藩の同志(真吉が紹介した間崎哲馬、近藤長次郎)、長州藩の久坂玄瑞や高杉晋作らと交流した。
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文久2年8月(幕末足軽物語/関連話)
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12月5日
龍馬は間崎哲馬や近藤長次郎とともに幕府政事総裁職にあった前福井藩主・松平春嶽に拝謁した。
松平春嶽(融通無碍/南史観<人物評伝>)
春嶽から幕府軍艦奉行並・勝海舟への紹介状を受けた龍馬と門田為之助・近藤長次郎は海舟を訪問して門人となった。
龍馬は海舟に心服し、姉・乙女への手紙で海舟を「日本第一の人物」と称賛している。
日本第一の人物/勝海舟
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[融通無碍(南寿吉著)]
文久2年のことども(融通無碍/南史観<私観>)
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《文久2年/真吉の動静》
【日記・倦遣録】
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文久2年6月28日
「北山道」と呼ばれる参勤交代の道が残っている。高知城から見て「北の方に抜ける道」ということから「北山道」と言われるようになった。
参勤交代(融通無碍/南史観<私観>)
吉田東洋暗殺事件のために延期になっていた藩主・山内豊範の参勤交代が出立。
参勤交代行列の人数は通常600人程を、2,000人に増員した大部隊になった。真吉は藩主辺警要員で随行した。
武市半平太をはじめ島村衛吉・平井収二郎ら土佐勤王党の同志数10人も供奉した。
参勤交代の一行は播磨国姫路で麻疹の集団感染が発生して、豊範も罹患したため大坂での約1ヵ月の逗留を余儀なくされた。
この大坂逗留中に、真吉は脱藩直後の龍馬に逢っている。
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文久2年7月23日
真吉の壬戊日記に
「大坂市中に於いて龍馬に逢い、一円を与えて別れる」とある。
竜馬に逢う 一円贈る(融通無碍/南史観<私観>)
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真吉は藩主に随行して大坂長堀の藩邸にいた。大坂は真吉には土地勘があり街中をぶらぶら歩く。大坂の夏は蒸し暑い。夕凪で風もぴたりと止まり商家の軒先の暖簾もはただ暑苦しげにぶら下がっている。西日が通りを煎り付けるように差している。
少し先の小路から出てきた男がいる。自分に背を見せて同じ方向にふらふらしながら歩いている。旅の若者のようだ。「尾羽打ち枯らした」の形容がぴったりとするひどい姿だ。
背が高く、どこか見覚えのある後ろ姿だ。刀は一本差し、ぼうぼうの頭髪は癖毛で細い髷が乗っている。
(竜馬じゃないか)
汚い衣服からは追いつくより早く悪臭が漂ってくる。長い間洗われていない犬のような臭いだ。垢まみれの手足がのぞく。
「龍馬、おんしゃあ、どうした」
「ああ、真吉のおんちゃん。アシはもうふらふらよ」
「そんなこたぁ、見りゃ分かっちょう」
「3日、風呂にも宿にも・・・」
「わかった。ちくと裏へ行こ」
真吉は龍馬に一両渡した。当時の一両は東海道の二食付安宿なら、おおよそ二十泊が可能な金。
この金子で龍馬は江戸を目指すことに。別れに真吉、一言う。
「竜馬へんしも江戸にいけ。遅いことなら誰でもする。」
竜馬に逢う 一円贈る(融通無碍/南史観<私観>)
当時の勤王の志士は京を目指して行動を起こしたが、真吉は龍馬に江戸へ行くことを示唆した。そのため、龍馬に「金子と人脈」を与え、このことが後の龍馬の人生・運命を決定づけることになる。
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炎熱の7月、大坂街中で真吉は竜馬と逢って江戸への路銀に足る金子のほか大きなものを与えた。人脈である。
「剣名は捨てよ、江戸へ行ったら間崎哲馬に逢え。」
間崎哲馬(融通無碍/南史観<人物評定>)
(江戸にいた哲馬の書簡に「外輪には坂本龍馬が・・・」という記録があり、江戸藩邸に顔出しこそしないが市中に潜伏して哲馬と接触していた事実は歴然だ。)
時局に開眼するため人物を知れ。九州での実見は最新だから江湖の人士を瞠目させるに価する。お前にはワシから学んだ海防論がある。ジョン万の体験も詳しく知る。
哲馬は盲目的な尊皇攘夷論者ではない。開明派だ。半平太勤王党のブレーンだが、かれとは一線を画す。
お前は暗殺を嫌い国抜けした。
ならば今後の方向を決めるために哲馬の意見は参考になるはずだ。
その後、龍馬は哲馬を介して福井藩主・松平春嶽、幕臣・勝海舟の知遇を得る。
松平春嶽(融通無碍/南史観<私観>)
文久3年5月に龍馬が福井を訪れたとき、春嶽は神戸海軍操練所の運営資金を融通している。
また、慶応3年10月、龍馬暗殺の直前にも、龍馬は福井を訪れ、新政府が取るべき経済政策について談義している。
大政奉還と竜馬暗殺(融通無碍/南史観<私観>)
・・・・・・・・・
文久2年8月(幕末足軽物語/関連話)
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西国筋探索御用の旅(融通無碍/南史観<私観>)
[文久2年9月11日~11月2日]
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文久3年(1863年)、龍馬29歳、真吉49歳
・・・・・・・・・・
文久3年1月
1月3日
京都から長尾太郎兵衛が御使者として到来する。隠居・容堂の一刻も早い入洛を強く促す勅書を持参していた。
・・・・・・・・・
1月10日
真吉は「御隠居様(山内容堂)御供」を以って蒸気船太鵬丸に乗船する。
御供人数63人、家老・深尾丹波、御用役は寺村左膳と乾退助(=板垣退助)、目付は小南五郎右衛門、御侍<おさむらい>衆(=上士)は合計33人。歩行以下(=下士)は30人。外に幕府の旗本・加藤安太郎、同・小野友五郎が航海術指南役として乗る。
船は筑前船である。船将は松本主殿で水手総人数が150人ばかり。
黄昏、鮫津<さめつ>(容堂はここに隠居していた)砲台前で乗船する。一晩船内で過ごして様子を見る。
寺村左膳(融通無碍/南史観<人物評伝>)
板垣退助(融通無碍/南史観<人物評伝>)
小南五郎右衛門(融通無碍/南史観<人物評伝>)
・・・・・・・・・
11日
夜徹どおしの準備作業を水主らが続けて、朝五ツ時(8時ごろ)船の蒸気が立ち始める。出航だ。
十八里(72km)海路を進み浦賀を過ぎて、黄昏に伊豆・下田港に達す。ここまで江戸から三十六里(148km)だ。さすがに蒸気船は速い。
・・・・・・・・・
12日
風向きが悪く滞泊する。容堂は上陸して宝福寺に休憩する。
・・・・・・・・・
15日
攝海(大阪湾)を出航した蒸気式幕船(=順動丸)が入港して来た。
この船は勝麟太郎が乗り組んでいる。わが藩の①高松太郎②千屋虎之助③望月亀彌太も航海術修行のためこの船に乗っている。
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《融通無碍》
①高松太郎
高松順蔵に嫁いだ龍馬の長姉(千鶴)の長男で、子供のなかった龍馬家の跡取り(坂本直)である。
高松順蔵(融通無碍/南史観<人物評伝>)
高松太郎(融通無碍/南史観<人物評伝>)
②千屋虎之助
③望月亀彌太
文久2年(1862年)、山内容堂を警護する五十人組に参加、中岡慎太郎、千屋虎之助、望月亀弥太らが江戸へ。江戸で勝海舟の弟子となる。
五十人組(融通無碍/南史観<私観>)
中岡慎太郎(融通無碍/南史観<人物評伝>)
千屋虎之助(融通無碍/南史観<人物評伝>)
望月亀弥太(融通無碍/南史観<人物評伝>)
~~~~~~~
◆山内容堂と勝海舟
1月15日夜、伊豆下田・宝福寺で行なわれた容堂と幕臣・勝海舟(麟太郎)との会談について述べる。
この話し合いで坂本龍馬は前年3月に犯した脱藩の罪を許された。赦免である。脱藩は大罪だから、この烙印が付いている限り公然と表社会を歩けない。身分制の武家社会では藩から追放されあるいは逸脱した者を受け入れる他藩はあり得ない。
いわば『回状』というものが存在し「この者は故あって絶縁した。もし、この者に構うなら私に敵対することになる。覚悟してお取り扱いなされよ」である。土佐藩の犯罪者を他藩は受け入れできない仕組みだった。
この規制も幕末期には若干弛緩していたが、公然に近い形で行動するには「脱藩者」の烙印は大きな障害だったことに違いはない。志士たちも藩庁と共同一致して動けば効果が上がるし、外からの圧力も恐れる必要がない。
土佐藩の幕末悲劇の大元はここにある。藩上層部と下層部の齟齬・軋轢<あつれき>(食い違い)である。端的に言えば藩創設以来、徳川から受けた厚恩のみを思う上層部と世直しを考える下層部の対立だ。
下田・宝福寺での対談は容堂が海舟を招く形で行なわれた。
伊豆・下田でのこと(融通無碍/第4話)
伊豆下田の宝福寺で山内容堂と勝海舟の会談が行なわれた。龍馬赦免、その後(2月~3月)の龍馬の動静を、真吉は詳細に記録している。
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文久3年2月22日
真吉は容堂との「お目通り仰せ付けられる」
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《融通無碍》
日記に真吉は「御目通り仰せ付けられる」と書いた。もちろん、御目通りの相手は隠居・容堂だ。
どんな御目通りだったのか。
日記には何も書かれてない。が態々<わざわざ>書いたから理由があろう。
御目通りなら側近・寺村左膳がお側に詰めていた可能性もある。
寺村左膳(融通無碍/南史観<人物評伝>)
では、同日の「左膳日記」を見てみよう。
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【寺村左膳日記】
文久3年2月22日
坂本龍馬の事
此者郷士也、先年勤王論を以御国出奔、薩長之間を奔走し、頗<すこぶ>ル浪士輩之名望アリト云当時勢ニ而召返され可然と云之論有り
(坂本龍馬は郷士である。先年勤王論で国を出奔したが、薩長の間を走り回って意見調整し、浪士達の間で評価が高いという。今の時勢であるからこの男を土佐に召し返すのが当然だという意見がある)
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《融通無碍》
この寺村左膳の記述は龍馬以外、固有名詞も数値もないから後で思い出して書くことも可能な内容だ。
だが、筆者がかれの日記を読んで感じたのは『これは誠実の人』だった。揺れ動く幕末を定点観測できる人。軸がぶれない人だと思った。
慶応4年1月、容堂は佐幕から倒幕へ突然転換する。これは当然事前に側近に漏らしておくべきことだった。
容堂の唐突な変節・変心を知らぬ左膳は戊辰戦争での戦功を焦る勤王過激派連中(=武市の残党)の餌食となった。
容堂が倒幕戦争に参戦するとは夢想だにしなかった寺村左膳は、好戦的な連中を容堂の身辺に近づけないのが側近の役目と考えていた。
だから逆に左膳は側近の立場を奪われ土佐に強制送還、追放刑を受け土佐の東端で阿波との境の僻村・甲浦<かんのうら>に閉塞された。
赦免されたあと、日野春草と改名し江戸に出て、最後は日本赤十字の幹部となって江戸に歿した。
当時の心境を聞いてみたいが決して語るまい。追い込んで問えば「当時は色々ありましたね・・・」くらいは答えてくれようか。
容堂の配慮のなさ、思いやりの浅さを思う。
貴人は薄情というがその典型だったかもしれぬ。大法螺を吹く前にその影響を考えるような冷静さは持ち合わせていなかった。
容堂は聞いたこと、思ったことをそのまま口にする「口耳四寸の知」の輩だった。
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真吉が容堂との「お目通り」で「坂本龍馬の事」を意見したと思われる。土佐に召し返すことは叶わず、竜馬暗殺後に、このくだりを削除したのではなかろうか。
真吉と龍馬と寺村左膳(融通無碍/南史観<私観>)
赦免後、日を置かずに航海術修行の辞令が出たことは、これらが一連の予定行動であったことを示すものだ。
また寺村左膳日記には真吉のような詳細記録はないが、2月22日の項に突然龍馬に関する記述がある。
ところが同日の真吉日記には簡潔に
「お目通りを仰せ付けられる」とある。お目通りとは容堂に逢ったことだ。
つまり左膳日記の記述は容堂との謁見を許された際の真吉の進言内容である可能性が高いのではないか。
真吉の進言で容堂も側近も明瞭に龍馬の存在を意識したといえるのではないか。
この記述が22日、そして赦免が25日。京藩邸内で「龍馬赦免」が話題となった。側近左膳は龍馬の存在を明確に意識した。
龍馬の活躍が公然と始まった。彼広い世界へ飛翔・沸騰を始めた。
伊豆・下田でのこと(融通無碍/第4話)
坂竜飛騰(融通無碍/南史観<私観>)
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2月25日
坂本龍馬、御叱りの上帰国御免。龍馬はさきに亡命せる者なり。御聴に入り御宥恕仰せ付けられる。
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《融通無碍》
龍馬の脱藩の罪は消えた。容堂が直に赦免を命じた。この決定は重い。覆す者は存在しない。
龍馬は今後自由に天空を天駆ける翼ともいうべきものを得た。龍馬という馬が翼をえてペガサスとなった瞬間だ。
勝海舟が山内容堂に取りなして、龍馬の脱藩の罪は赦免され、さらに土佐藩士が海舟の私塾に入門することを追認した。
龍馬は海舟が進めていた神戸の海軍操練所設立のために奔走し、土佐藩出身者の千屋寅之助、新宮馬之助、望月亀弥太、近藤長次郎、沢村惣之丞、高松太郎、安岡金馬らが海舟の門人に加わっている。また、龍馬が土佐勤王党の岡田以蔵を海舟の京都での護衛役にし、海舟が路上で3人の浪士に襲われた際に以蔵がこれを一刀のもとに斬り捨てた事件はこの頃のことである。
幕府要人と各藩藩主に海軍設立の必要性を説得するため、海舟は彼らを軍艦に便乗させて実地で経験させた。
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26日
寺田小膳が航海術修行を命じられ、他の御用も兼ねて江戸に行く。
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《融通無碍》
小膳は藩校・致道館の大石神影流の指南役。真吉の門下生だ。龍馬は赦免の後、航海術修行を命じられたが、小膳の航海術修行も真吉・龍馬繋がりか。
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3月6日
坂本龍馬並びに土居村(安芸の土居か)庄屋助六の二男・安岡金馬の二名が航海術修行を命令される。
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《融通無碍》
真吉は2月22日に容堂のご前に出て竜馬の赦免のことを話した。脱藩赦免が2月25日で勝海舟のもとでの航海術修行命令が3月6日。これらは一連した予定の段取りだったか。
伊豆・下田での勝海舟との約束を、真吉が容堂に履行させた。
伊豆・下田でのこと(融通無碍/第4話)
これ以降龍馬は、勝海舟の門下生として公然と行動するようになる。
安岡金馬は、土佐東部の田野学館で学問を学び、ここで中岡慎太郎、千屋寅之助と交流を深めた。五十人組が結成されると参加。寅之助に誘われ勝海舟の門下生となり、龍馬とも知己を深め航海術を学ぶ。その後脱藩して長州へ亡命、中岡慎太郎と行動をともにする。龍馬とともに脱藩の赦免、航海術修行の命令を受ける。明治維新後は航海術や実務経験を買われて土佐商会の順海丸船長に。明治6年には海軍少主計となり横須賀海軍に務めている。明治27年51歳で没。
千屋寅之助も五十人組に参加、その後、龍馬の海援隊で活躍。妻は君江<坂本龍馬の妻・お龍の妹>。芸西村の琴ヶ浜松原には「お龍・君江姉妹像」の銅像がある。
中岡慎太郎(融通無碍/南史観<人物評伝>)
五十人組(融通無碍/南史観<私観>)
お龍君枝姉妹像(高知県芸西村和食)
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◆文久3年3月14日
この日、勤王党の同志・平井収二郎が土佐京都藩邸内の檻<おり>に押し込められるが、真吉はこれに触れていない。
平井収二郎(融通無碍/南史観<人物評伝>)
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《融通無碍》
容堂による、土佐勤王党への弾圧が始まった。
勤王党への弾圧(融通無碍/南史観<私観>)
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15日
中島小膳が近習御目付に就任した。
江戸の町飛脚便が届いた。
それによると「横浜騒動(生麦事件)のため、江戸では女・童を避難させたらしい」
生麦事件(融通無碍/南史観<私観>)
・・・・・・・・・
16日
武市半平太が京都藩邸の御留守居役加わり(加役か)となる。
武市半平太(融通無碍/南史観<人物評伝>)
真吉が水戸藩の隅谷寅之助と本国寺で会う。
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《融通無碍》
◆武市半平太の昇進
武市は土佐勤王党の首領だ。そのかれが昇任した。留守居役は他藩との外交官でもある。
「平井を収監したのに、武市は昇進・・・」複雑な動きに真吉も困惑したか。
◆水戸藩の隅谷寅之助のこと
隅谷は公武合体の勤王論者だった。公武合体論を広げようと各地を遊説し、土佐にも来て龍馬とも接触した。
その時の隅谷寅之助宛ての龍馬の手紙がある。
龍馬の手紙(幕末足軽物語/関連話)
その印象記に
「龍馬は幕閣の名前すら知らない田舎者だった」とある。
土佐にも龍馬にも絶望して去った。
立川御殿の近くの荷宿で龍馬と会見した。
立川御殿(融通無碍/南史観<私観>)
真吉と会ったときは、徳川慶篤の上京に随伴して京師警衛指揮役だった。
公武合体の持論を堅持するが、時代の流れは変わり、かれは孤立の様相を深めていた。
その後、慶応3年に土佐藩の山本らによって斬殺された。
明治になり、隅谷の息子が山本を殺し復仇したが、後年これは「最後の仇討ち」と言われる事件だった。その後法の整備により「仇討ちは蕃風で、以後厳禁」となったから。
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4月23日
14代将軍・徳川家茂が軍艦「順動丸」に乗艦のあと、「神戸海軍操練所」設立の許可を受け、同時に勝海舟の私塾(神戸海軍塾)開設も認められた。
勝海舟
神戸海軍操練所(幕末足軽物語/関連話)
神戸海軍操練所跡
幕府から年3000両の経費の支給も承諾されたが、この程度の資金では海軍操練所の運営は賄えず、そのため5月に龍馬は福井藩に出向して松平春嶽から1000両を借入れした。
(乙女への手紙で「この頃は軍学者勝麟太郎大先生の門人になり、ことの外かわいがられ候…すこしエヘンに顔をし、ひそかにおり申し候。エヘン、エヘン」と近況を知らせている。)
龍馬の手紙<坂本乙女宛て>(融通無碍/関連話)
龍馬の手紙<坂本乙女宛て>(融通無碍/関連話)
この頃、土佐藩の情勢が変わり、下士階層の武市半平太が藩論を主導していることに不満を持っていた山内容堂は再度実権を取り戻すべく、吉田東洋暗殺の下手人の探索を命じ、土佐勤王党の粛清に乗り出した。
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5月27日
京都の越前藩邸で福井藩士・中根雪江と会談。
福井でじっとしている春嶽父子に上京するようにと要請するが、機が熟していないと反対される。中根は翌年6月に福井に帰国し、藩重臣会議の席で上京派である横井小楠らと揉め一時蟄居となる。
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[中根雪江]
《福井藩士・中根雪江は松平春嶽が11歳で16代藩主に就任したときの教育係として御用掛となる。同時に新福井藩主・松平慶永のもとで藩政改革派の主導権を得ることとなり藩政改革を実行した。》
大政奉還後、龍馬暗殺直前の慶応3年11月10日に龍馬が出した中根雪江宛ての「龍馬の手紙」がある。
今日、幕府の要人・永井玄蕃頭(永井尚志)方へ訪ねていったのですがご面会は叶いませんでした。
(永井殿と)談じたい天下の議論が数々ありますので明日また訪ねたいと考えているところですので大兄(=中根雪江)も御同行が叶いますならば実に大幸に存じます。
龍馬の手紙(中根雪江宛て)<新国家>・・・解説は尾崎前高知県知事
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6月
間崎哲馬・平井収二郎・弘瀬健太が切腹させられた。
平井の妹・加尾は龍馬の恋人とされる女性で、龍馬は姉・乙女へ「平井収二郎のことは誠にむごい、妹の加尾の嘆きはいかばかりか」と手紙を書き送っている。また、同じ手紙で攘夷を決行して米仏軍艦と交戦して苦杯を喫した長州藩の情勢と(下関戦争)、その際、幕府が姦吏の異人と内通し外国艦船の修理をしていることについて強い危機感を抱き「右申所の姦吏を一事に軍いたし打ち殺、日本を今一度洗濯いたし申し候」 と述べている。
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6月29日
龍馬は姉・乙女(おとめ)に、愉快な手紙を出している。
文久3年(1863)6月29日付
そして、平井の収次郎ハ、誠にむごいむごい。
いもふと(妹)おかを(加尾)がなげきいか斗ばかりか、
ひとふで(一筆)私のよふすなど咄はなしてきかしたい。
まだに少しハきづかいもする。
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文久3年(1863)6月に収二郎が切腹させられると龍馬は姉・乙女宛ての手紙で「平井収二郎のことは誠にむごい、妹の加尾の嘆きはいかばかりか」と加尾を案じている。
NHK大河ドラマ龍馬伝(竜馬<福山雅治>と加尾<広末涼子>と平井収二郎)
馴しミ国の 春なわすれそ(NHK動画)
龍馬の手紙<坂本乙女宛て④>(融通無碍/関連話)
龍馬の手紙<坂本乙女宛て⑤>(融通無碍/関連話)
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8月18日
倒幕勢力最有力であった長州藩の京都における勢力を一網打尽にすべく、薩摩藩と会津藩が手を組み「八月十八日の政変」が起きた。
これにより京都の政情は一変し、佐幕派が再び実権を握った。
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8月
天誅組が大和国で挙兵したが、翌9月に壊滅して吉村虎太郎、那須信吾ら多くの土佐脱藩志士が討ち死にしている。(天誅組の変)
天誅組(融通無碍/南史観<私観>)
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9月
武市半平太が投獄され、土佐勤王党は壊滅状態に陥っていた。(武市は1年半の入牢後の慶応元年閏5月に切腹となっている)
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10月
龍馬は神戸海軍塾塾頭に任ぜられた。
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《融通無碍》
文久3年のことども(融通無碍/南史観<私観>)
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《文久3年/真吉の動静》
【日記・倦遣録】
3月、真吉は外夷拒絶の策略を隠居・山内容堂の承認(許可)を得て、上書する。
攘夷策略について<提言/樋口真吉>(融通無碍/南史観<私観>)
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元治元年(1864年)、龍馬30歳、真吉50歳
2月9日
海舟は前年5月から続いている長州藩による関門海峡封鎖の調停のために長崎出張の命令を受け、龍馬もこれに同行した。熊本で龍馬は横井小楠を訪ねて会合し、小楠はその返書として海舟に『海軍問答』を贈り、海軍建設に関する諸提案をした。
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5月
龍馬は生涯の伴侶となる楢崎龍(お龍)と出会い、のちに彼女を懇意にしていた寺田屋の女将・お登勢に預けている。
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5月14日
海舟が正規の軍艦奉行に昇進して、神戸海軍操練所が発足した。
坂本龍馬、近藤長次郎、高松太郎、望月亀弥太、千屋寅之助、安岡金馬ら勝海舟の私塾門下生が大挙して入所、航海術を学んだ。
神戸海軍操練所跡
近藤長次郎(融通無碍/南史観<人物評伝>)
高松太郎(融通無碍/南史観<人物評伝>)
望月亀弥太(融通無碍/南史観<人物評伝>)
千屋寅之助(融通無碍/南史観<人物評伝>)
安岡金馬(融通無碍/南史観<人物評伝>)
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6月5日
池田屋事件が起きており京都の情勢は大きく動いていた。池田屋事件で肥後藩の宮部鼎蔵、長州藩の吉田稔麿ら多くの尊攘派志士が落命または捕縛され、死者の中には土佐の北添佶摩と望月亀弥太もいた。北添は龍馬が開拓を構想していた蝦夷地を周遊した経験のある人物で、望月は神戸海軍塾の塾生であった。
池田屋跡(NHK動画)
京都の池田屋に集まった勤王の浪士達を会津藩の指揮下にあった新撰組が襲撃した事件。この事件で新撰組の名が洛中・洛外に全国に響き渡った。
新撰組(融通無碍/南史観<私観>)
その後、洛中に潜む残党狩りがあり、池田屋騒動とは全く関わりのない土佐藩の麻田時太郎が事件に巻き込まれた。
明保野亭跡(NHK動画)
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6月17日
龍馬は下田で海舟と会合し、京摂の過激の輩数10人(あるいは200人ほど)を蝦夷地開拓と通商に送り込む構想を話し、老中の水野忠精も承知し、資金3、4000両も集めていると述べている。
『八月十八日の政変』と『池田屋事件』のあと、長州藩は薩摩・会津勢力によって一掃された。
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元治元年7月18日
長州藩家老・福原越後の率いる軍勢が伏見で警護に当たる大垣兵と戦火を交える。
翌日には御所の蛤御門<はまぐりごもん>で、御所を守衛する薩摩・会津らの勢力と激突して京の街を戦火に包む。(蛤御門の変)
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7月19日
京都政治の舞台に戻ることを目標とした長州軍約3,000人が御所を目指して進軍したが、一日の戦闘で幕府勢力に敗れた。(蛤御門の変)
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8月5日
長州は英米仏蘭四カ国艦隊による下関砲撃を受けて大打撃を蒙った。(下関戦争)
蛤御門の変で長州兵が御所に発砲したことで長州藩は朝敵の宣告を受け、幕府はこの機に長州征伐を発令した。二度の敗戦により長州藩には抗する戦力はなく、11月に責任者の三家老が切腹して降伏恭順した(長州征討)。
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8月中旬
龍馬は海舟の紹介を受けて薩摩の西郷隆盛に面会し、龍馬は海舟に対して西郷の印象を
「少し叩けば少し響き、大きく叩けば大きく響く」と評している。
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[融通無碍]
《広井護著「竜馬がゆくのスリルとサスペンス」より》
◆初めての出会い
西郷に会うために京都の薩摩藩邸を訪れた竜馬はとっぴな振る舞いをする。
西郷が客間に行くと竜馬がいない。
竜馬は庭で鳴いていた鈴虫を捕っていた。
あきれる西郷に竜馬は虫かごを無心する。
その場面で繰り広げられる西郷、竜馬、同席していた吉井耕助からの視点を司馬遼太郎は魔術のように縦横に操りながら描写する。そうして竜馬と西郷という人物の個性が端的に際立ってくる。
吉井耕助(融通無碍/南史観<人物評伝>)
高知新聞プラス
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池田屋事件で殺された望月亀弥太の件に続き、塾生の安岡金馬が蛤御門の変で長州軍に参加していたことが幕府から問題視され、さらに海舟が老中・阿部正外の不興を買ったこともあり、10月22日に海舟は江戸召還を命ぜられ、11月10日には軍艦奉行も罷免されてしまった。
望月亀弥太(融通無碍/南史観<人物評伝>)
安岡金馬(融通無碍/南史観<人物評伝>)
これに至って、神戸海軍操練所廃止は避けられなくなり、龍馬ら塾生の後事を心配した海舟は江戸へ出立する前に薩摩藩城代家老の小松帯刀に彼らを託して、薩摩藩の庇護を依頼した。
神戸海軍操練所(幕末足軽物語/関連話)
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9月中旬、
龍馬は長州の下関にいた。
蛤御門の変の責任は長州にあり、特に天皇の住まいする御所(禁門)に砲撃をかけたことは許されることではないということから、朝廷が長州征伐の勅を発し、幕府が大軍をもって長州を攻めに行くと諸藩に伝えた。
長州征伐(融通無碍/南史観<私観>)
この頃の状況を土佐の兄・坂本権平、及び同郷で旧知の池内蔵太に伝えた「龍馬の手紙」がある。
龍馬の手紙<坂本権平宛て>(幕末足軽物語/長州征伐)
龍馬の手紙<池内蔵太宛て>(幕末足軽物語/長州征伐の動き)
池内蔵太(融通無碍/南史観<人物評伝>)
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《融通無碍》
《池田屋事件/6月、蛤御門の変/7月、下関戦争/8月、長州征伐/9月》
池田屋事件(融通無碍/南史観<私観>)
蛤御門の変(融通無碍/南史観<私観>)
長州討伐(融通無碍/南史観<私観>)
下関戦争(融通無碍/南史観<私観>)
下関戦争について、土佐の姉・坂本乙女に伝えた「龍馬の手紙」がある。
龍馬の手紙(姉・坂本乙女宛て⑤<幕末足軽物語/下関戦争>)
『馬關戰争圖』(部分) 藤島常興 筆、下関市市立長府博物館 収蔵
下関戦争(NHK動画)
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《元治元年/真吉の動静》
【日記・倦遣録より】
元治元年7月18日
*長州藩家老・福原越後の率いる軍勢が伏見で警護に当たる大垣兵と戦火を交える。
*翌19日には御所の蛤御門<はまぐりごもん>で、御所を守衛する薩摩・会津らの勢力と激突して京の街を戦火に包む。
蛤御門の変(NHK動画)
・・・・・・・・・
7月23日
*町便によると「伏見で異変が起きた」
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《融通無碍》
超大事件だ。
真吉の情報入手は早い。
町便とは民間情報であり、飛脚に限定したものでもあるまい。
上方に航海する下田船は多かったはずだからその情報源は船乗りだったかも知れぬ。
・・・・・・・・・
7月24日
*真吉は、京都で異変が起こったので、藩主・上京の御供に加えてほしいと願書を大監察に提出する。
*土居二郎八が大坂から京に上ろうとしたところ伏見でこの乱に会い、途中から逃げ帰ったという。
・・・・・・・・・
25日
*京報が届いた。
「京の異変は、長州藩士と浪士で構成された軍勢が会津軍を攻撃する戦いだ。会津には薩摩、彦根らが加勢する。」
(この戦いの詳細を真吉は戦の終結後、松山藩から土佐に派遣された使者からその経過を詳しく聴き取り記録した。)
蛤御門の変/詳報(融通無碍/南史観<私観>)
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慶応元年(1865年)、龍馬31歳、真吉51歳
慶応元年3月
神戸海軍操練所が閉鎖、
近藤長次郎、高松太郎ら神戸海軍操練所の研修生は勝海舟の口利きで薩摩へ。
その後、長崎で薩摩出資の「亀山社中」を立上げることになる。
神戸海軍操練所跡
亀山社中(幕末足軽物語/関連話)
亀山社中(NHK動画)
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慶応元年3月12日
坂本龍馬、近藤長次郎、池内蔵太、千屋寅之助、高松太郎らは薩摩へ。
近藤長次郎(融通無碍/南史観<人物評伝>)
池内蔵太(融通無碍/南史観<人物評伝>)
千屋寅之助(融通無碍/南史観<人物評伝>)
高松太郎(融通無碍/南史観<人物評伝>)
・・・・・・・・・・
慶応元年5月
龍馬ら塾生の庇護を引き受けた薩摩藩は彼らの航海術の専門知識を重視しており、龍馬らの「亀山社中」に出資した。
亀山社中は商業活動に従事する近代的な株式会社に類似した性格を持つ組織であり、当時商人が参集していた長崎の小曽根乾堂家を根拠地として、下関の伊藤助太夫家、そして京都の酢屋に事務所を設置した。
亀山社中の成立は商業活動の儲けによって利潤を上げることのほかに、当時、水火のごとき関係にあった薩長両藩和解の目的も含まれており、のちの薩長同盟成立に貢献することになる。
亀山社中(融通無碍/南史観<私観>)
幕府勢力から一連の打撃を受けて、長州藩には彼らを京都政治から駆逐した中心勢力である薩摩・会津両藩に対する根強い反感が生じており、一部の藩士はともには天を戴かずと心中に誓い、たとえば「薩奸會賊(「さっかんかいぞく」薩摩の薩と會津(会津の旧漢字)の會)」の四文字を下駄底に書き踏みつけて鬱憤を晴らす者がいたほどだった。
このような雰囲気の中でも、坂本龍馬、中岡慎太郎、土方久元らは、薩摩、長州の結盟を促し、これをもって国家の安寧を望んでいた。
中岡慎太郎(融通無碍/片岡正法<人物評伝>)
土方久元(融通無碍/南史観<人物評伝>)
長府藩士・印藤聿に宛てた「龍馬の手紙」がある。
『今夜も伊藤助太夫と飲んでいます。昨夜から貴方からご相談された件で考えていました。何にしても急ぎすぎてはかえって双方の心が通じないことと思います。、何と言ってもお互いに国家のことを憂いていることは同じてあり、双方の考えを理解しあうことが大事です。そうでなければ、双方あれやこれやの議論になり、かえって障害が発生することになります。笑いなどを絡めて和やかな会談にしなければとても大成させることは難しいと思う。何にしてもよく考えないといけないですね。』
龍馬の手紙(印藤聿宛て)
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龍馬は大村藩志士の渡辺昇と会談し、薩長同盟の必要性を力説する。
渡辺は元練兵館塾頭で桂小五郎らと昵懇であったため、長州藩と坂本龍馬を周旋。長崎で龍馬と桂を引き合わせた。
渡辺昇に宛てた「龍馬の手紙」がある。
龍馬の手紙(渡辺昇宛て)
薩長和解の周旋に、龍馬は長州に入る。
長州入りの前に太宰府に立ち寄り、薩摩藩士・渋谷彦助を通じて都落ちしていた三条実美ら五卿に謁見して長州入りの添え状をもらっている。
五卿の衛視をしていた渋谷彦助に宛てた「龍馬の手紙」がある。
龍馬の手紙(渋谷彦助宛て/5月5日付け)
《5月6日に桂小五郎と面会することを記している。》
土方久元と龍馬が桂を説諭し、下関で薩摩の西郷隆盛と会談することを承服させる。
同時に中岡は薩摩に赴き、西郷に会談を応じるよう説いた。
・・・・・・・・・・
慶応元年5月21日
西郷隆盛が長州に来ることになり、坂本龍馬と桂小五郎は下関で西郷の到来を待った。
が、西郷が乗っているはずの船が下関へ到着したが、船には茫然とした中岡慎太郎が乗って現れただけであった。
西郷は下関へ向かっていたが、途中で朝議が幕府の主張する長州再征(第2次長州征伐)に傾くことを阻止するために下関に寄らず急ぎ京都へ向かってしまったのだ。
桂は激怒して、和談の進展は不可能になったかに見えたが、龍馬と中岡は薩長和解を諦めなかった。
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慶応元年5月11日
*岡田以蔵<いぞう>、久松喜久馬、村田忠三郎、岡本次郎が牢屋において斬首された。
岡田以蔵(融通無碍/南史観<人物評伝>)
歴史の中に埋もれた以蔵(NHK動画)
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《融通無碍》
岡田以蔵は、肥後の河上彦斎らとともに「幕末の四大人斬り」の異名を取っている。尊王攘夷派の4人の志士がおこした天誅と称した要人暗殺テロ事件は都の人々を震撼させた。
幕末の四大人斬り(Wikipedia)
河上彦斎(融通無碍/南史観<人物評伝>)
真説 岡田以蔵
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*園村新作、島村寿之助、安岡覚之助、河埜万寿彌、森田金三郎、小畑孫次郎、同孫三郎、審次郎は引き続き牢屋に監禁され、小南五郎右衛門殿は御預け処分となった。
小南五郎右衛門(融通無碍/南史観<人物評伝>)
*武市半平太は屠腹<とふく>(=切腹)を命じられた。
武市半平太(融通無碍/南史観<人物評伝>)
*武市半平太、切腹。(武市を失って土佐勤王党は盟主不在となる。)
武市半平太が切腹(融通無碍/南史観<私観>)
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慶応元年8月
長崎のグラバー商会からミニエー銃4,300挺、ゲベール銃3,000挺の薩摩藩名義での長州藩への買いつけ斡旋に成功した。これは同時に薩長和解の最初の契機となった。
また、近藤長次郎(この当時は上杉宗次郎と改名)の働きにより、薩摩藩名義でイギリス製蒸気軍艦ユニオン号(薩摩名「桜島丸」、長州名「乙丑丸」)の購入にも成功し、所有権を巡って紆余曲折はあったが10月と12月に長州藩と桜島丸条約を結び、同船の運航は亀山社中に委ねられることになった。
ユニオン号のこと(融通無碍/南史観<私観>)
近藤長次郎(融通無碍/南史観<人物評伝>)
近藤長次郎(1838~1866)
高知・上町の饅頭屋で働いていたが、その饅頭屋近くで鍛刀していた下戸で甘党(饅頭好き)の左行秀に見い出され、援助を受け江戸に行く。その遺影は行秀が作刀した長刀を差し、拳銃を握っている。
左行秀(融通無碍/南史観<人物評伝>)
近藤長次郎
近藤長次郎(NHK動画)
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慶応元年9月
長州再征の勅命には薩摩は従わない旨の「非義勅命は勅命にあらず」という重要な大久保一蔵の書簡を、長州藩重役広沢真臣に届けている。
8月から9月にかけての「長州再征」について、朝廷・幕府・薩摩間での丁々発止のやりとりの詳細を、池内蔵太に伝えた「龍馬の手紙」がある。
長州征伐(融通無碍/南史観<私観>)
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[龍馬の手紙]
龍馬の手紙(池内蔵太宛て②<幕末足軽物語/長州藩追討>)
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慶応元年9月27日
幕府は横須賀に製鉄所を起工する
慶応元年は日本各地に一揆が頻発した年でもあった。国事より藩事で、諸大名たちの足許が揺らぎ、尻に火が着いていた。
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慶応元年12月3日
◆龍馬の手紙<印藤聿 宛>
一筆書かせて頂きます。
私は11月24日に大阪を出港し、同26日夕方に上関(山口県)に着きました。
今日は下関に来ていて、手紙を届けにきました。
いずれまた会いましょう。
12月3日 龍馬
印藤聿様へ
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慶応元年12月29日
◆龍馬の手紙<印藤聿 宛>
昨日山口より中島四郎(長州藩海軍)、能間百合熊(財満百合熊のこと長州藩海軍)、福原三蔵(奇兵隊士)の他要人が、山田宇右衛門(長州藩士)とかいう人もきました。
いまだにユニオン号の話し合いもまとまらないけれど、思うに、今日中に話がまとまるでしょう。
ユニオン号のこと(融通無碍/第33話)
山口から桂小五郎(木戸孝允)の長い手紙が届いて、予定よりも半日も早く京都へ向かうと言ってきました。
されど、今回の京都行きは私一人のほかは、船の操縦に詳しい人がいない、誰かほかに詳しい人がいればなお都合が良いのですが。
一、山口には薩摩藩の黒田了介という人がきているので、この人と共に桂さんは先日京都へ行くことに決まりました。この桂さんに諸隊の者が7・8人同行します。(目的は「薩長同盟」の話し合いのためです。)
薩長同盟までのこと(幕末足軽物語/関連話>)
薩長同盟(融通無碍/第38話)
一、私の船は正月2日・3日頃に出港すると思うが、いまだに不明です。上記のように出港出来ればと思ってます。
29日
印藤様
龍馬より
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[融通無碍(南寿吉著)]
《第二次長州征伐/4月、武市半平太切腹/5月、》
長州討伐(融通無碍/南史観<私観>)
武市半平太(融通無碍/南史観<人物評伝>)
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《慶応元年/真吉の動静》
◆真吉に冬の時代(雌伏続く)
真吉は武市半平太の土佐勤王党に近いが、山内容堂にも可愛がられている。
武市の採った暗殺路線は到底、真吉の信条にも体質にも合わない。武市の如き石頭(原理・原則で凝り固まっている)と付き合う気も失せてきた。
容堂の酒癖の悪さには閉口するが、真吉も酒好きだ。が、容堂のような酒乱癖はない。周りを愉快にする社交的な酒だ。酔って大納言と取っ組み合いの喧嘩をして側近(=寺村左膳)に尻拭いさせる隠居とは大違いだ。
確かに、これから真吉は土佐勤王党からも、土佐藩からも疎外される「冬の時代」が続くだろう。
真吉には、これまでの旅の途中で作り上げてきた『人脈』と持ち前のおおらかさがある。
(何とかなるじゃろ 天地に恥じない生き方してきたから、殺されることもないじゃろ)
(小高坂<こだかさ>のこんまい家で、自然に集まる情報を整理しながら暮らすまでのこと)
真吉は情報通(融通無碍/南史観<私観>)
(だが復活のときに備えて準備はせんとイカンろう。焦りはせぬ)
真吉に冬の時代、雌伏続く(融通無碍/南史観<私観>)
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慶応2年(1866年)、龍馬32歳、真吉52歳
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慶応2年1月
下関にいた龍馬は、長府藩士・印藤聿の仲介で三吉慎蔵との知遇を得る。
印藤聿(融通無碍/南史観<人物評伝>)
三吉慎蔵は長府藩より京都の情勢を探るよう命じられ、薩長同盟を取り纏めつつあった龍馬とともに下関を出発。
三吉慎蔵(融通無碍/南史観<人物評伝>)
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慶応2年1月8日
薩摩の小松帯刀の京都屋敷において、桂小五郎と西郷隆盛の会談が開かれた。
だが、話し合いは難航して容易に妥結しなかった。
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1月14日
龍馬不在の長崎の亀山社中では、ユニオン号購入で活躍した近藤長次郎(上杉宗次郎)が独断で英国留学を企てて露見し、自刃させられる事件が起きていた。
ユニオン号のこと(融通無碍/南史観<私観>)
近藤長次郎(融通無碍/南史観<人物評伝>)
事件を知らされた龍馬は『手帳摘要』に
「術数はあるが誠が足らず。上杉氏(近藤)の身を亡ぼすところなり」 と書き残している。
後年、龍馬の妻・お龍の回顧では
「自分がいたら殺しはしなかった」と、龍馬は嘆いたという。
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1月20日
三吉慎蔵とともに、龍馬が京/伏見・寺田屋に入る。
桂小五郎と面談するも、未だ盟約が成立していないことに驚愕、桂に問いただしたところ、長州はこれ以上頭を下げられないと答えた。龍馬はそれ以上桂を責めることはしなかった。
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1月21日
坂本龍馬や中岡慎太郎の仲介もあって薩長同盟が成立。
薩長同盟(融通無碍/第38話)
薩長同盟までのこと(幕末足軽物語/関連話)
長州側から出された「両藩の合意事項の覚え書」に龍馬が朱筆をもって「裏書き」をする。
坂本龍馬自筆「薩長同盟裏書」/宮内庁書陵部図書課図書寮文庫蔵。
龍馬の手紙(桂小五郎<=木戸孝允>宛て)
この直後、龍馬は伏見・寺田屋で幕吏に襲われ重傷を負うが薩摩藩邸に逃れる。(寺田屋騒動)
その後、鹿児島に渡る。
寺田屋騒動(融通無碍/南史観<私観>)
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[融通無碍]
慶応元年3月に勝海舟の神戸の海軍塾が閉鎖された際にも、龍馬をはじめとする塾生らの身柄が薩摩に引き取られたことがあった。
この時は、勝が薩摩藩に塾生の援助を要請したもので(薩摩藩も軍艦の乗組員が不足していたから)龍馬らは薩摩藩に取り込まれることになったのだが、今回の寺田屋事件と、その後の経過(薩摩への取り込まれ)が真吉にどう映ったか。
薩長を仲介するは良いとしても、その後薩摩の保護下に入り、さらに薩摩入りしたという事は
「龍馬は何を考えているのか。まるで薩摩の手下じゃないか」と思ったとしても無理ないかも知れぬ。
◆伏見・寺田屋
龍馬が京都での常宿にしていた伏見・寺田屋の女将はお登勢。
龍馬が”おかあ”と呼ぶほど慕い、頼りにしていた、このお登勢の人となりを伝えた、兄・坂本権平にあてた「龍馬の手紙」がある。
龍馬の手紙(坂本権平 宛て⑧<幕末足軽物語/関連話>)
寺田屋の女将・お登勢
また、文久2年(1862)には、この寺田屋で大きな事件が起きている。
薩摩尊王攘夷派が薩摩藩主・島津久光によって粛清された寺田屋事件だ。
激しい戦闘が行われている中、お登勢は子供達をかまどの裏に隠して、1人で帳場を守ったと伝えられている。
そして、騒動後は血で染まった畳やふすまをすべて取り替え、天井の血糊をきれいにふき取らせて、翌日には通常の商いを始めたといいます。
その後、騒動で亡くなった9人の薩摩藩士たちの法要を薩摩藩が行わなかったので、お登勢は寺田屋に薩摩藩から支払われた迷惑料を使って9人の位牌を作り、寺田屋の仏壇で自ら供養した。
寺田屋事件(融通無碍/南史観<私観>)
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1月22日
薩摩側からの6か条の条文が提示された。その場で検討が行われ、桂はこれを了承した。
これにより薩長両藩は後世「薩長同盟」と呼ばれることになる盟約を結んだ。龍馬はこの締結の場に列席している。
盟約成立後、木戸は自分の記憶に誤りがないかと、龍馬に条文の確認を行い、間違いないという返書を受け取っている。
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1月23日
龍馬は三吉慎蔵と投宿していた伏見の寺田へ戻り、祝杯を挙げた。
だがこのとき、伏見奉行が龍馬捕縛の準備を進めていた。明け方2時頃、一階で入浴していた龍馬の恋人のお龍が窓外の異常を察知して袷一枚のまま二階に駆け上がり、二人に知らせた。すぐに多数の捕り手が屋内に押し入り、龍馬は高杉晋作から贈られた拳銃を、三吉は長槍をもって応戦するが、多勢に無勢で龍馬は両手指を斬られ、両人は屋外に脱出した。
傷を負った龍馬を材木小屋に隠すと三吉は単身薩摩藩邸に走り、救援を求めた。
これにより龍馬は薩摩藩に救出された。
寺田屋遭難(YouTube)
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[幕末足軽物語/関連話]
この寺田屋遭難の詳細を、兄の坂本権平、桂小五郎(=木戸孝允)に知らせた「龍馬の手紙」がある。
龍馬の手紙(坂本権平宛て)
龍馬の手紙(桂小五郎て)
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慶応3年2月
幕末足軽物語 樋口真吉伝完結編
樋口真吉
<「幕末足軽物語樋口真吉伝完結編」ではP277>
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2月15日
西郷吉之助が蒸気船に乗って高知に来た。
龍馬は、西郷が高知にやってきて、山内容堂と会見した情報をつかんでおり、そのことを長州藩士・三吉慎蔵に伝えた「龍馬の手紙」がある。
龍馬の手紙(三吉慎蔵宛て)
龍馬の手紙(融通無碍/第45話)
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◆薩摩の西郷が高知へ
薩摩の実力者・西郷が海路高知に入る。
隠居・山内容堂に時局打開のための四侯会議への参加を懸命に口説く。
愛用の玻璃酒杯を片手にあぐらをかく鯨海酔侯山内容堂公/高知市鏡川畔山内神社
山内容堂(融通無碍/南史観<人物評伝>)
四侯会議(融通無碍/南史観<私観>)
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[融通無碍]
西郷隆盛の要請に応じ、四侯会議への参加を決心した容堂は
「よし、ワシは今回は東山の土になる積もりで行く」と上洛の決意を披瀝した。(容堂決心の固さは分かるが、その後の行動が伴ったか・・・・。)
西郷の訪問は土佐藩では大事件で、藩は豪商・川崎(=田村屋)の邸宅をその宿舎に当てもてなした。(泊まったときに西郷が使った下駄が今も残っている。)
薩摩の西郷が高知へ (融通無碍/南史観<私観>)
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[融通無碍]
◆四侯会議とは?
薩摩藩の主導のもとに成立した四侯会議は、京都において設置された諸侯による会議。有力な四侯による合議体制で、15代将軍・徳川慶喜や摂政・二条斉敬に対する諮詢機関として設置された。朝廷や幕府の正式な機関ではなかったが、それに準ずるものとして扱われた。
慶応3年5月初旬から中旬にわたり8回にわたって京都で開催された。
薩摩藩国父・島津久光、越前・松平春嶽、土佐・山内容堂、宇和島・伊達宗城が、直面する二つの政治課題「長州処分(赦免)」と「兵庫開港」について話し合い、将軍徳川慶喜との交渉に臨んだ。
5月14日の初会合では、慶喜の提案により諸侯との記念写真を撮影しただけで散会となり、四侯側が慶喜から上手くあしらわれた恰好となった。
徳川慶喜たっての要請で四侯は二条城で記念写真に応じた。写真が趣味の慶喜が自ら撮ったという。
四侯会議の際に徳川慶喜が撮影したとされる写真。(右上から時計回りに)島津久光、山内容堂、伊達宗城、松平春嶽(福井市立郷土歴史博物館所蔵)
四侯会議(かごしま明治維新特集/南日本新聞)
島津久光(融通無碍/南史観<人物評伝>)
伊達宗城(融通無碍/南史観<人物評伝>)
松平春嶽(融通無碍/南史観<人物評伝>)
薩摩藩はこの四侯会議を機に政治の主導権を幕府から雄藩連合側へ奪取し、朝廷を中心とした公武合体の政治体制へ変革しようと図ったが、幕府(=徳川慶喜)との政局に敗れ、薩摩藩の目論見は挫折した。
公武合体 (融通無碍/南史観<私観>)
その結果、薩摩は完全に倒幕路線に舵を切ることになり、明治維新までの幕末劇(物語)が始まる。
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慶応2年2月3日
◆龍馬の手紙<印藤聿 宛>
伏見の寺田屋で、三吉慎蔵(=長府藩士/龍馬の護衛役)と飲んでいたところ、幕府の役人数人から襲撃されました。
三吉慎蔵は一緒に薩摩藩邸に入りましたので、ご安心下さい。
なので、今回は寺内新右門(=海援隊士/新宮馬之助のこと)がそちらへ行きますので話を聞いて下さい。
あとは、お会いして話しましょう。
2月3日
印藤様 龍馬より
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慶応2年2月29日
寺田屋遭難での龍馬の傷は深く、西郷の勧めにより、刀傷の治療のために薩摩の霧島温泉で療養することを決めた。龍馬は、薩摩藩船・三邦丸に便乗してお龍を伴い京都を出立した。その後、薩摩には、83日間逗留した。
2人は温泉療養のかたわら霧島山、日当山温泉、塩浸温泉、鹿児島などを巡った。温泉で休養をとるとともに左手の傷を治療したこの旅は龍馬とお龍との蜜月旅行となり、これが日本最初の新婚旅行とされている。
「薩長同盟・坂本龍馬新婚旅行」解説映像(鹿児島市)
◆龍馬の「新婚旅行の手紙」(京都国立博物館所蔵<国重要文化財指定>)
お龍のことや鹿児島への旅の様子を絵入りで姉乙女に知らせた手紙である。霧島山登山について絵入りで述べている。
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慶応2年3月
龍馬は幕府要人<若年寄>永井尚志に「寺田屋遭難」や「幕府の内乱」など龍馬の知見を皮肉・揶揄を交えて伝えている。
龍馬の手紙(永井尚志宛て)
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慶応2年3月10日
薩摩に到着、83日間逗留した。
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慶応2年4月
幕府は大坂商人に命じて、総額2525万両という膨大な金を献納させる。
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慶応2年4月
亀山社中の初仕事として薩摩から長州への武器供与の見返りとして兵糧500俵を積んだ蒸気船・ユニオン号が薩摩に向けて馬関を出発、長崎に寄港すると、薩摩藩から亀山社中に供与された小型帆船・ワイルウェフ号が鹿児島に向かう出港準備の真っ最中であった。ワイル・ウェフ号は、荒鉄や銅地金、大砲、小銃等を薩摩に運ぶ任務で池内蔵太らが操船していた。
ユニオン号のこと(融通無碍/南史観<私観>)
池内蔵太(融通無碍/南史観<人物評伝>)
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慶応2年4月28日
小型帆船・ワイルウェフ号が大型蒸気船のユニオン号に曳航されて長崎を出港した。
順調な航海をして一路南下、4月30日に薩摩領の甑島に辿り着いた。
しかし天候が急変、暴風雨となり曳航していたユニオン号は危険を感じ、やむなく引き綱を解いた。
単独行動となったワイル・ウェフ号は、当初は天草に避難しようとしたが果たせず漂流を続け、上五島の潮合崎近くまで押し流された。
5月2日未明、激しい東風に煽られて、浅瀬に乗り上げ転覆、船体は一瞬のうちに破壊してしまった。
池内蔵太ら12名が犠牲になった。池内蔵太は溺死、享年26。
ワイル・ウェフ号遭難位置図
ユニオン号は無事に鹿児島に入港した。
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慶応2年5月1日
薩摩藩からの要請に応えて長州から兵糧500俵を積んだユニオン号が鹿児島に入港したが、この航海で薩摩藩から供与された帆船ワイル・ウエフ号が遭難沈没し、土佐の脱藩志士・池内蔵太ら12名が犠牲になってしまった。
池内蔵太(融通無碍/南史観<人物評伝>)
幕府による長州再征が迫っており、薩摩は国難にある長州から兵糧は受け取れないと謝辞し、ユニオン号は長州へ引き返すことに。
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慶応2年6月
龍馬は鹿児島から下関へ向かう途中、長崎に寄港、お龍を小曽根英四郎に預けた。
小曽根英四郎(幕末足軽物語/関連話<人物評伝>)
お龍は英四郎にピストルの操作を、また、英四郎の姪・お菊から月琴を習い教わったという記録がある。
また、司馬遼太郎の『竜馬がゆく』でも、龍馬も姉・乙女と一緒に一弦琴を習ったり、名曲『漁火』を演奏したり、また長崎では花街へと繰り出し『長崎ぶらぶら節』を楽しむ場面などが出てくる。
龍馬はかなりの音楽好きだったようだ。
長崎ぶらぶら節( YouTube )
龍馬とお龍が目にした長崎(「長崎龍馬便り」より)
お龍は慶応3年2月、龍馬に連れられて下関の伊藤助太夫の家に移るまで、小曽根邸で過ごすことに。
伊藤助太夫(幕末足軽物語/関連話<人物評伝>)
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幕府は10万を超える兵力を投入して第二次長州征伐を開始した。
第二次長州征伐(融通無碍/南史観<私観>)
高杉晋作の指揮のもと長州藩の奇兵隊と共に幕府軍と交戦し、これを破った。
高杉晋作/戦場で三味線
龍馬は薩摩藩から供与された帆船帆船ワイルウェフ号を遭難・沈没させ、ユニオン号も戦時の長州藩へ引き渡すことになり、亀山社中には船がなくなってしまった。
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6月3日
長州を攻撃するため幕府軍が出発する。
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慶応2年6月14日
龍馬は池内蔵太ら同志の死を悼み、ユニオン号で鹿児島より馬関に帰る途中、五島に立ち寄り、自らが碑文を書き、土地の庄屋に金を渡して碑を建てさせ、業半ばにして散っていった同志の霊を慰めている。
長崎/上五島・江ノ浜郷にある墓と墓碑銘
池内蔵太の殉死を悼む龍馬の手紙がある。兄の坂本権平に宛てたものだ。
龍馬の手紙(坂本権平宛て②<幕末足軽物語/関連話>)
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慶応2年6月16日
龍馬がユニオン号で下関に帰港した。
長州藩の求めにより第二次長州征伐の戦いに参戦することになった。
第二次長州征伐(融通無碍/南史観<私観>)
高杉晋作が指揮する6月17日の小倉藩への渡海作戦で龍馬はユニオン号(艦長は千屋寅之助、砲手長は石田英吉)を指揮して最初で最後の海戦(戦争)を経験した。
千屋寅之助(融通無碍/南史観<人物評伝>)
石田英吉(融通無碍/南史観<人物評伝>)
高杉晋作/戦場で三味線
下関海戦図(手前の山は下関市の火の山で現在展望台があり、そこへ登るとこの通りに見える。龍馬は最初門司の半島右側からの攻撃に参加したが、のち下船して火の山に登り、大砲を使って援護射撃をした。
「戦のはなしはやった者でなければ分からない」
「鉄砲の音がゴマを煎るように聞こえる」など、絵の海部分いっぱいの戦況図付きで、この戦いについての長文の手紙を兄・坂本権平に書き送っている。/高知県立坂本龍馬記念館より)
龍馬の手紙(坂本権平宛て③<幕末足軽物語/関連話>)
龍馬の手紙(坂本権平宛て⑩<幕末足軽物語/戦の流儀>)
さらに、禁門の変で功を上げ長州藩に取り入れられた龍馬の幼なじみ上田宗虎(上田宗児)が、長州藩の南奇隊(第二奇兵隊)の参謀として芸州口で戦っている状況を知らせた「龍馬の手紙」がある。
禁門の変(融通無碍/南史観<私観>)
龍馬の手紙(坂本権平宛て⑨<幕末足軽物語/関連話>)
上田は池内蔵太について一緒に大和で天誅組に参加していた。
池内蔵太(融通無碍/南史観<人物評伝>)
天誅組(融通無碍/南史観<私観>)
長州藩は西洋の新式兵器を装備していたのに対して幕府軍は総じて旧式であり、指揮統制も拙劣だった。
幕府軍は圧倒的な兵力を投入しても長州軍には敵わず、長州軍は連戦連勝した。
小倉城が落城したとき、龍馬が耳にした話(情報)を、懇意の長州藩士・三吉慎蔵に知らせた「龍馬の手紙」がある。
龍馬の手紙(三吉慎蔵宛て②<幕末足軽物語/関連話>)
思わしくない戦況に幕府軍総司令官の将軍・徳川家茂は心労が重なり7月10日に大坂城で病に倒れ、7月20日に21歳の短い人生を終えた。
このため、第二次長州征伐は立ち消えとなり、勝海舟が長州藩と談判を行い9月19日に幕府軍は撤兵した。(小倉口では交戦が続き和議が成立したのは翌慶応3年1月23日)
帆船ワイルウェフ号を喪失し、ユニオン号も戦時の長州藩へ引き渡すことになり、亀山社中には船がなくなってしまった。
亀山社中(幕末足軽物語/関連話)
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慶応2年7月
この時期、龍馬は桂小五郎に頻繁に手紙を出している。
龍馬の手紙(桂小五郎宛て④<幕末足軽物語/関連話>)
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慶応2年7月28日
龍馬は薩摩藩から供与された帆船帆船ワイルウェフ号を遭難・沈没させ、ユニオン号も戦時の長州藩へ引き渡すことになり、亀山社中には船がなくなってしまった。
◆龍馬の手紙(HP/日本の歴史ガイドより)
船がなくなったので、水夫たちに暇を出したが、大方は離れようとしない、と窮状を伝えている。
このため、薩摩藩は10月にワイルウェフ号の代船として帆船「大極丸」を亀山社中に供与した。
龍馬の手紙/三吉慎蔵宛て
大極丸は、ユニオン号の艦長・千屋寅之助の相方・白峰駿馬が船将として運航された。
白峰駿馬(融通無碍/南史観<人物評伝>)
長州藩士・三吉慎蔵宛の手紙で龍馬は「水夫たちに暇を出したが、大方は離れようとしない」と窮状を伝えている。
三吉慎蔵(融通無碍/南史観<人物評伝>)
龍馬の手紙(三吉慎蔵宛て①<幕末足軽物語/関連話>)
大極丸は、ユニオン号の艦長・千屋寅之助の相方で海援隊の幹部・白峰駿馬が船将として運航された。
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海援隊(左から長岡謙吉、溝渕広之丞、坂本龍馬、山本洪堂、千屋寅之助、白峰駿馬)
◆白峰駿馬
弘化4年、越後・長岡に生まれる。
文久2年、江戸に行き、勝海舟の門下生になる。
元治元年、長岡藩を脱藩して神戸海軍操練所に参加する。
神戸海軍操練所の閉鎖後は坂本龍馬が結成した亀山社中・海援隊に参加、薩摩藩からユニオン号の代船として供与された太極丸/船将として活躍する。
白峰駿馬(融通無碍/南史観<人物評伝>)
日本造船界の先駆者 白峰駿馬
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◆千屋寅之助
千屋寅之助は慶応3年11月に京都で龍馬が暗殺されると、翌慶応4年3月生前の龍馬の希望もあり長崎で龍馬の妻・お龍の妹・君江(起美)と結婚。
寅之助の実家には一時お龍も同居しており、和食の琴ヶ浜松原には「お龍・君江姉妹像」の銅像がある。
お龍・君枝姉妹像(高知県芸西村和食)
千屋寅之助(融通無碍/南史観<人物評伝>)
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慶応2年8月、
長崎の小曽根英四郎が所用で大坂へ出かけ、帰国の際、大坂町奉行から長崎奉行へあてた書簡をことづかったが、下関に寄ったとき長州藩の役人に見つかって拘留された。龍馬は下関の伊藤助太夫に連絡し、亀山社中の菅野覚兵衛(=千屋寅之助)を遣って身柄を解免した。
伊藤助太夫(幕末足軽物語/関連話<人物評伝>)
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◆龍馬の手紙(HP/日本の歴史ガイドより)
(慶応2年8月16日)
さて、さる8月1日、小倉城がついに落城しました。
はたして、幕府の海軍が関門海峡を封鎖することはないとは思いますが、用心に越したことはありません。
龍馬の手紙/三吉慎蔵宛て
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九州の小倉城が陥落したことで、徳川慶喜は戦況不利を悟って休戦を主張、孝明天皇は長州征討を休戦するよう勅命を出す。
このため、第二次長州征伐は立ち消えとなり、勝海舟が長州藩と談判を行い9月19日に幕府軍は撤兵。(小倉口では交戦が続き和議が成立したのは翌慶応3年1月23日)
幕府の求心力も堕ち、長州・薩摩・土佐らの倒幕の気運が高まることに。
高杉晋作が指揮した小倉藩への渡海作戦で、龍馬はユニオン号を指揮して最初で最後の海戦を経験した。
この小倉藩への渡海作戦の状況を三吉真蔵に報告した龍馬の手紙がある。(慶応2年8月16日付け)
三吉慎蔵(融通無碍/南史観<人物評伝>)
龍馬の手紙(三吉慎蔵宛て②<幕末足軽物語/関連話>
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慶応2年8月21日
朝廷は将軍・家茂が死んだため征長の兵を停止させる
将軍・家茂の死後、将軍後見職・一橋慶喜の第15代将軍就任が衆望されたが、慶喜は将軍職に就くことを望まず、まずは徳川宗家の家督のみを継承していた。
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8月末
龍馬は長崎に来ていた越前藩士・下山尚に政権奉還策を説き松平春嶽に伝えるよう頼んだ。
松平春嶽(融通無碍/南史観<人物評伝>)
龍馬が政権奉還論を述べた最初の記録だが、政権奉還論自体は龍馬の創意ではなく、幕臣・大久保一翁がかねてから論じていたことで、龍馬と下山の会見以前の8月14日には春嶽当人が慶喜に提案して拒否されていた。
尊攘派の土佐勤王党を弾圧粛清した土佐藩だが、この頃には時勢の変化を察して軍備強化を急いでおり、参政・後藤象二郎を責任者として長崎で武器弾薬の購入を盛んに行っていた。
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慶応2年8月の経済・社会事情
土佐藩では「土佐通宝」という地方貨を幕末に発行した。
幕末の金銀事情及びインフレ・デフレ(融通無碍/南史観<私観>)
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慶応3年9月、
龍馬は長崎から新式小銃1,000挺あまりを船に積んで土佐に向かう。新式小銃を土佐藩に購入させ、討幕への覚悟を求めるものであった。
途中、下関に寄港し廻船問屋・伊藤家に妻のお龍と妹君江を預けた。
この際、龍馬は
「万一のご報知仕候時ハ、(略)愚妻おして尊家に御養置可被遺候よふ」との書簡を朋友・三吉慎蔵に送り、お龍の後事を託している。
龍馬の手紙/三吉慎蔵宛て
慎蔵は龍馬との約束通り、お龍・君枝姉妹を長府の自宅に引き取って3ヶ月間面倒を見た。
その間、10月に大政奉還がなされ、11月に龍馬が暗殺されている。
大政奉還~竜馬暗殺まで(融通無碍/南史観<私観>)
翌、慶応4年3月、慎蔵はお龍・君枝姉妹を高知の坂本家に送り届けている。
その後、お龍の妹・君江は高知/和食(現高知県芸西村)の千屋寅之助に嫁いでいる。
千屋寅之助(融通無碍/南史観<人物評伝>)
寅之助の実家には、お龍も同居しており、和食の琴ヶ浜松原には「お龍・君江姉妹像」の銅像がある。
お龍君枝姉妹像(高知県芸西村和食)
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慶応2年10月、
龍馬が北方開拓計画に使用するため薩摩藩の保証で購入した大極丸の請人は小曽根英四郎だった。その後、船代金は薩摩藩が立て替え、さらに土佐藩(=後藤象二郎)が買い戻して、最終的には土佐藩(亀山社中=海援隊)のものとなった。
小曽根英四郎(幕末足軽物語/関連話<人物評伝>)
後藤象二郎(融通無碍/南史観<人物評伝>)
慶応3年4月に設立された海援隊の本部は、小曽根邸に置かれた。
海援隊(幕末足軽物語/関連話)
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慶応2年10月12日
国内諸国が凶作のため米価が高騰、幕府は外国米の輸入を許可する。
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《慶応2年/真吉の動静》
慶応元年5月25日~慶応2年8月
《この間の真吉日記は記録されていない。》
何故、真吉の日記がこの期間に欠落するのか考えても無意味だろう。
ないものはないのだから。特に個人的な事情もないだろう。
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慶応3年(1866年)、龍馬33歳、真吉53歳
坂本龍馬が中岡慎太郎と共に京都で暗殺される年だ。
慶応3年(1867)は、丁卯の年<真吉は上洛して幕末の京都にいる>
丁卯上京誌(融通無碍/南史観<私観>)
幕末から明治維新の時代は激動の「混乱期」であった。
幕末、明治維新の混乱期(融通無碍/南史観<私観>)
土佐勤王党の弾圧に由来する「冬の時代」が終わり、真吉にとっても「波瀾万丈の幕末(=慶応3年/丁卯の年)」は、薩摩の西郷隆盛が海路土佐にやって来るところから始まる。(その前の2月10日に土佐藩の大谷、高野が薩摩を訪れている。)
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慶応3年1月
龍馬の年賀状(桂小五郎宛て<幕末足軽物語/関連話>
この年の11月15日に龍馬は暗殺されるから、龍馬の最後の年賀状である。
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慶応3年1月13日
航海と通商の専門技術があり、薩長とも関係の深い龍馬に注目した土佐藩は、溝淵広之丞を介して龍馬と接触を取り、龍馬と土佐藩参政・後藤象二郎が会談した。(清風亭会談)
溝淵広之丞(融通無碍/南史観<人物評伝>)
後藤 象二郎(融通無碍/南史観<人物評伝>)
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[融通無碍]
◆溝淵広之丞のこと
海援隊(左から2人目が溝淵広之丞)
龍馬の手紙(溝渕広之丞 宛て①))
龍馬の手紙(溝渕広之丞 宛て②)
溝渕広之丞は、嘉永6年に坂本龍馬とともに江戸に出て千葉定吉道場で剣術を、佐久間象山塾で砲術を学んでいる。
この時(慶応2年から)溝淵広之丞は土佐藩命で長崎に赴いて砲術を学んでいた。この長崎遊学は情勢探索を兼ねており長崎にいた旧知の坂本龍馬と面会し、脱藩の真意を問うたのに対して龍馬は、
「土佐のことを忘れたことはないが志のために浪人の道を選んだ」と答えたという。
このあと、龍馬は土佐藩のために銃を外国商人から買い入れる交渉に当たり、溝淵に買価を相談している。(溝淵宛龍馬の書簡が残る)
さらに、年末には溝淵は龍馬に連れられて長州藩に赴き、木戸孝允(桂小五郎)を紹介された。
長崎に戻った溝淵広之丞は木戸との会見を、長崎に詰めていた土佐藩の幹部・佐々木高行、及び偶々長崎に出張で来ていた土佐藩参政・後藤象二郎に報告した。その結果、龍馬と後藤の会談(長崎清風亭会談)が実現したのである。
溝淵広之丞(融通無碍/南史観<人物評伝>)
佐々木高行(=三四郎)(融通無碍/南史観<人物評伝>)
後藤 象二郎(融通無碍/南史観<人物評伝>)
長崎清風亭会談
龍馬は長崎駐在の土佐藩幹部・佐々木高行と公使にわたり頻繁に情報のやりとりをしていた。
手紙の内容は飲み会に誘うものも多く、酒場での交流を深めていたことがうかがえる。
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[融通無碍]
◆佐々木高行のこと
佐々木高行
龍馬の手紙(佐々木高行 宛て①)
龍馬の手紙(佐々木高行 宛て②)
龍馬の手紙(佐々木高行 宛て③)
佐々木高行は真吉のぽん友<旧知の友>。土佐藩重役で長崎で活躍。龍馬の海援隊の発足にも関わり、龍馬が長崎から土佐藩に持ち込んだ新式銃千挺の購入に尽力した。若き日に真吉と『日本漫遊の旅』をしている。
日本漫遊の旅 (融通無碍/第12話)
幕末足軽物語 樋口真吉伝完結編
<「幕末足軽物語樋口真吉伝完結編」ではP136>
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嘉永5年(1852)9月6日
山田喜三之進・佐々木高行の両氏は真吉の大坂着より2日前に到着して待ち構えていた。
高知を出る前から「大坂で会おう」と約束していたが、予定通り再会・合流できた、愉快と言うべきだろう。
両氏は河内屋に宿。
【原文】
六日山田・佐々木二氏予ニ先タツ事二日登坂也ト、皆此地ニ會スルノ宿約アリト雖如此ナランコト真ニ愉快ト可謂哉、両氏ハ河内屋某ニ宿ス
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[融通無碍]
余談に及ぶ。
この日、真吉の日本漫遊の旅に大坂で合流した佐々木高行(通称三四郎)(当時23歳)は真吉の知己だった。
余談の逸話。
かつて筆者、佐々木の自宅があった高知市瀬戸を訪れたことあり。
今でも瀬戸はごく小さな海辺の家々の集まり。三四郎の話を聞こうと、とある人家の庭先に日向ぼっこする老女に来意を告げる。
「佐々木三四郎さんのことに詳しい方はいないでしょうか」
佐々木高行(=三四郎)(融通無碍/南史観<人物評伝>)
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龍馬と後藤象二郎の「長崎清風亭会談」で、土佐藩は龍馬らの脱藩を赦免し、亀山社中を土佐藩の外郭団体的な組織とすることが決まり、4月上旬頃に亀山社中は「海援隊」と改称した。
亀山社中(幕末足軽物語/関連話)
海援隊(幕末足軽物語/関連話)
この時に明文化された規則が「海援隊約規(高知県立坂本龍馬記念館蔵)」
5則から成り、隊士の資格は脱藩者と海外への志ある者、隊の課業は航海術や英語を勉強することなど、明確に表している。
海援隊規約によると、隊の主要目的は土佐藩の援助を受けて土佐藩士や藩の脱藩者、海外事業に志を持つ者を引き受け、運輸、交易、開拓、投機や土佐藩を助けることなどとされ、海軍と会社を兼ねたような組織だった。
隊士は土佐藩士(千屋寅之助、沢村惣之丞、高松太郎、安岡金馬、新宮馬之助、長岡謙吉、石田英吉、中島作太郎)および他藩出身者(紀州藩の陸奥陽之助、越後長岡藩の白峰駿馬)など16 - 28人、水夫を加えて約50人からなっていた。 同時期、中岡慎太郎は陸援隊を結成している。
千屋寅之助(融通無碍/南史観<人物評伝>)
高松太郎(融通無碍/南史観<人物評伝>)
安岡金馬(融通無碍/南史観<人物評伝>)
長岡謙吉(融通無碍/南史観<人物評伝>)
石田英吉(融通無碍/南史観<人物評伝>)
白峰駿馬(融通無碍/南史観<人物評伝>)
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慶応3年1月16日
長州藩士・三吉慎蔵に宛てた「龍馬の手紙」がある。
三吉慎蔵(融通無碍/南史観<人物評伝>)
龍馬の手紙(三吉慎蔵 宛て)
この手紙で、1月13日行なわれた後藤象二郎との「長崎清風亭会談」のことにふれ、
「十分話し合ったが、(後藤象二郎は)大いに面白い人」と評している。
後藤象二郎(融通無碍/南史観<人物評伝>)
長崎清風亭会談
この会談で、亀山社中を土佐藩の外郭団体的な組織とすることが決まり、これを機として4月上旬頃に亀山社中は「海援隊」と改称した。
また、会津藩の家老神保修理に面会し、
「会津ニハおもいがけぬ人物ニてありたり」と評している。
神保修理(融通無碍/南史観<人物評伝>)
神保修理
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慶応3年2月
龍馬は海援隊の事業として海運通商活動以外に蝦夷地の開拓事業も構想しており、後年、妻のお龍も「私も行くつもりで、北海道の言葉の稽古をしていました」と回顧している。
また、龍馬は鳥取藩尊王派の中心人物・河田左久馬を蝦夷地開拓の主導者に誘うつもりであったようだが、4月に「いろは丸事件」が勃発したため計画は頓挫する。
「坂本龍馬書簡 慶応3年2月14日 河田左久馬宛」(個人所蔵/鳥取県立博物館寄託)
《蝦夷地行きの準備が整いつつあることを、龍馬が意気揚々と河田に報告する内容》
龍馬の手紙(河田左久馬宛て)
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[融通無碍]
◆北方開拓計画
龍馬の"新国家"構想の一つである「北方開拓計画」は北添佶磨の発案とされている。
北添佶磨(融通無碍/南史観<人物評伝>)
北添佶磨がこの計画を発案するにあたり、当時の蝦夷地事情に精通した松浦武四郎に蝦夷地情報を求めている。
「北添佶磨書簡 文久3年8月2日 松浦武四郎宛」(松浦武四郎記念館所蔵)
しかし、慶応3年4月に「いろは丸事件」が勃発したため計画は頓挫する。
いろは丸事件(融通無碍/南史観<私観>)
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慶応3年2月10日、
龍馬はお龍とともに下関を訪れ、伊藤邸の一室である「自然堂」を借り受ける。
龍馬が号とした「自然堂」の由来である。夫婦水入らずの生活を楽しみ、助太夫と近くの稲荷町遊郭に遊び、夫婦痴話喧嘩をしたり、馬関の風流人たちの歌会に誘われたりもしている。
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慶応3年2月22日
◆龍馬の手紙<三吉慎蔵宛>
天下の情勢(近時に聞いたこと)
龍馬の手紙(三吉慎蔵宛て)
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慶応3年3月6日
◆龍馬の手紙<印藤聿 宛>
先日から病気なので引きこもってますので、この手紙を書きます。
下の件は、長い物語ですが、通常の手紙では何分わかりがたいと思いますので、箇条書きの方が宜しいかと思いますので、元よりご了承くださいませ。
第一段
一、先日長府藩家老・三吉周亮が下関へお帰りかと思いますが、薩摩藩の者より極秘に聞いた話では隊の者は三吉周亮のことを大いに論じて勢い込んでいるようでございます。
なお、この極秘のことは三吉周亮がもっとも海軍に力を入れ、陸軍には世話をしないからとのこと。
詳しくは不明ながら、私が思うに三吉周亮が陸軍を指揮するようになれば隊内一同皆報国の心を奮起し、三吉周亮の賢さを感じ入ると思う。
このような事を聞くに、定めて隊を指揮するものに三吉周亮のような者がいないのを憂う。
南面を制すれば、北面うらむの義にはならんかな。(三吉が陸軍を指揮すれば今度は海軍が騒ぐことにならないか)
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[融通無碍]<人物評伝>
◆三吉周亮
長府藩家老、元治元年、第一次長州征討の折に藩内で幕府恭順派が台頭すると、山口から逃れてきた三条実美ら五卿を功山寺に迎える。この五卿の功山寺入りが後の薩長和解の先鞭となった。
長州征伐(融通無碍/南史観<私観>)
元治元年12月、周亮は薩摩藩の西郷と会見、高杉晋作との会談の斡旋を受諾して、翌元治2年1月に下関にて実現させる。
薩長和解に努め、また「薩長同盟」の締結の際には坂本龍馬と数回にわたり会談している。
慶応2年6月、長州藩の報国隊の惣督に就任、第二次長州征討時には小倉口にて同隊を率いて戦い勝利する。小倉での戦いは龍馬も参戦している。
慶応3年7月、長府藩が購入したイギリス製軍艦「満珠艦(丸)」の艦長に就任した。
第二次長州征討(融通無碍/南史観<私観>)
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第二段
今日は、はからずも三吉周亮が来て、幸いにも諸君の無異平安(変わりなく平穏)なることを伝え聞いたという。
三吉慎蔵及び、印藤聿も2・3・4日中には下関に来るとのこと、待っている。
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第三段
上の一段、二段、の事も案じるが、かの竹島行きの事はかねてからお耳に入れてある通り、三吉慎蔵にも話してあり、随分賛成してくれて、いずれ改めて下関で決めましょうとのことでした。
しかし、その後お目にかかれてないので、お返事を待っているところです。
ですが、当今は世の中の目前のことばかりで、相談は出来ないことなので、諸人は竹島行きのことは皆無用のこととしていて、三吉周亮の遠大の策には従えぬと言い、この事は実行できなくて残念な話と察しております。
竹島は地図で推測すれば90里くらいです。
井上聞多がこの島に渡った者に聞いたところ、100里ですというのでだいたい同じようです。
島の流れは10里斗くらいと私はかつて長崎で聞いたがなんとも話が違うものです。
この島に渡る者の話では、クスノキと良く似たものがあり、多くは新木である。この他、一里あまり、弐里あまりもあろう平地である。これに関する本はたった一ヶ所から出た話しをまとめただけの本かと疑う。
下関から行って戻るまではまる3日はかかる。
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[融通無碍]<関連話>
◆竹島
幕末期、長州の志士たちのあいだに、竹島開墾論なるものがあったという。
吉田松陰は、安政5年2月、桂小五郎あて書簡で所見を述べている。
「朝鮮・満州に臨まんとならば竹島は第一の足溜なり」
富国強兵策の延長線上に、竹島の開墾を構想していた。
しかし、同年7月、桂小五郎、村田蔵六の連名で老中・久世広周あてに提出された「竹島開拓建言書草案」は、建白者が藩主ではないとして返却され、日の目を見なかった。
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第四段
私は蝦夷へ渡ろうとしていた頃から、新国を開くことは積年の思いで一生の思いなのです。何卒一人でもやりやりきる覚悟です。
伊藤助太夫は私の志を憐れみ、且つ積年の思いもあるゆえ、秘めていた不屈の思いを披露してくれた。
諸国の浪人らに命じてこの地を開墾するべしと、この思いが強いのです。
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[融通無碍]<関連話>
◆北方開拓計画
この龍馬、積年の夢(蝦夷に渡って新国を開くという)『北方開拓計画』については、鳥取藩伏見京都御留守居役の河田佐久馬に宛てた「龍馬の手紙」に記述がある。
龍馬の手紙(河田左久馬 宛て)<慶応3年3月>(北方開拓計画)
「坂本龍馬書簡 慶応3年2月14日 河田左久馬宛」(個人所蔵 鳥取県立博物館寄託)
《蝦夷地行きの準備が整いつつあることを、龍馬が意気揚々と報告する内容》
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第五段
先日お耳に入れた内々の話ですが、三吉慎三が無理なら自らが出向きたいとのこと、私はまことに幸せです。
しかし、このような時世なので貴方達がこの地を離れるのは大変難しいことと思う。
*****************
第六段
長崎で、いろは丸を3月15日から4月1日までの間、借り入れる旨の定約を定めました。
それゆえ、近いうちにこの期限も来てしまう。
いろは丸事件(融通無碍/南史観<私観>)
3月の初めから長崎に来て大洲藩の船が来るのを待つうちに、私は先日、中風(手足のしびれ)になり床に伏せっており自由に動けない状態でしたが、かれこれするうちに、大洲藩の船と共に長崎を巡りたいと思うようになりました。
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[融通無碍]<関連話>
◆いろは丸
慶応3年、長崎から大坂へ小銃・弾薬を輸送する必要が生じていた土佐藩がいろは丸の貸与を大洲藩に求めた。土佐藩への貸与が成立し、大洲藩士にかわって坂本龍馬ら海援隊員が乗り組んで長崎を出港した。
慶応3年4月、瀬戸内海を航行中に紀州藩の明光丸と衝突し、鞆の浦まで曳航中に沈没した。
事故の直後、千屋寅之助(=菅野覚兵衛/海援隊士)、高松太郎(龍馬の甥/海援隊士)に宛てた「龍馬の手紙」に記述がある。
龍馬の手紙(千屋寅之助 宛て)<慶応3年4月>(いろは丸が沈没した!)
その後、経緯など、龍馬は頻繁に手紙を書いている。
高柳楠之助 宛て(いろは丸事件)
下関の豪商・伊藤助太夫 宛て(いろは丸事件の経緯)
小谷耕蔵&渡辺剛八 宛て(いろは丸事件が決着)
妻・お龍宛て(いろは丸事件、その後)
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第七段
大洲藩の船の石炭の費用は一昼夜で1万2千斤なので2万斤の見込みとなる。タネ油一昼夜に一斗。
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第八段
もとより無理をしてでも船を借りたのは、もとよりの考えがあったからです。
他に賛同する人を募る道があるのであれば、三吉慎蔵君達の「やる」「やらない」の意見を早々に聞きたい。
もし止めるのあれば、以前から約束している人々にもその旨伝え、賛同してくれる人を集めなければならない。
ただし、お金の都合次第である。
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第九段
三吉慎蔵も貴方達もこないのであれば、他人を集めず私一人で行くことになればまたお金が入用になる。
今は手元に少々はあるけれども、もしそのようなことになれば、400金を10ヶ月の期限で借用したい。
ご尽力頂けますと大変幸せにございます。
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第十段
お頼み申し上げたことは三吉慎蔵君達の準備が整わない場合でも、山を登り木々を見て木の名前を記す者、土地を見ては稲や麦がこの地で育つか調べる者、山では鍬を持ってハゼノキ(櫨の木)を調べる者、海では、貝類、魚類、海草などを見る者を一人ずつ探してほしい。
お世話を御頼みしたいのはこの内容となります。
上記の件は私の一生のお願いでして、良い林を探し、海にも恵みがあればこの地に人を移すことは万物の時を得る喜びなのです。
以上 龍馬
(慶応3年)3月6日 寝られないまま筆をとってます。
印藤先生(長府藩士)
なお、先日は柿本人麻呂、山部赤人などをときどき集まって詠み、ついに一巻くらいになりました。
ある翁(老人)に頼んでこの一巻・二巻を付けようかと思っていたが飯立市(死亡)となりました。
なので幸いにも私の歌は第二巻とはなりません。この歌は
「心からのどけくもあるか野べハなを雪げながらの春風ぞふく」
その頃から引き続き家主などはしきりに歌を詠み、ある人が書林(書物がたくさんある場所)になりそうだとのこと。
お暇があれば、お出かけ下さい。面白いことですので。諸君の歌袋のチリ私も時々31字を笑いだし、ともに楽しんでいる。
今夜も筆を動かそうとしているが歌の意味がわかりかねるのが春夜の心のようで、
「世と共にうつれバ曇る春の夜を朧月とも人ハ言なれ」
先生も近々お作りになってお越し下さいませ。先日の作品は家の主が、この一巻の中に入れました。
~~~~~~~
《龍馬も「歌心」があったようだ。》
四万十川百人一首
《この歌集は、土佐中村での南寿吉氏の「樋口真吉物語」に端を発します。》
土佐の森・文芸 (中村の豪商・木戸家)
第4首 木戸三亀子(四万十市)
土佐の森・文芸 (土佐の中村)
中村は戦国時代に一条氏という京の名門公家が応仁の乱(1467年に始まった)の混乱を避け、移り住んだ公家大名の領地(荘園)であった。
竜馬の四万十川伝説(幕末足軽物語/関連話)
・・・・・・・・・・・
慶応3年4月
亀山社中は海援隊と名を改め、坂本龍馬が隊長となり土佐藩公認の外郭機関(海運/有事には海軍として活動)になった。
亀山社中(融通無碍/南史観<私観>)
海援隊(幕末足軽物語/関連話)
この時に明文化された規則が「海援隊約規」
海援隊約規(高知県立坂本龍馬記念館蔵/弘松家寄託)
5則から成り、隊士の資格は脱藩者と海外への志ある者、隊の課業は航海術や英語を勉強することなど、明確に表している。
海援隊旗(この旗印は「二曳にびき」といい、海援隊の会計を勤めた岩崎弥太郎が基礎を築いた三菱の、船舶部門「日本郵船」の社のマークとして、白地に二本の赤線が使われ、煙突にも描かれた。やはり「二曳」という。)
海援隊規約によると、隊の主要目的は土佐藩の援助を受けて土佐藩士や藩の脱藩者、海外事業に志を持つ者を引き受け、運輸、交易、開拓、投機や土佐藩を助けることなどとされ、海軍と会社を兼ねたような組織だった。
隊士は土佐藩(近藤長次郎、千屋寅之助、沢村惣之丞、高松太郎、池内蔵太、安岡金馬、新宮馬之助、長岡謙吉、溝渕広之丞、石田英吉、中島作太郎)および他藩出身者(紀州藩の陸奥陽之助(=陸奧宗光)、越後長岡藩の白峰駿馬、讃岐国塩飽佐柳島の出身・佐柳高次ら)など16 - 28人、水夫を加えて約50人からなっていた。
同時期、中岡慎太郎は陸援隊を結成している。
中岡慎太郎(融通無碍/南史観<人物評伝>)
陸援隊(幕末足軽物語/関連話)
海援隊(左から長岡謙吉、溝渕広之丞、坂本龍馬、山本洪堂、千屋寅之助、白峰駿馬)
長岡謙吉(融通無碍/南史観<人物評伝>)
長岡謙吉
溝渕広之丞(融通無碍/南史観<人物評伝>)
坂本龍馬(融通無碍/南史観<人物評伝>)
坂本龍馬
千屋寅之助(融通無碍/南史観<人物評伝>)
千屋寅之助(菅野覚兵衛)
白峰駿馬(融通無碍/南史観<人物評伝>)
白峰駿馬
山本洪堂
【その他の隊員】
近藤長次郎(融通無碍/南史観<人物評伝>)
近藤長次郎
高松太郎(融通無碍/南史観<人物評伝>)
高松太郎
池内蔵太(融通無碍/南史観<人物評伝>)
池内蔵太
石田英吉(融通無碍/南史観<人物評伝>)
石田英吉
安岡金馬(融通無碍/南史観<人物評伝>)
安岡金馬
~~~~~~~~
本部は、長崎の豪商・小曽根英四郎邸に置かれた。
小曽根英四郎(幕末足軽物語/関連話<人物評伝>)
以後、海援隊が商売することになり、商才に長けた陸奥宗光が主導して行なった。
龍馬が「海援隊が商売する話」を記述した、陸奥宗光宛ての「龍馬の手紙」が残されている。
龍馬の手紙(陸奥宗光宛て 宛て))
龍馬は長崎の小曽根家を活動本拠にしていたが、下関の伊藤家も拠点にしていた。名前を伊藤助太夫から九三に変えたのも龍馬の勧めからだ。龍馬が書いた手紙のうち、助太夫宛の手紙が姉・乙女に次いで2番目(14通)に多い。
慶応2年に龍馬は伊藤邸に寄寓し、以来ここから東西へ飛び回った。同年12月、龍馬が北方開拓を計画したときも助太夫は援助している。
伊藤助太夫(幕末足軽物語/関連話<人物評伝>)
・・・・・・・・・・・
慶応3年4月6日
伊藤助太夫に宛てた龍馬の手紙がある。(4月6日付)
『今日は金子が必要とのことなので、小曽根英四郎の店の番頭清吉に600両差し出しました。残りの200両は今しばらくお借りしたいと思います。』
小曽根英四郎(幕末足軽物語/関連話<人物評伝>)
・・・・・・・・・・・
慶応3年4月23日
いろは丸
大洲藩籍で海援隊が運用する(一航海500両で契約)蒸気船「いろは丸」が瀬戸内海中部の備後国鞆の浦沖で紀州藩船「明光丸」と衝突し、「明光丸」が遥かに大型であったために「いろは丸」は大きく損傷して沈没してしまった。
龍馬、小曽根英四郎(会計官)はじめ、いろは丸乗組員は明光丸に収容されて備後鞆ノ津に入港、小曽根英四郎知りあいの回船問屋桝屋清左衛門方に落ち着き、早速、紀州側と談判を開始した。
いろは丸事件(融通無碍/南史観<私観>)
NHK龍馬伝 第42回 「いろは丸事件」
NHK龍馬伝 第42回
いろは丸事件(youtube.)
衝突直後に差し出した龍馬の手紙が数多く残されている。
~~~~~~~
[龍馬の手紙]
紀州藩船/明光丸艦長・高柳楠之助に宛てた抗議の手紙だ。
龍馬の手紙(高柳楠之助宛て)
その他、事件の状況、結果などを知らせる手紙が複数ある。海援隊士の千屋寅之助や妻・お龍に宛てたものだ。
龍馬の手紙(千屋寅之助宛て)
千屋寅之助(融通無碍/南史観<人物評伝>)
小谷耕蔵&渡辺剛八 宛て
伊藤助太夫 宛て
お龍 宛て
龍馬は万国公法をもとに紀州藩側の過失を厳しく追及。
さらには「船を沈めたその償いは金を取らずに国を取る」の歌詞入り流行歌を流行らせるなどして紀州藩を批判した。
万国公法は海援隊の事務を一手に引き受けていた長岡謙吉が海援隊に持ち込んだ。
長岡謙吉
龍馬の手紙(長岡謙吉 宛て)
長岡謙吉は龍馬暗殺後に海援隊の2代目隊長になっている。
長岡謙吉(融通無碍/南史観<人物評伝>)
後藤ら土佐藩も支援した結果、薩摩藩士・五代友厚の調停によって、5月に紀州藩は「いろは丸」が積んでいたと龍馬側が主張したミニエー銃400丁など銃火器35,630両や金塊や陶器などの品47,896両198文の賠償金83,526両198文の支払に同意した。その後減額して70,000両になった。
海援隊の経済状態は苦しく、海運通商活動以外に龍馬は蝦夷地の開拓事業も構想していた。
開成館長崎商会主任の岩崎弥太郎(三菱財閥創業者)は度々金の無心にくる海援隊士を日記に「厄介もの」と書き残している。
・・・・・・・・・・・
慶応3年4月28日
千屋寅之助に宛てた「龍馬の手紙」がある。(4月28日付)
千屋寅之助
◆大極丸のこと(この手紙の背景)
第二次長州征伐で龍馬は薩摩藩から供与された帆船ワイルウェフ号を遭難・沈没させ、また、ユニオン号も戦時の長州藩へ引き渡すことになり、亀山社中には船がなくなってしまった。
ユニオン号のこと(融通無碍/第33話)
船がなくなったので、
「水夫たちに暇を出したが、大方は離れようとしない」と窮状を薩摩藩に伝えると、代船として帆船「大極丸」を亀山社中に供与した。
薩摩藩から供与された大極丸は、ユニオン号の艦長千屋寅之助の相方・白峰駿馬が船将として運航された。
『大極丸の件は後藤象二郎が引き受けてくれることになりました。私を海援隊隊長とし、諸君も修行(海運業・交易)することの都合をつけて下さい。これは西郷吉之助(西郷隆盛)が山内容堂に説いた話です。』
龍馬の手紙(千屋寅之助宛て)
千屋寅之助(幕末足軽物語/関連話<人物評伝>)
白峰駿馬(幕末足軽物語/関連話<人物評伝>)
日本造船界の先駆者 白峰駿馬
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慶応3年5月5日
この日に差し出した三吉慎蔵宛ての手紙がある。
龍馬と親しい長府藩の志士たちについて記述している。
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[龍馬の手紙]
先日この地から京都へ向かう途中で、福田扇馬、印藤聿、野々村勘九郎、槙村正直(いずれも長府藩士)の諸兄がお出ましになり(下関に立ち寄った)、土佐藩士の名前をもって海軍の訓練をしたいと言うのでその約束をしました。
三吉慎蔵 宛て(長州のトモダチ!)
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慶応3年5月7日
この日に、下関の豪商・伊藤助太夫に宛てた手紙がある。
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[龍馬の手紙]
『船の争論(=いろは丸事件)は、私が思うように運んでいまして、まだ長崎にいます。土佐人だけはみんな兄弟のごとく必死でおりますので、実に面白いことです。
二ヶ条を書きます。
一、この度の長崎行きは非常な事件(いろは丸事件)なので、留守には注意して下さい。親友といえども自然堂(龍馬のこと)まで参らぬよう門番衆にもそのようにお伝え下さい。
一、私が留守で他のところから訪ねてくる人は、親友と言えども、ご飯も宿泊もさせてはならない。このこと、宜しくお願い致します。』
追伸、ご案内の通りこの度は長崎へ向かいますが、どうなりましたか?
検討中であれば、先ほどの覚え書き(二ヶ条)の件を出しておきます。
一、かねて私とお龍(妻)のところへ三吉慎蔵、印藤聿の両人が聞きに来ました。そして、貴方の家に宿泊させて頂くと頼んであると言いました。私たち両人の生活のことの一切は両者にお聞きください。
三吉慎蔵(融通無碍/南史観<人物評伝>)
印藤聿(幕末足軽物語/関連話<人物評伝>)
一、私たちは者好きなので他人を呼んでしまいます。この費用の一切は私からお支払い致します。(ただし、今月末になります)もし、また私が気がつかないような時は、伊藤家会計係から書付を寄こして下さい。かつ、私が洗濯してくれる女性などを雇い入れた時は、この食事代は通常の旅人よりも安くして頂けると助かります。伊藤家使用人にもその旨お伝え下さいませ。』
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[関連話]
[印藤聿]
印藤聿 宛て
《長府藩士・印藤聿に宛てた「薩長同盟」に向けた長州での動きなどをしたためた「龍馬の手紙」である。》
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慶応3年5月27日付
この日に、下関の豪商・伊藤助太夫に宛てた手紙がある。
『船の争論(=いろは丸事件)は、私が思うように運んでいまして、まだ長崎にいます。土佐人だけはみんな兄弟のごとく必死でおりますので、実に面白いことです。』
伊藤助太夫(幕末足軽物語/関連話<人物評伝>)
伊藤助太夫 宛て
《下関の豪商・伊藤助太夫に宛てた「いろは丸事件」の紀州藩との交渉経緯を知らせる「龍馬の手紙」である。》
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慶応3年5月28日
翌28日にも伊藤助太夫に宛てて手紙を書いている。
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[龍馬の手紙]
『ますますご健勝のようでなによりです。
紀州藩との船の話ですが段々と進み、明日か、今日は戦争かとひしめきあってます。
後藤象二郎も大興奮していてとても骨が折れる、と言っています。
後藤 象二郎(融通無碍/南史観<人物評伝>)
長崎の商人どもに至るまで、ただ紀州藩を撃てだの紀州藩の船を乗っ取れだのとののしり合ってます。
知らぬ人まで戦をすすめに来ます。
紀州藩とは日々談論(戦い)をして、とうとうやっつけて、今朝から薩摩藩へ頼んで詫びを入れる運びとなりましたので、これまでの無礼を私も許しました。
薩摩藩から伊呂波丸の交代の船と荷物の代金を立て替えてもらい、紀州藩の奉行が宿まで来て挨拶をすれば良いでしょうかなどと言うが、私個人はそれでいいとしても、鞆の港へ捨て置かれたことにおいては、これは紀州藩が土佐藩の侍を辱めたことになるため、私へ挨拶しただけで済むことではないですよ、と言い、主人の山内容堂へも挨拶するべきだと、今日言いました。
山内容堂(融通無碍/南史観<人物評伝>)
いずれにしても、これでまた話がこじれれば一戦するのもまたおもしろいことです。
まずは、お気づかい下されていると思い、今のまま早々にお伝え申し上げます。
さて、この度そちらに向かわせた小曽根清三郎(小曽根英四郎の兄)とは大兄(=伊藤助太夫)も色々とお話合い下さい。
小曽根英四郎(幕末足軽物語/関連話<人物評伝>)
伊藤助太夫(幕末足軽物語/関連話<人物評伝>)
そして、下関の唐物屋に申し聞かせ、皆々小曽根清三郎とお引き合わせ下さい。
三吉大夫(=三吉慎蔵)にも詳しく話して下されば、この小曽根は何でも出来ることは確約します。
三吉慎蔵(融通無碍/南史観<人物評伝>)
長州のためにもなること間違いなく、私の国(土佐)にも都合が宜く商談なども出来るかと思います。』
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[融通無碍]
◆龍馬のアイデア戦法
紀州藩を相手に、龍馬が仕掛けた新戦法は、なんと!コマーシャル・ソング。 ん!?
「船を沈めたその償いは金を取らずに国を取る--♪」
龍馬はこんな戯れ歌<里謡(りよう)>を花街丸山で流行らせ、世論を味方につける巧みな攻勢を仕掛けたことはよく知られている。
これはまさに現代のCMプランナー同様のアイデア戦法だ。
龍馬は、長崎で豪商・ 小曽根乾堂(小曽根英四郎の兄)から中国の楽器、月琴を習ったといわれている。司馬遼太郎の『竜馬がゆく』でも、姉・乙女と一緒に一弦琴を習ったり、名曲『漁火』を演奏したり、また長崎では花街へと繰り出し『長崎ぶらぶら節』を楽しむ場面などが出てくる。
龍馬はかなりの音楽好きだったようだ。
長崎ぶらぶら節( YouTube )
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慶応3年11月、お龍は龍馬暗殺の悲報を伊藤助太夫邸で聞いている。
龍馬暗殺(融通無碍/南史観<私観>)
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慶応3年5月8日
いろは丸衝突沈没事件(慶応3年4月23日)のあと、長崎での談判となり、龍馬は場合によっては、相手の紀州藩と一戦交える覚悟をした。
「もし自分に万一のことがあれば、下関にいる妻お龍を土佐に帰すまで預かってもらえないか」という遺書めいた書簡を、長州藩士・三吉慎蔵に送っている。
三吉慎蔵(融通無碍/南史観<人物評伝>)
この時は「万一」にならなかったが、龍馬暗殺ののち、三吉はこの手紙での約束を守り、お龍を土佐へ送り届けている。
慶応3年5月8日/三吉慎蔵宛(下関市功山寺所蔵/下関市立歴史博物館管理)
龍馬の手紙(三吉慎蔵 宛て)
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慶応3年5月14日
龍馬が土佐藩の近況などを知らせた、桂小五郎に宛てた「龍馬の手紙/慶応3年5月14日付け」がある。
その中で、
○最近の土佐の国は一新の希望が見えております。
○土佐の国は幕府のためには働かないとのことになりました。
○今年、7~8月にもなれば、昔のように協力して薩長土となりますことをまことに楽しみにしています。
などと綴っている。
龍馬の手紙(桂小五郎 宛て)
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当時の土佐藩上士は公議政体論が主流であったが、乾退助(のちの板垣退助)は、土佐藩の上士としては珍しく武力討幕を一貫して主張し、江戸の土佐藩邸に水戸勤皇浪士・中村勇吉、相楽総三らを隠匿していた。(この浪士たちが、のちに薩摩藩へ移管され、庄内藩などを挑発して戊辰戦争の前哨戦・江戸薩摩藩邸の焼討事件へ発展する)
江戸薩摩藩邸の焼討事件(融通無碍<40>幕末足軽物語/関連話)
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慶応3年5月15日
乾退助(=板垣退助)が江戸から京都に来る。
板垣退助(融通無碍/南史観<人物評伝>)
退助は一時期、容堂に嫌われ江戸藩邸で閑日を過ごしていたが、老公入京を聞いて動いたようだ。
福岡孝弟(藤次)、中岡慎太郎らと武力倒幕の密議を交わした。その後、中岡慎太郎の仲介によって西郷隆盛と板垣退助の間で『薩土密約』が締結された。
福岡孝弟(藤次)(融通無碍/南史観<人物評伝>)
さらに、22日には容堂に謁し
「今倒幕に積極的に動かねば、いずれ薩長の手下同然になり後塵を拝する」と脅し、密約を承認させる。
板垣は山内容堂にこれを稟申して承認を得るが、この薩摩との密約・容堂の承認を知るものはごく限られていた。
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[融通無碍]
決断のつかない容堂は悩み苦しむ。
退助の激情は死んだ吉田東洋以上かもしれないが、容堂は直言を好んだ。但し上士による直言である。真吉らがこれを行えば「分を超えた行為≒処罰対象」と見なされる。
吉田東洋(融通無碍/南史観<人物評伝>)
が、容堂今回はその真吉も連れての入洛だ。伊豆下田の遠州灘でのあわやの遭難経験が心に刻まれているのか。
伊豆・下田でのこと(融通無碍/第4話)
「焼け跡の釘くぎ拾い」という言葉がある。消火活動に出遅れたら(混乱に乗じ、めぼしい物を盗む「火事場泥棒」も出来ず)ショボショボと金目<かねめ>ともいえぬ焼け釘を漁あさること。
戦働<いくさばたらき>には平時の正義は無用で、早い者勝ちだ。
徳川を倒したあとの世界にこそ出番ありと意気ごむ退助、徳川を倒すなど夢想もしない容堂。
世は動いている。
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慶応3年5月18日
乾退助は中岡慎太郎の手紙を受けて上洛し、京都東山の料亭「近安楼」で、福岡藤次や、広島藩の船越洋之助らとともに中岡と会見して武力討幕を議した。
その後、中岡慎太郎が仲介して退助を薩摩の西郷隆盛に会わせ、京都(御花畑)の薩摩藩家老小松清廉寓居で、土佐藩の谷干城や毛利恭助らとともに、薩摩藩の西郷吉之助(のちの隆盛)、吉井幸輔らと武力討幕を議し、大意を確認し薩土討幕の密約を結ぶ。武力倒幕を旨とする「薩土密約」だ。
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慶応3年5月21日
中岡慎太郎の仲介によって京都の小松帯刀邸(京都市上京区)で、薩土密約が締結された。この密約には水戸浪士の身柄を土佐藩邸から薩摩藩邸へ移管することも盛り込まれていた。
中岡慎太郎(融通無碍/慎太郎伝<片岡正法>)
薩摩藩(西郷隆盛・吉井幸輔・小松帯刀ら)と土佐藩(板垣退助・谷干城・毛利恭助・中岡慎太郎ら)の実力者の間で交わされた武力討幕のための軍事同盟=『薩土密約』だ。
薩土密約は「武力倒幕路線」で、その後の戊辰戦争へと繋がる。
薩土密約 (幕末足軽物語/関連話)
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慶応3年5月22日
退助は山内容堂へ拝謁して、時勢が武力討幕へ向かっていることを説き、薩摩藩と締結した密約及び水戸浪士を江戸土佐藩邸に隠匿している事を山内容堂に稟申。
容堂は退助の勢いに圧される形で、この密約を承認し軍制改革を命じた。水戸浪士を江戸土佐藩邸に隠匿させていることも黙認した。
山内容堂(融通無碍/南史観<人物評伝>)
土佐藩は板垣退助を筆頭として軍制改革を行うことを決定。中岡慎太郎らにアルミニー銃の購入を命じた。
さらに、退助は土佐勤王党弾圧で投獄されていた島村寿之助、安岡覚之助らを釈放した。これにより、土佐七郡(全土)の勤王党の党員ら300余名が板垣のもとで近代式練兵を行なうことになった。(これがのちの迅衝隊の主力メンバーとなる)
結果的に、武市半平太の土佐勤王党を乾退助が迅衝隊として引き継ぐ形になった。
武市半平太(融通無碍/南史観<人物評伝>)
土佐勤王党(融通無碍/南史観<私観>)
迅衝隊(融通無碍/南史観<私観>)
また、薩摩藩側も薩摩藩邸で重臣会議を開き、藩論を武力討幕に統一することが確認された。
中岡慎太郎は、ただちに書簡をしたため、薩摩藩と土佐藩の間で武力討幕の密約が締結されたことを知らせ、土佐勤王党の同志に、
「天下の大事を成さんとすれば、先ず過去の遺恨や私怨を忘れよ。今や乾退助を盟主として起つべき時である。」と「檄文」を飛ばした。
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慶応3年5月28日
いろは丸
いろは丸事件の経緯を下関の豪商・伊藤助太夫に報告した「龍馬の手紙」がある。
龍馬の手紙(伊藤助太夫 宛て)
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慶応3年5月29日
薩摩藩の五代友厚の仲介などもあり、いろは丸事件が土佐藩(龍馬)の全面勝利で決着した。
その顛末を海援隊(小谷耕蔵&渡辺剛八)に報告した「龍馬の手紙」がある。
龍馬の手紙(小谷耕蔵&渡辺剛八 宛て)
いろは丸事件(youtube.)
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慶応3年6月
龍馬の提示を受けた後藤はただちに京都へ出向し、建白書の形式で山内容堂へ上書しようとしたが、これより1ヶ月前の5月21日の時点で既に中岡慎太郎の仲介によって乾退助、毛利恭助、谷干城らが薩摩藩の西郷隆盛、吉井友実、小松帯刀らと薩土討幕の密約を結び、翌日容堂はこれを承認したうえで、乾らとともに大坂で武器300挺の買い付けを指示して土佐に帰藩していた。
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慶応3年6月9日
いろは丸事件の談判を終えた龍馬と後藤象二郎は藩船「夕顔丸」に乗船して長崎を発ち、兵庫へ向かった。
京都では将軍・徳川慶喜および島津久光、伊達宗城、松平春嶽、山内容堂による四侯会議が開かれており、後藤は山内容堂に京都へ呼ばれていた。
龍馬は「夕顔丸」船内で政治綱領を後藤に提示した。それは以下の8項目であった。
①天下ノ政権ヲ朝廷ニ奉還セシメ、政令宜シク朝廷ヨリ出ヅベキ事(大政奉還)
②上下議政局ヲ設ケ、議員ヲ置キテ万機ヲ参賛セシメ、万機宜シク公議ニ決スベキ事(議会開設)
③有材ノ公卿諸侯及ビ天下ノ人材ヲ顧問ニ備ヘ官爵ヲ賜ヒ、宜シク従来有名無実ノ官ヲ除クベキ事(官制改革)
④外国ノ交際広ク公議ヲ採リ、新ニ至当ノ規約ヲ立ツベキ事(条約改正)
⑤古来ノ律令を折衷シ、新ニ無窮ノ大典ヲ撰定スベキ事(憲法制定)
⑥海軍宜ク拡張スベキ事(海軍の創設)
⑦御親兵ヲ置キ、帝都ヲ守衛セシムベキ事(陸軍の創設)
⑧金銀物貨宜シク外国ト平均ノ法ヲ設クベキ事(通貨政策)
以上の8項目は、長岡謙吉が筆記したとされ、歴史小説などでは「船中八策」と呼ばれ、のちに成立した維新政府の綱領の実質的な原本となったとされてきた。
しかし、江戸時代のものとは思えない文体で書かれており、内容も引用されたものによって食い違いがあり、かつ龍馬によって書かれた船中八策の原本は見つかっておらず、近年では船中八策は創作とされる。
11月に書かれた新政府綱領8策の自筆本は実在しており、思想や主張の内容はこれをと基に遡及して作られたものとされる。
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慶応3年6月22日
入れ違いに大政奉還論を意図した後藤象二郎と坂本龍馬が上洛し、薩摩藩と薩土盟約を結ぶことになる。
そのため、一歩出遅れた後藤象二郎らは大坂で藩重臣らと協議し大政奉還論を藩論とするよう求める他なかった。後藤は薩摩藩と会合を持ち、薩摩側は西郷隆盛と小松帯刀および大久保一蔵、土佐側からは坂本龍馬、中岡慎太郎、後藤象二郎、福岡孝弟、寺村左膳、真辺正心(栄三郎)が代表となり、龍馬の進言に基づいた王政復古を目標となす薩土盟約が成立した。
後藤は薩摩と密約を成立させる一方で、土佐に帰って容堂に上書を行なった。
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薩土盟約は「武力によらない平和的路線」で、その後の大政奉還/公議政体へと繋がる。
《板垣には薩土盟約が、寺村・後藤には薩土密約の存在が伏せられた。盟約、密約の両方に関わった中岡の差配か。》
真吉は、表向き(職務上)は薩土盟約に関わったと見られ日記にも記述を残している。
しかし、薩土密約にも深く関わっていたようで、5月21日の密約締結の場には、真吉の一番弟子とも言える安岡亮太郎を参加させている。薩土密約のことは日記には、いっさい記録していない。
薩土盟約(融通無碍/南史観<私観>)
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板垣退助は西郷隆盛と薩土討幕の密約を結んだあと、土佐勤王党の志士らを釈放した。
釈放された勤王の志士を再結集して土佐藩兵(=迅衝隊)を結成、土佐藩は薩長とともに討幕勢力の一翼を担うことになる。
また一方では、土佐勤王党を弾圧した後藤象二郎が参政となり坂本龍馬と邂逅して大政奉還を主導した。
後藤 象二郎(融通無碍/南史観<人物評伝>)
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6月26日
芸州藩が加わって薩土芸盟約が成立した。
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慶応3年7月6日
龍馬が不在中の長崎で英国軍艦イカロス号の水夫が殺害され、海援隊士に嫌疑がかけられる事件が発生した。
イカルス号事件/英国水兵殺害事件(融通無碍/南史観<私観>)
その談判交渉が、高知の須崎で行なわれることになり、龍馬は高知に行くことに。
一方、後藤象二郎も山内容堂との「平和路線(=大政奉還)の最終調整」のため高知に帰ることに。
後藤象二郎(融通無碍/南史観<人物評伝>)
山内容堂(融通無碍/南史観<人物評伝>)
幕末足軽物語 樋口真吉伝完結編
<「幕末足軽物語樋口真吉伝完結編」ではP288>
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7月28日
夜、由比猪内と佐々木三四郎が大坂に下る。
佐々木三四郎<=高行>(融通無碍/南史観<人物評伝>)
用務は長崎において土佐藩の夕顔丸(海援隊が運営)の船員(海援隊員)が英国水兵を殺害した事件について本藩に確認と質問をするためだ。
海援隊(幕末足軽物語/関連話)
これに関連して、幕府役人が英国の動きを制止し「幕府自らが我が藩(=土佐)を糾問する」と幕府・永井玄蕃頭(永井尚志)から大坂屋敷の留守居役に連絡があった。
永井尚志(幕末足軽物語/関連話)
事の詳細は
「在坂の閣老・板倉伊賀守に直に逢って聞くべし」と言われ、2人が幕府の役所に赴く。
幕府役人と協議した結果、殺害の被害者・英国と加害者(と思われる)海援隊、そして幕府・土佐藩が一堂に会して審議を行なうことが決まった。
場所は高知の須崎、時期は直ちに。英国は事によっては土佐藩を武力攻撃することも辞さないと脅す。
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8月1日
由比、佐々木の二氏が帰国する。幕吏も行く。英国船もその後を追って土佐に行くらしい。龍馬も兵庫の駅(港)に着いた。幕船で幕吏が追い付いて来た。両者とも高知に急いでいる。
龍馬は乗船(=三邦丸)したが、まだ蒸気は立っていないから帆を上げて出発した。幕船も同じく帆を上げて追発した。英国船が長崎から来て、これも追発した。
真吉は思う。
「夷賊も幕府も大急ぎで高知に向かう。それぞれ船中は衆議一致せず大騒ぎだろう。この混乱を断ち切れるのは誰か。高知で待ち受ける後藤象二郎か、そうでなければ板垣退助だ。切歯切歯、歯がゆいことだ。」
板垣退助(融通無碍/南史観<人物評伝>)
後藤と板垣への真吉の高評価が分かる。真吉の後世の評価では後藤象二郎はあまり芳しくない(明治期のかれの所業の故か)
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8月5日
この日、龍馬は長岡謙吉に手紙を書いた。龍馬が自分の行動予定を、海援隊の事務局長たる長岡謙吉に知らせた短い手紙である。
この時期には、海援隊によって大政奉還策が土佐藩や薩摩藩に示され、龍馬はそれに向かって東奔西走の活動を行なっていた。
しかし、長崎で英国船イカルス号船員の殺傷事件がおき、海援隊士が犯人として疑われていた。その事件処理が長引き、龍馬は土佐藩と英国側との交渉の席に立ち会うため予定を変更して土佐へ向かわねばならなくなったのだ。
龍馬の手紙
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8月8日
佐々木氏らが乗った薩摩の蒸気船は8月1日浪花を発し、2日夜に土佐の須崎に着いた。
幕府の船も(1日遅れで)3日、須崎着。
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8月12日
本藩から幕吏の書類が届く。今月の6日に高知城下から出されたもの。
この時点では、まだ英国船は土佐・須崎に到着していない。
須崎には渡邊弥久馬、由比猪内、後藤象二郎、佐々木三四郎、寺村左膳らが詰めている。板垣退助は二小隊を率いて須崎に来ている。
渡辺弥久馬(融通無碍/南史観<人物評伝>)
寺村左膳(融通無碍/南史観<人物評伝>)
後藤象二郎が薩摩・西郷隆盛に送った手紙に
「(大政奉還という)土佐の国論に変わりなく、さあ京都に行こうかとした時、英国人殺害事件の報せが飛び込んで来た。
この一件が幕府の悪巧みに間違いないから(出発を延期して)英国などと直接交渉し、幕府の奸謀であることを証明したい。その後藩侯父子が英国公使と懇親を結び土佐を出る予定だ」。
交渉場所は高知の須崎。須崎の港に龍馬の三邦丸、幕吏の船、英国船も到着し交渉が始まった。
船内の交渉では、陸で板垣の小隊が活発に行軍するのを見て英国側が不快感を示し
「交渉より戦争をする気じゃないか。不愉快極まる」と抗議すると、後藤は涼しい顔で
「いや、通常の訓練、演習でござるよ」と答えて、脇にいた寺村左膳などを安堵させたという。
板垣は戊辰戦争で戦功を挙げ、明治を迎えると政治家として自由民権運動をリードしたが、「政治家より軍人に適した人柄だった」という評価がある。
海援隊による犯行でないことは実証されなかったが、ひとまず土佐藩とは関わりがないということで決着した。(その後、長崎でも龍馬達<海援隊>は長崎奉行などから尋問を受けたが犯人は分らず仕舞い、明治になってから事件は解決した。)
土佐・須崎での決着後、(須崎に来ていた)英船、幕船も帰帆した。
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8月12日
佐々木三四郎と才谷梅太郎(=龍馬)は藩船の夕顔丸で、長州経由で長崎に行くことに。
この船に須崎での交渉に来ていた英国の通訳・佐藤健之助(アーネスト・サトウ、佐藤愛之助とも号した)が加わり同乗した。長州では龍馬の紹介で、佐藤は桂小五郎を知ることになる。
佐藤健之助(アーネスト・サトウ)
その後、龍馬は長崎で大量の銃を調達し、夕顔丸で高知経由で大政奉還を成すために京に行くことになる。
夕顔丸
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◆薩土盟約の解消
『大政奉還図』邨田丹陵筆後藤は9月2日に京都へ戻ったが、イカロス号事件の処理に時間がかかったことと薩土両藩の思惑の違いから、9月7日に薩土盟約は解消してしまった。その後、薩摩、土佐両藩は薩土討幕の密約に基づき討幕の準備を進めることになる。
イカルス号水夫殺害事件(融通無碍/南史観<私観>)
須崎での談判交渉後、佐々木三四郎と才谷梅太郎(=龍馬)が本藩高知から土佐藩船・夕顔丸に乗船して長崎に行く。
この船に英国の通訳・佐藤健之助(アーネスト・サトウ、佐藤愛之助とも号した)が加わり同乗した。
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[融通無碍]
◆佐藤健之助(アーネスト・サトウ)
イギリスの外交官。イギリス公使館の通訳、駐日公使、駐清公使を務め、イギリスにおける日本学の基礎を築いた。
長崎で起きたイカルス号水夫殺害事件の処理にあたる。
英国公使ハリー・パークスは、この事件を重要視した。
当初、犯人が土佐藩士(海援隊士)との情報(誤報であったが)があったため、長崎奉行所へ海援隊士の捕縛を要求。また、英国人貿易商人ウィリアム・オルトを通じて土佐商会主任の岩崎彌太郎に談判に応じるよう要請し、二人は英国領事館で対峙しますが彌太郎は海援隊の無罪を断固主張。このまま長崎奉行に任せていてもらちが明かないと判断したパークスは、大坂へ出向き幕府老中・板倉勝静と交渉。土佐藩大監察の佐々木三四郎らも巻き込み土佐(須崎)で交渉を行うことに。
佐藤健之助は阿波経由で土佐に乗り込み直接土佐藩と談判する。土佐では主に後藤象二郎を交渉相手とし、山内容堂にも謁見している。
後藤 象二郎(融通無碍/南史観<人物評伝>)
山内容堂(融通無碍/南史観<人物評伝>)
土佐・須崎で行なわれた協議で、イカルス号水夫殺害事件における犯人が海援隊員の犯行でないことは実証されなかったが、ひとまず土佐藩とは関わりがないという玉虫色の決着で終わる。結局、結論は出ず事件の再検証を行うべく再び長崎へ。
佐藤は龍馬とともに土佐藩船「夕顔」 で下関経由で長崎に向かった。下関では龍馬の紹介で桂小五郎と初めて会った。
長崎では、龍馬をはじめとする関係者一同が長崎奉行所において度重なる取り調べを受ける。約2ヶ月に及ぶ調べの結果、海援隊による犯行は実証されず、長崎奉行は「お構いなし<海援隊は無罪>」の判決をくだした。
この判決について、長崎奉行所に宛てた「龍馬の手紙」がある。
長崎奉行所(幕末足軽物語/関連話)
龍馬の手紙(長崎奉行宛て)
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8月14日
龍馬が「京都の情勢」などを伝える、三吉慎蔵に宛てた「龍馬の手紙」がある。
龍馬の手紙(三吉慎蔵 宛て)
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慶応3年9月
9月2日付の木戸孝允が龍馬に宛てた書簡(当時、既に木戸と龍馬は薩土密約の存在を熟知している。)がある。
桂は「狂言=大芝居」によって(大政奉還)が成されようが、成されまいが「大舞台(=幕府)の崩れは必然と存じ奉り候」と記している。
さらに、その後の幕府との武力衝突も想定し、土佐藩の板垣退助と薩摩藩の西郷隆盛に依って締結された薩土討幕の密約の履行が「最も急務である」とも記している。
龍馬はこの手紙をもらった直後、独断で土佐藩に買い取らせるためのライフル銃を1000丁以上を長崎で購入。直ちに帰藩し、土佐藩の家老/参政・渡辺弥久馬(斎藤利行)に、銃の購入と討幕の覚悟を求めている。
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慶応3年9月2日
桂小五郎(当時は既に木戸姓を名乗っていた)から龍馬宛に手紙がきた。龍馬はこの手紙をもらった後、独断で土佐藩に買い取らせるためのライフル銃を1000丁以上購入し、藩の重役に討幕への覚悟を求めた。
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9月6日
大監察に復職した退助は薩土討幕の密約をもとに藩内で武力討幕論を推し進め、佐々木高行らと藩庁を動かし、土佐勤王党弾圧で投獄されていた島村寿之助、安岡覚之助ら旧土佐勤王党員らを釈放させた。これにより、勤王党の幹部らが議して、退助を盟主として討幕挙兵の実行を決断。武市瑞山の土佐勤王党を乾退助が事実上引き継ぐことになる。
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9月9日
龍馬はグラバー商会で鉄砲千挺取り揃えて、土佐へ向かうことを決断した。
長崎に駐在している土佐藩重役・佐々木高行に報告した手紙がある。
龍馬の手紙(佐々木高行宛て①)
佐々木高行(=三四郎)(融通無碍/南史観<人物評伝>)
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龍馬、長崎での最後の仕事(長崎龍馬便り)
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9月18日
この時期、龍馬は佐々木高行と頻繁に接触し、意見・情報の交換をしている。酒を酌み交わしての交流も盛んに行なっており、飲み会に誘う「龍馬のくだけた手紙」も多数残されている。
龍馬の手紙(佐々木高行 宛て②)
一方、龍馬、佐々木高行、桂小五郎が「薩土密約」による武力倒幕の準備もすすめていたことをうかがわせる「龍馬の真面目な手紙」も残されている。
龍馬の手紙(佐々木高行 宛て③)
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慶応3年9月20日
龍馬は、桂小五郎に
「先日いただいた手紙の中の大芝居の件は、かねてより知っていたことだけど、実におもしろい。」と手紙を出している。
龍馬の手紙<桂小五郎(=木戸孝允)宛て③>(幕末足軽物語/関連話)
龍馬は大政奉還を幕府の権力を削ぐための大芝居とし、その後、武力討幕を行わねばならないが、後藤象二郎が大政奉還のみで止まり討幕挙兵を躊躇った場合は、後藤を捨て武力倒幕を主張する板垣退助に接触すると述べている。
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慶応3年9月22日
中岡慎太郎が『兵談』を著して、国許の勤王党同志・大石弥太郎(=大石円)に送り、軍隊編成方法の詳細を説いている。
大石弥太郎(融通無碍/南史観<人物評伝>)
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9月23日
これらの動きに呼応し、イカロス号事件の処理を終えた龍馬は、新式小銃1,000挺あまりを船に積んで長崎から土佐へ運んだ。
イカルス号水夫殺害事件(融通無碍/南史観<私観>)
途中、下関に寄港、そこで長州藩士・伊藤俊輔(=伊藤博文)と面談して薩摩・土佐のことなどを話した。そのことを長州の桂小五郎に報告した「龍馬の手紙」がある。
龍馬の手紙(桂小五郎宛て<幕末足軽物語/関連話>)
また、下関では廻船問屋・伊藤家に妻のお龍と妹君江を預けた。
この際、龍馬は
「万一のご報知仕候時ハ、(略)愚妻おして尊家に御養置可被遺候よふ」との書簡を朋友・三好慎蔵に送り、お龍の後事を託している。
三吉慎蔵(融通無碍/南史観<人物評伝>)
三好慎蔵は龍馬との約束通り、お龍・君枝姉妹を長府の自宅に引き取って3ヶ月間面倒を見た。
翌、慶応4年3月、慎蔵はお龍・君枝姉妹を高知の坂本家に送り届けている。
その後、お龍の妹・君江は高知/和食(現高知県芸西村)の千屋寅之助に嫁いでいる。
千屋寅之助(融通無碍/南史観<人物評伝>)
寅之助の実家には、お龍も同居しており、和食の琴ヶ浜松原には「お龍・君江姉妹像」の銅像がある。
お龍君枝姉妹像(高知県芸西村和食)
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慶応3年9月24日
在京の土佐藩(佐幕派)上士らが、幕吏の嫌疑を恐れて白川藩邸から陸援隊の追放を計画。同日、坂本龍馬が、安芸藩・震天丸に乗り、ライフル銃1000挺を持って5年ぶりに長崎より土佐に帰国。浦戸入港の時、土佐藩・家老/参政・渡辺弥久馬(斎藤利行)に宛てた「龍馬の手紙」がある。
龍馬の手紙<渡辺弥久馬宛て>(幕末足軽物語/関連話)
渡辺弥久馬(融通無碍/南史観<人物評伝>)
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慶応3年9月25日
龍馬が、土佐勤王党の同志らと再会し、討幕挙兵の方策と時期を議す。
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慶応3年9月29日
板垣退助が、土佐藩仕置役(参政)兼歩兵大隊司令に任ぜらる。しかし、後藤象二郎の献策による大政奉還論が徳川恩顧の土佐藩上士の中で主流を占めると、過激な武力討幕論は遠ざけられるようになる。大政奉還論に傾く藩論を憂い、板垣退助は何度も警告を発したが、藩論が大政奉還に決すると、板垣退助は失脚。
坂本龍馬が、長州藩の桂小五郎(木戸孝允)へ送った書簡には
「大政奉還が受け容れられなかった場合は、後藤を国へ返し乾退助を出す」と述べている。
龍馬の手紙(桂小五郎 宛て)
慶応3年の大芝居(融通無碍/第38話)
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坂本龍馬らは一連の動きに呼応して、長崎より銃器を携えて土佐へ帰国。
龍馬は5年半ぶりに故郷の土を踏み家族と再会した。
浦戸入港の時、龍馬は土佐藩家老・渡辺弥久馬(斎藤利行)に小銃の購入、及び討幕への覚悟を求めた書簡を送っている。
この時、土佐藩が龍馬から購入した新式銃千挺は戊辰戦争で使われ、威力を発揮した。
龍馬の手紙(渡辺弥久馬 宛て)
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五台山下の料亭での懇談後、渡辺は龍馬に帰宅を勧める。脱藩以来初めての帰宅だった。
銃の売却代金の他に謝礼も追加され、自宅で開かれた龍馬帰郷の祝いの席で、姉・乙女らに気前良く分け与えた。
脱藩者が秘密裏に、公然に近い形で帰郷した。
その後、龍馬は上京するが船の故障もあって須崎に舞い戻り別船に乗り換える等、予定も狂わせながら大坂へ入港を果たす。
11月15日に京都で暗殺されるから、長崎から始まり大坂で終わるこの船旅(途中で高知を経由した)は、龍馬最後の船旅となる。
死の直前に福井に行くが、これは陸路だった。龍馬は死ぬために京都に入った。
龍馬 最後の帰郷(NHK動画)
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慶応3年10月3日
山内容堂の同意を受けた後藤象二郎、福岡藤次が二条城に登城して、山内容堂、後藤象二郎、寺村左膳、福岡藤次、神山左多衛の連名で老中・板倉勝静に大政奉還建白書を提出、幕府が時勢に従い政権を朝廷に奉還することを提案した。
しかし、板垣退助は武力討幕の意見を曲げず、大政奉還論を「空名無実」と批判し「徳川300年の幕藩体制は、戦争によって作られた秩序である。ならば戦争によってでなければこれを覆えすことは出来ない。話し合いで将軍職を退任させるような、生易しい策は早々に破綻するであろう」と真っ向から反対する意見を言上したことで全役職を解任されて失脚した。
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[融通無碍]
『大政奉還』は『政権返上』でいい。今に残る皇国史観用語。
日本を今一度洗濯いたし申し候(NHK動画)
大政奉還(YouTube)
後藤が大政奉還の建白書を提出するにあたって、龍馬は「破談になれば国(土佐藩)から兵を出し、その兵の圧力で話をまとめよう」という激しい檄を飛ばしている。
龍馬の決意(心意気)を後藤に伝える「龍馬の手紙」がある。
龍馬の手紙(後藤象二郎宛て)
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10月8日
乾退助は大政奉還に真っ向から反対して、土佐藩歩兵大隊司令役を解任された。
土佐藩は板垣退助の説く過激な武力討幕か、後藤象二郎の説く穏健な大政奉還かで藩論が揺れ動く。
後藤 象二郎(融通無碍/南史観<人物評伝>)
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10月4日
寺村左膳と神山左多衛が摂政・二条家に同じ内容の建白書を差し上げる。
寺村左膳(融通無碍/南史観<人物評伝>)
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10月5日
寺村左膳が立帰り(任務終了次第戻る)で帰国し、本藩に京師情報を伝えることになった。
真吉と龍馬と寺村左膳(融通無碍/南史観<私観>)
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10月8日
後藤象二郎氏らが幕府・板倉閣老に建白書の趣旨を説明するため出向く。
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10月9日
龍馬が入京。
徳川慶喜がこの建白を受け入れるか否かは不明確で、龍馬は後藤に
「建白が受け入れられない場合は、あなた(後藤象二郎)はその場で切腹する覚悟でしょうから、後下城なきときは、海援隊同志とともに慶喜を路上で待ち受けて仇を討ちます。地下で相まみえましょう」 と激しい内容の手紙を送っている。
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10月10日
才谷楳太郎(=坂本龍馬)が長崎から長州、土佐を経て上京した。
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[融通無碍]
真吉は龍馬の動静を日記に書いていた。
龍馬は長崎で買い込んだ大量の新式銃を蒸気船・震天丸に載せ長州に寄港した後、四国の西南端の足摺岬を回り高知の浦戸湾に船を停泊。土佐藩への銃の売却だ。
龍馬と千挺のライフル銃(NHK)
龍馬は土佐藩家老・渡辺弥久馬と交渉した。
渡辺弥久馬(融通無碍/南史観<人物評伝>)
結果、土佐藩は武器は必要とし、銃の購入が決まった。
売却代金の他に謝礼も追加され、龍馬帰郷の祝いの席で、姉・乙女らに気前良く分け与えた。
龍馬は11月15日に京都で暗殺されるから、長崎から始まり高知経由、大坂で終わるこの船旅は、龍馬最後の船旅となる。
龍馬 最後の帰郷(NHK動画)
龍馬は大政奉還を見届けるため、
そして死ぬために、真吉の居る京都に入った。
大政奉還と竜馬(融通無碍/南史観<私観>)
本山只一郎宛の坂本龍馬 書状(霊山歴史館蔵<京都東山>)
龍馬の手紙(youtube)
この手紙が書かれた時期(土佐への最後の帰郷直前)には、本山只一郎は土佐藩の大監察という重役に就いていた。
文中、龍馬は「薩長が藩論を統一したので、土佐藩も早く藩論を統一してほしい」、「運んできたライフル銃の購入を決めてほしい」と、本山をせかしている。
本山只一郎(融通無碍/南史観<人物評伝>)
土佐藩が龍馬から購入したライフル銃は1000挺ともいわれる。後に真吉が土佐藩の輜重隊<兵站>の責任者として参戦した戊辰戦争で使われることに。
真吉は輜重隊<裁判役>(融通無碍/南史観<私観>)
◆大政奉還
大政奉還 歴史を動かした龍馬たち(NHK動画)
大政奉還~竜馬暗殺まで(融通無碍/南史観<私観>)
大政奉還(YouTube)
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10月13日
幕府は二条城に諸藩を集める。集まった諸大名、その数40余であった。
王政復古(=大政奉還)を布告する紙面が参加者に配られる。
その後、別室に薩摩・小松帯刀、土佐・後藤象二郎、福岡藤次、安芸・辻将曹らが呼ばれ、将軍・徳川慶喜が直接王政奉還のことを述べた。そして
「明日は取りあえず二条摂政殿に説明し、明後日に御所に参内して陛下の勅許をお願いする積もりだ」というと、薩・小松と土佐・後藤は
「それはまずい。明日すみやかに参内して勅許を得るべきだ」と詰め寄る。
窮した慶喜は
「まあ明後日の参内は確約するから・・・」と言ってその場を去ろうとしたが振り返って
「小松と後藤は明日二条城に出て来なさい」と付け加えた。
大政奉還 歴史を動かした龍馬たち(NHK動画)
将軍・徳川慶喜は二条城で後藤を含む諸藩重臣に大政奉還を諮問。翌14日に明治天皇に上奏。15日に勅許が下された。
大政奉還・上奏の直前(10月14日)に討幕の密勅が薩摩と長州に下された。
【討幕の密勅(訳文)】
源慶喜(徳川慶喜)は、歴代長年の幕府の権威を笠に着て、一族の兵力が強大なことをたよりにして、みだりに忠実で善良な人々を殺傷し、天皇の命令を無視してきた。そしてついには、先帝(孝明天皇)が下した詔勅を曲解して恐縮することもなく、人民を苦境に陥れて顧みることもない。この罪悪が極まれば、今にも日本は転覆してしまう(滅んでしまう)であろう。
朕(明治天皇)今、人民の父母となってこの賊臣を排斥しなければ、いかにして、上に向かっては先帝の霊に謝罪し、下に向かっては人民の深いうらみに報いることが出来るだろうか。これこそが、朕の憂い、憤る理由である。
本来であれば、先帝の喪に服して慎むべきところだが、この憂い、憤りが止むことはない。お前たち臣下は、朕の意図するところをよく理解して、賊臣である慶喜を殺害し、時勢を一転させる大きな手柄をあげ、人民の平穏を取り戻せ。これこそが朕の願いであるから、少しも迷い怠ることなくこの詔を実行せよ。
しかし、大政奉還の成立によって討幕の大義名分が失われ、21日に討幕の実行延期を命じられる。
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いよいよ大政奉還の可否を決める日。
龍馬は二条城へ登城する後藤に決死の覚悟で臨めと手紙(檄文)を送った。
『ご相談の建白の件ですが、万一行わなければ元より必死の覚悟です。下城(二条城)されない時は、海援隊の一手をもって大樹(将軍)参内の道路で待ち受け社稷(国家)のため仇を報じます。ことの成否は関係なく、先生(後藤象二郎)とはあの世でお会いします。』
しかし、よほど力が入ったのか「(後藤)先生」を「生生」と書き損じ、これを下書きとして手元に残した。このときの緊張と高まりが直に伝わる第一級資料である。(坂本龍馬記念館HPより)
龍馬の手紙(後藤象二郎宛て)
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10月14日
将軍・慶喜が(摂政・二条家にか?)辞表を出す。
下横目・卯七郎が高知を8日に発ち昨13日に着京した。
下横目・卯七郎が京に来た理由は、近頃高知へ京師の情報が全く届かないのは(何か変事があって)途絶かと心配した上司が「お前、行って見て来い」と命じられたからであった。
卯七郎は出発した日に両関(正しくは高知の領石<りょうせき>か)で十郎と行き逢ったそうだ。
真吉は高知の同志(島村祐四郎、桑原介馬、<中村の>諸君)に京師の情報(大政奉還の諸事情)の手紙を送る。
真吉が送った手紙<大政奉還!!>(融通無碍/南史観<私観>)
(土佐山内家宝物資料館蔵)
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10月15日
慶喜が御所に参内する。
広島・辻と土佐・後藤が薩摩・小松に逢いに行く。
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10月16日
小松氏らが「松力」で会合を開く。
(以下煩雑につき略す)
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展望が見えた龍馬は、戸田雅楽(尾崎三良)と新政府職制案の『新官制擬定書』を策定した。
龍馬が西郷に見せた新政府職制案の名簿に西郷の名はあったが龍馬の名が欠けており、新政府に入ってはどうかと勧めると龍馬は
「わしは世界の海援隊をやります」と答えたという有名な逸話があるが、尾崎の史料には龍馬の名は参議候補者として記載されており、この逸話は大正3年に書かれた千頭清臣作の『坂本竜馬』が出典の創作の可能性がある。
ただし龍馬本人は役人になるのは嫌とお龍に語ったという話もあり(『千里駒後日譚』)、11月の陸奥への手紙には「世界の話もできるようになる」ともあって、 尾崎の案と西郷に見せたものは違う名簿という可能性なども考えられる。
尾崎の手控とされる資料は数種あり、参議の項に坂本の名の有無、大臣の項に慶喜の名の有無などの違いが指摘されている。
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10月17日
薩摩の小松、西郷、大久保(=薩摩の大立者3人)が帰国する。
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10月18日
◆届かなかった「龍馬の手紙」
龍馬暗殺の直前、龍馬は安全な宿の確保を真吉に頼んだ手紙がある。
しかし、その龍馬の手紙は真吉に届かなかった・・・。
届かなかった龍馬の手紙(融通無碍/南史観<私観>)
樋口真吉伝
<「樋口真吉伝(南寿吉著)」ではP242>
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10月19日
望月清平が勅書を持って帰国する。下横目・俊太郎も同行する。
この前日(18日)、清平はすぐ近くの町屋・近江屋に潜伏する龍馬からの手紙を受け取っていた。
その中身は大要で
「今、住む近江屋が危険なことは承知。だが薩摩の世話になるのもまずい。真吉に頼んで安全な隠れ家を探してくれ」というものであった。
届かなかった手紙(融通無碍/南史観<私観>)
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10月20日
福岡藤次と神山佐多衛の二氏が御所に招かれる
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慶応3年10月22日
この日、龍馬は陸奧宗光に手紙を出している。
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[龍馬の手紙]
陸奧宗光 宛て
陸奧宗光(融通無碍/南史観<人物評伝>)
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慶応3年10月24日
後藤象二郎の依頼で山内容堂の書状を持って越前福井藩へ出向き、松平春嶽の上京を促して三岡八郎(=由利公正)と会談した。
由利公正(融通無碍/南史観<人物評伝>)
由利公正
龍馬は下横目・岡本健三郎に見張られながら越前に行った。
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◆岡本健三郎
岡本健三郎
岡本健三郎 宛て
◆由利公正(=三岡八郎)
龍馬は福井で由利公正に会い、新政府樹立後の経済運営と財政についてコタツに足を突っ込んで語り合う。
由利公正は藩によって逼塞された身の上だったから監視役がつき、龍馬にも同様の健三郎がいる。
二人の相談事はコタツで足を暖めながらだったが、監視と見張りはその様子を遠巻きにして見るだけで「たまらん程ひやかった」との健三郎後日談がある。
由利公正も
「この出会いで龍馬から写真をもらった。その後川に落としてなくしたが、思えばそれは龍馬が暗殺された晩だった」と言い残した。
龍馬暗殺(融通無碍/南史観<私観>)
謹慎中に坂本龍馬の来訪を受けて交流を深める。坂本とは新政府が取るべき経済政策について談義し、このことが明治新政府への参画を求められたことへ結びついたのだと後に語っている。
明治新政府(融通無碍/南史観<私観>)
三岡八郎(=由利公正)(融通無碍/南史観<人物評伝>)
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[融通無碍]
◆明治新政府(幕末足軽物語/関連話)
民撰議院設立建白書
江戸の幕藩体制が崩れ、明治の幕が開いていた明治7年(1874)1月、国会議事堂前の庭園付近にあった屋敷に板垣退助、後藤象二郎、由利公正、岡本健三郎らが集まり、数日後、明治政府に一通の建白書を出す。国会をつくって人々を政治に参加させよ―と求めた「民撰議院設立建白書」だった。
高知新聞1(2024.1.1)より
高知新聞2(2024.1.1)より
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[融通無碍]
龍馬が越前福井藩へ向けて出発。
龍馬の目的は、
①大政奉還後の政治体制について松平春嶽の考えを聞くこと。
②新政府の財政問題の解決方法を由利公正に聞くこと。
松平春嶽(融通無碍/南史観<人物評伝>)
新国家には松平春嶽の力が必須であるため、本来なら後藤象二郎が行くべきところ、後藤は大政奉還の顛末を山内容堂へ報告するため帰国しなければならず、代わりに後藤が龍馬を派遣した。
福井から京に戻った後、会談内容について土佐にいる後藤象二郎へ送った「龍馬の手紙」がある。
龍馬の手紙<後藤象二郎宛て②>(幕末足軽物語/関連話)
・・・・・・・・・
10月29日
真吉は大原卿の家に行き、帰り道に吉井耕助を訪ねる。三条侍従卿にも拝謁した。
吉井耕助は薩摩藩士。
吉井は、龍馬の10月18日付け望月清平宛ての手紙で
「薩摩の吉井幸輔からの伝言で『龍馬の潜伏先は危険で、いっその事二本松の薩摩藩邸に入ったらどうか』と勧められた」、その吉井である。
龍馬の手紙<望月清平宛て>
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[融通無碍]
龍馬の手紙をみていない真吉は、この日吉井を訪ねても話は龍馬に及ばない。
吉井は樋口殿と龍馬の関係を知るから当然、話柄は龍馬に移ると考えた。
が、とうとう触れずに終わった。
「避けるとは、土佐は龍馬に関して含むところがあるのか」と思っただろう。
◆吉井幸輔(友実)と龍馬
龍馬に西郷隆盛を引き合わせたのは吉井幸輔というのが定説。
吉井幸輔(融通無碍/南史観<人物評伝>)
池田屋事件のあと、傷の療養を兼ねて「お竜」を連れ、日本で最初の新婚旅行に鹿児島の霧島へ行ったエピソードは有名だが、そのときに鹿児島で何かと面倒を見たのが吉井幸輔。
また、歌人/吉井勇は幸輔の孫、幼少の時から祖父に龍馬のことを聞かされ、尊敬とともに親近感を持っていたと云われている。東京で身も心も疲れ果てたとき、土佐へ居寓する心境になったのは、「土佐は龍馬のふるさと・・・」という事があったのかもしれない。
吉井勇
四万十川百人一首/吉井勇
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慶応3年11月上旬
船中八策をもとにしたとされる『新政府綱領八策』を起草し、新政府の中心人物の名は故意に「○○○自ら盟主と為り」と空欄にしておいた。龍馬が誰を意図していたのかはさまざまな説がある。
・・・・・・・・・
11月3日
後藤象二郎が帰国する。
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11月4日
この頃京都市中に神仏の名号(御札<おふだ>)が降る。その騒ぎが喧<やかま>しい程だ。(群集は)日夜踊り狂って止まない。
◆御札が降る
全国的に起った珍現象である。「えじゃないか えじゃないか」と歌いながら踊り狂う民衆が町にあふれた。土佐でもそれ以前から「のえくり」と呼ばれる民衆の踊り(あるいは行列)が鏡川河畔の潮江の川原で続いた。前の人の着物を握り蛇のような列をなしてジグザク行進する。あまりの喧騒に手を焼いて藩庁はこれを禁止した。
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[融通無碍]
転換期には諸外国でもこんな現象が起きるらしいから人間の本性に基ずくものかもしれぬ。
えじゃないか(融通無碍/南史観<私観>)
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11月5日
福井から帰京した。
直後に、三岡八郎の新政府入りを推薦する後藤象二郎宛ての手紙「越行の記」を記し、さらに10日には福井藩士・中根雪江宛てに、三岡八郎を出仕させるよう懇願する手紙を記している。
龍馬の手紙(慶応3年11月初旬)
越行の記(土佐藩参政・後藤象二郎に、越前福井藩を訪れた内容を報告した書簡。)
龍馬の手紙(後藤象二郎 宛て②<幕末足軽物語/関連話>)
・・・・・・・・・
11月8日
龍馬は、越前藩士・村田巳三郎宛てに手紙を書いている。
龍馬の手紙(村田巳三郎宛て)
・・・・・・・・・
11月10日
この日、龍馬は幕府の要人・永井尚志を訪問したが、不在で逢えなかった。
この日に書いた福井藩士・中根雪江宛ての「龍馬の手紙」がある。
追白
今日、永井玄蕃頭(永井尚志)方へ訪ねていったのですがご面会は叶いませんでした。
(永井殿と)談じたい天下の議論が数々ありますので明日また訪ねたいと考えているところですので大兄(=中根雪江)も御同行が叶いますならば実に大幸に存じます。
再拝
龍馬の手紙<新国家>解説は尾崎前高知県知事
《福井藩士・中根雪江宛ての「龍馬の手紙」。中根は松平春嶽が11歳で16代藩主に就任したときの教育係として御用掛となる。同時に新福井藩主・松平慶永のもとで藩政改革派の主導権を得ることとなり藩政改革を実行した。文久3年5月27日に京都の越前藩邸で坂本龍馬と会談した際に、福井でじっとしている春嶽父子に上京するようにと要請されるが、機が熟していないと反対し、文久4年6月に福井に帰国し、藩重臣会議の席で上京派である横井小楠らとの政争に敗れ蟄居となった。》
暗殺5日前の「龍馬の手紙」(幕末足軽物語/関連話)
龍馬と永井尚志<大政奉還~伏見戦争>(幕末足軽物語/関連話)
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さらに、この日には龍馬は芸州藩士・林謙三から(自身の身の振り方について)相談された手紙の返書をしたためている。
龍馬の手紙<林謙三 宛て>(幕末足軽物語/関連話)
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[手紙の梗概]
『君(幕末時の流行語:貴方のこと)に船から降りろ、なんのと言えば、道理においておかしい。
思うに、ただ君のみならず久年積学(長い期間学び)した皆に、船の一つでも私の方からお渡しするのが当然だけど、ご存知の通りの次第で、ここにおいては私は汗顔(苦り切った顔)の次第です。
私自身も面白くなく、海援隊も身を寄せる場所もないので待つしかない。
それと、幕府へでも、薩摩へでも君の海軍の力を持って、その力を活かせる場所へ行くという話も、私は賛成です。』
~~~~~~~~
さらに、さらに、この日には福井藩士・由利公正へ新政権樹立にあたり上洛を促す書簡を送っている。
龍馬の手紙(由利公正 宛て<幕末足軽物語/関連話>)
明治7年、由利公正は板垣退助・後藤象二郎・江藤新平らとともに、新政権(明治新政府)に「民撰議院設立建白書」を提出している。
民撰議院設立建白書(幕末足軽物語/関連話>)
・・・・・・・・・
11月11日
龍馬はこの日早朝、幕府の要人・永井尚志を訪問した。
永井を訪問したことを記した芸州藩士・林謙三に送った「龍馬の手紙」がある。
龍馬の手紙<林謙三 宛て>(幕末足軽物語/関連話)
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[手紙の梗概]
『今朝、永井玄蕃(=永井尚志)方に行って色々と話をしたところ、天下の事はとても危うい状態なのでお気の毒、と言葉を尽くして申しました。
永井尚志(融通無碍/南史観<人物評伝>)
大兄(=林謙三)も、今しばらくはお命を大事にして下さい。
実に成すべきことは今なのですから。やがて方向を定め、修羅か極楽か(戦争か平和)覚悟を決めましょう。』
・・・・・・・・・
11月14日
龍馬はこの日も幕府の要人・永井尚志を訪問している。
永井尚志が龍馬暗殺の黒幕説もあるが・・・。
・・・・・・・・・・
慶応3年11月15日(龍馬暗殺の日)
龍馬は宿にしていた河原町の蛸薬師で醤油商を営む近江屋新助宅母屋の二階にいた。
当日は陸援隊の中岡慎太郎や土佐藩士の岡本健三郎、画家の淡海槐堂などの訪問を受けている。
午後8時頃 、龍馬と中岡が話していたところ、十津川郷士と名乗る男たち数人が来訪し面会を求めてきた。従僕の藤吉が取り次いだところで、来訪者はそのまま二階に上がって藤吉を斬り、龍馬たちのいる部屋に押し入った。龍馬達は帯刀しておらず、龍馬はまず額を深く斬られ、その他数か所を斬られて、ほとんど即死に近い形で殺害された。享年33(満31歳没)。龍馬の誕生日と命日が同じ日になってしまった。
坂本龍馬暗殺場所、近江屋
坂本龍馬 非業の死に迫る(NHK動画)
龍馬暗殺は新選組の関与が強く疑われた。
慶応4年(1868年)4月に、戊辰戦争の最中、下総国流山で出頭して捕縛された新選組局長の近藤勇は、土佐藩の主力部隊の小監察であった谷干城の強い主張によって斬首に処された。ただし、谷自身は近藤が「有志の徒」を殺害したとは言及しているが、龍馬の名は全く出しておらず、斬首の理由としても言及していない。また、新選組に所属していた大石鍬次郎は龍馬殺害の疑いで捕縛され拷問の末に自らが龍馬を殺害したと自白するも、のちに撤回している。
12月6日海援隊士たちは紀州藩による、いろは丸事件の報復を疑い、陸奥陽之助らが紀州藩御用人の三浦休太郎を襲撃して、三浦の護衛にあたっていた新選組と斬り合いになっている。(天満屋事件)
明治3年、箱館戦争で降伏して捕虜になった元見廻組の今井信郎が、取り調べ最中に、与頭・佐々木只三郎とその部下6人(今井信郎、渡辺吉太郎、高橋安次郎、桂早之助、土肥伴蔵、桜井大三郎)が坂本龍馬を殺害したと供述し、現在では見廻組犯人説が定説になっている。その一方で、幕府要人・永井尚志黒幕説、薩摩藩黒幕説やフリーメイソン説まで様々な異説が生まれ現在まで取り沙汰されている。
永井尚志(龍馬の手紙)
墓所は京都市東山区の京都霊山護国神社の霊山墓地中腹。墓碑は桂小五郎が揮毫した。
龍馬暗殺(融通無碍/南史観<私観>)
坂本龍馬と云う支柱を失った海援隊は大きな転機を迎えた。
坂本龍馬の葬儀を無事終えた海援隊の一同は、幕府の探索の目が厳しい京を出て一旦大坂に集結したが、その中では陸奥陽之助らを中心とした一団が、自分達自らの手で坂本龍馬の復讐を実行するのだと息巻き、血眼になって下手人の捜索に乗り出した。
いろは丸事件に絡んで、紀州藩の三浦休太郎を犯人と決めつけ、「竜馬暗殺復仇隊」を結成して、京の料亭/天満屋で新撰組の面々と酒を飲んでいた三浦を襲撃する。(天満屋事件)
三浦休太郎は手傷を負うが危機一髪で逃れた。
竜馬暗殺復仇隊(融通無碍/南史観<私観>)
旅籠・天満屋/京都油小路
《日記・倦遣録より》
幕末足軽物語 樋口真吉伝完結編
<「幕末足軽物語樋口真吉伝完結編」ではP302>
・・・・・・・・・・・・
慶応3年12月7日
この夜、紀州の大奸・三浦休太郎を討つも死ななかった。
龍馬の暗殺犯とされた三浦を討つため海援隊(陸奧宗光ら)を主体とする復仇隊が作られ、京の料亭/天満屋で新撰組の面々と酒を飲んでいた三浦を襲撃(天満屋事件)するも討ち漏らした、と真吉は日記に書き残した。
新撰組(融通無碍/南史観<私観>)
~~~~~~~~~~
三浦休太郎は紀州藩士。
この年(慶応3年<1867>4月)龍馬の海援隊船(いろは丸)と紀州船が衝突、いろは丸が沈没した事件が起こる。
いろは丸事件(融通無碍/南史観<私観>)
いろは丸事件(NHK動画)
・・・・・・・・・・・
さらに、倦遣録と同じ時期を扱った記録(愚庵筆記、壬戊日記)がある。
龍馬が暗殺された<慶応3年11月15日>ころの記録(日新録)も現存する。
日記・日新録<龍馬暗殺の日>(融通無碍/南史観<私観>)
~~~~~~~~
慶応3年12月9日
薩摩を中心とする倒幕派の画策によって、王政復古の大号令が出され、一部の公家と5藩(薩摩・土佐・安芸・尾張・越前)に長州藩を加えた有力者が主導する新政府が樹立された。
王政復古の大号令(幕末足軽物語/関連話)
そして同夜、明治天皇臨席のもと、最初の三職会議が開かれた。
山内容堂ら公議政体派は、徳川慶喜の出席が許されていないことを非難し、慶喜を議長とする諸侯会議の政体を主張した。
容堂が
「そもそも今日の事は一体何であるか。2、3の公家が幼沖なる天子を擁して陰謀を企てたものではないか」と詰問すると、
岩倉具視が
「今日の挙はことごとく天子様のお考えの下に行われている。幼き天子とは何事か」と失言を責めたため、容堂も沈黙したという。
倒幕派の強硬な主張により、
「慶喜の内大臣職を免じ、徳川家の領地(一部)を没収する」という結論を出したのである。
おとなしく政権を移譲した徳川家に対し、極めてむごい仕打ちだが、倒幕派はそれで二条城にいる幕臣や佐幕派を暴発させ、武力で徳川家を滅ぼそうと考えたのである。
「永井玄蕃頭(尚志)は予て台旨(慶喜の命)を奉じて鎮撫に尽したる者なれども、それすら朝廷が辞官・納地の難問題を以て徳川家に臨むに及びては、「薩長二賊を除くは今日の急務なり」と憤慨するに至れり」(渋沢栄一著『徳川慶喜公伝4』東洋文庫)
このように、さすがの永井尚志も、薩長の仕打ちに激高したと伝えられる。
だが、これを知った慶喜は、興奮する幕臣たちをおさえ京都を引き払って大坂城へ撤退する。
~~~~~~~~
慶応3年12月25日
江戸で薩摩藩邸焼討ち事件が起こる。
*薩土密約に基づき薩摩の西郷隆盛が谷干城に「京都で合戦が始まる」ことを告げる。
*この情報を高知本藩に伝えるため急遽、谷干城が早馬で向かうことに。
==========
[融通無碍]
薩摩の西郷の謀略で「江戸薩摩藩邸焼き討ち事件」が起こる。
江戸薩摩藩邸焼き討ち事件(幕末足軽物語/関連話)
西郷は土佐藩兵の上洛を促し、板垣退助が迅衝隊を率いて上洛、そのまま関東・東北へ兵を進めた。戊辰戦争だ。
迅衝隊(融通無碍/南史観<私観>)
・・・・・・・・・・・
『丁卯上京誌』という真吉が残した別本がある。(慶応3年4月から慶応4年1月までの記録)
慶応3年<丁卯>4月、容堂の御側役(御徒士目付役)として京都にのぼり、混迷とした幕末の荒波に身を投じた時期の日記だ。「外交掛かり御用」を兼任され、公家の三条郷(三条実美)大原卿、薩摩の西郷隆盛、陸援隊の中岡慎太郎らと頻繁に接触し、薩土佐盟約、大政奉還、龍馬暗殺、そして慶応4年1月に伏見戦争が勃発する前後のことを克明に記録している。
三条実美(融通無碍/南史観<人物評伝>)
当然、龍馬とのつながり(関わり合い)も深い。
丁卯上京誌(融通無碍/南史観<私観>)
・・・・・・・・・・・
《龍馬は前年<慶応3年11月15日に暗殺されているから、当然これから以降の真吉の記録は、龍馬とのつながりはない。》
~~~~~~~~~~~~
[融通無碍(南寿吉著)]
混迷の京都事情の背景(融通無碍/南史観<私観>)
・・・・・・・・・・・・
《慶応3年/真吉の動静》
龍馬が暗殺された日の真吉の日記<倦遣録より>
ーーーーーーー
《日記・倦遣録より》
幕末足軽物語 樋口真吉伝完結編
<「幕末足軽物語樋口真吉伝完結編」ではP300>
慶応3年11月15日(龍馬が暗殺された日)
*この夜、才谷梅太郎(坂本龍馬)の宿へ横山勘蔵(中岡慎太郎)が行き(二人で)談話中のところに下婢が「度津川人の手紙が来ました」と言いながら(二人のいる)2階に上がり来たる。
龍馬暗殺場所、近江屋
======
[融通無碍]
◆屏風と掛軸(坂本龍馬記念館HPより)
龍馬と中岡慎太郎が斬殺された部屋には、屏風と掛軸があり、飛び散った血痕がありました。
屏風は、絵や書簡、短冊など19点の貼交屏風で、猫と牡丹の絵には53滴の血痕がついています。左上の富士図は狩野探幽の作。また、右下の手紙は忠臣蔵四十七士の一人、間十次郎のものです。
掛軸は、暗殺当日、板倉槐堂が持ち込んだもので、掛軸の白梅と椿の絵は、槐堂自身が描いたもので、上部の漢文は2人の暗殺後、海援隊の長岡謙吉がこの事件について記したものです。(真物:京都国立博物館所蔵〈国指定重要文化財〉)
~~~~~~~~~~
龍馬暗殺(融通無碍/南史観<私観>)
京都・近江屋跡(NHK動画)
*龍馬と慎太郎が刺客に攻撃され龍馬は即死、中岡慎太郎は3日後死んだ。
真吉はその死に様をだれかから聞いて、こう日記に書き残した。
中岡慎太郎(融通無碍/片岡正法<人物評伝>)
**************
慶応3年の真吉の記録
【日記・倦遣録】<慶応3年2月26日=収筆>
【丁卯上京誌】 <慶応3年4月~12月>
真吉は、容堂の(警護を含む)側近として上洛、混迷する京都に身をおいた。
慶応3年(丁卯上京誌)(融通無碍/南史観<私観>)
+++++++++++++++++++
◆真吉と龍馬の手紙
「真吉の手紙」は、ごく一部しか現存しない。
慶応3年10月14日、大政奉還の直後、京都から土佐の同志に送った手紙。
(土佐山内家宝物資料館蔵)
真吉の手紙(融通無碍/南史観<私観>)
慶応4年4月26日(戊辰戦争の最中)、真吉が土佐藩の親しい上司/尾崎源八に出した手紙。
戦場からの真吉の手紙(融通無碍/南史観<私観>)
一方、龍馬は生涯を通じて、日記はつけていないようだ。
しかし、龍馬は筆まめで、今に残る「龍馬の手紙」は約140通という。
龍馬の手紙(幕末足軽物語/関連話)
ーーーーーーーーーーーーーーーー
◆龍馬の届かなかった手紙
龍馬の届かなかった手紙で、真吉との親密度が明らかになる。
届かなかった手紙(融通無碍/南史観<私観>)
======
[融通無碍]
◆龍馬の手紙
「龍馬の手紙」は樋口家には多数あった。
2013年(平成25年)に逝去された真吉・ひ孫の文太郎氏によれば、生まれ育った実家には多くの龍馬の手紙が残っていたという。それらを見たころ、かれは旧制中学生で、古文書が読めず内容を理解できなかったから記憶には残らなかった。ただ鳥の絵があったことは覚えていると筆者に語った。
絵とは不思議なもので一度見るとその記憶、印象は容易に消えない。
文太郎氏が見た絵は、子共好きで気さくな性格の龍馬ならさしずめ真吉の子供たち宛てに描かれたものかも。もしかしたら甚内の子供宛かも知れぬ。
【龍馬と鳥の絵】
龍馬は鳥の絵を描くのが得意で子供も喜んだらしい。
暗殺される直前に高知に帰ったとき、旧知の友人が訪ねて来た。その友人は孫を連れてきており、その孫が龍馬の行動、印象を後年語っている。いわく
①風呂に入る際龍馬の体についた刀傷を見たこと。
②男は刀を怖がってはいけないと言われたこと。
③早く帰りたくてむずがったら『あとでおんちゃんが面白い鳥の絵を描いちゃるき、堪えて待っちょりや』と言われたこと。
文太郎氏の話と符合する。かれは「鳥絵を描くことが龍馬は得意」とは全く知らなかったから、生家にあったという龍馬書簡の存在は相当に信憑性が高い。
その後、鳥の絵を含む手紙類は高知城の西北部あるいは仁淀川筋に所在が移ったらしい。移動先も具体的に聞いたが、ここでは触れない。
龍馬の手紙(融通無碍/南史観<私観>)
ーーーーーーーーーーーーーー
龍馬を見抜いた男 樋口真吉伝
(平成23年度高知県出版文化賞/2011.3.15発行)
◆龍馬とのつながり
樋口真吉伝 龍馬とのつながり軸に
(高知新聞/2011.4.6)
『樋口真吉伝』は、南寿吉氏が「龍馬とのつながり」を軸として書き下ろしたノンフィクション作品である。
真吉と龍馬の深いつながりは日記(倦遣録)にある。
龍馬が脱藩前に土佐勤王党関連で長州におもむいたとき、真吉が日記(倦遣録)に『坂竜飛騰』と記したこと、
そして、
龍馬が脱藩した直後に大坂で逢い江戸への逃亡資金として『一円を贈った』こと、がよく知られている。
しかし、この他にも
南氏は独自に掘り起こした新史料などをもとに、
①四万十川河川改修工事で、龍馬と出逢ったこと(ほぼ伝説)
②土佐勤王党での武市半平太との確執が、真吉、龍馬ともにあったこと
③伊豆下田で龍馬が脱藩の罪を赦免されたとき、真吉が深く関わっていたこと
④薩土密約・薩土盟約から大政奉還・龍馬暗殺のまでの間、京都藩邸で頻繁に行き来していたこと
⑤龍馬が京で暗殺されたとき、身近にいた当事者であったこと
等々を明らかにして
真吉の生涯は、20歳年下の龍馬を育て見届けるようなものだったとしている。
①龍馬との出逢い(融通無碍/南史観<私観>)
②勤王党への弾圧(融通無碍/南史観<私観>)
③伊豆・下田でのこと(融通無碍/第4話)
④丁卯上京誌(融通無碍/南史観<私観>)
⑤届かなかった手紙(融通無碍/南史観<私観>)
~~~~~~~~~~~
真吉と龍馬(融通無碍/南史観<私観>)
**************
[参考資料]
①竜馬四万十川にゆく(作者不詳)
②藩政時代の河川工事
================
[史料] 坂本龍馬記念館HPより
龍馬の手紙
坂本龍馬肖像(公文菊僊画)
公文菊僊(明治6年~昭和20年)は高知出身。上京して久保田米僊に四条派を学ぶ。龍馬のほか、武市半平太や中岡慎太郎など、維新志士の肖像を多く手がける。龍馬の肖像画は、分かっているだけでも2千部以上が頒布されている。
**************
坂本龍馬記念館広報誌・飛騰ほか(幕末足軽物語/関連話)
第35回龍馬World in 四万十(幕末足軽物語/関連話)
2024.03.31.12.43
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土佐の森・文芸 (溝淵広之丞)
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2023-08-10T01:19:11+09:00
mori100s
幕末足軽物語
土佐の森・文芸
融通無碍(南寿吉著)
[南史観<私観>]
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
海援隊
左から2人目が溝淵広之丞
他に左から長岡謙吉、坂本龍馬、山本洪堂、千屋寅之助、白峰駿馬)
長岡謙吉(融通無碍/南史観<人物評伝>)
坂本龍馬(融通無碍/南史観<人物評伝>)
千屋寅之助(融通無碍/南史観<人物評伝>)
白峰駿馬(融通無碍/南史観<人物評伝>)
山本洪堂
ーーーーーーーーーーーーー
溝淵広之丞
文政11年(1828)土佐国土佐郡江ノ口村(現・高知市)の生まれ。
嘉永6年、坂本龍馬とともに江戸に出て千葉定吉道場で剣術を、佐久間象山塾で砲術を学ぶ。
佐久間象山(融通無碍/南史観<人物評伝>)
佐久間象山の「五月塾」(融通無碍/南史観<私観>)
慶応2年、長崎に赴いて砲術を学ぶ。この長崎遊学は、情勢探索を兼ねていた。長崎にいた坂本龍馬と面会し、脱藩の真意を問うたのに対して龍馬は、
「土佐のことを忘れたことはないが志のために浪人の道を選んだ」と言ったという。
このあと、龍馬は土佐藩のために銃を外国商人から買い入れる交渉に当たり、溝淵に買価を相談している。(溝淵に宛てた龍馬の手紙が残る)
龍馬の手紙<溝渕広之丞 宛て>
さらに、年末には溝淵は龍馬に連れられて長州藩に赴き、木戸孝允を紹介された。長崎に戻った溝淵は木戸との会見を、偶々長崎に出張で来ていた土佐藩参政・後藤象二郎に報告した。
後藤象二郎(融通無碍/南史観<人物評伝>)
~~~~~~~~~~~
「土佐藩からの公式な支援が欲しい龍馬。が、後藤は土佐勤王党を弾圧した張本人、建前上は逢いたくない、逢えない人物」
「龍馬の人脈と組織を土佐藩に取り込みたい象二郎。が、龍馬は脱藩の罪を犯した犯罪人、建前上は逢うことができない人物」
この両者の思惑と感情を、溝淵が調整する役割を果たした。
慶応3年1月、溝淵の仲介で龍馬と後藤の会談が実現した。会談の場所は長崎清風亭。
長崎清風亭会談
この会談の結果、土佐藩は龍馬らの脱藩を赦免し、亀山社中を土佐藩直属の外郭団体的な組織とすることが決まり、4月上旬頃に亀山社中は「海援隊」と改称した。
亀山社中(融通無碍/南史観<私観>)
海援隊(融通無碍/南史観<私観>)
海援隊規約によると、隊の主要目的は土佐藩の援助を受けて土佐藩士や藩の脱藩者、海外事業に志を持つ者を引き受け、運輸、交易、開拓、投機や土佐藩を助けることなどとされ、海軍と会社を兼ねたような組織だった。隊士は土佐藩士(千屋寅之助、沢村惣之丞、高松太郎、安岡金馬、新宮馬之助、長岡謙吉、石田英吉、中島作太郎)および他藩出身者(紀州藩の陸奥陽之助、越後長岡藩の白峰駿馬)など16 - 28人、水夫を加えて約50人からなっていた。
この時に明文化された規則が「海援隊約規(高知県立坂本龍馬記念館蔵)」
5則から成り、隊士の資格は脱藩者と海外への志ある者、隊の課業は航海術や英語を勉強することなど、明確に表している。
その後、溝淵は藩の持筒役となり、藩兵に砲術を指導した。維新後は隠棲し、明治政府には出仕していない。
=================
[史料] HP/日本の歴史ガイドより
◆龍馬の手紙
『江戸へ遊学した時に、君のため、国の為に報いようと決め、海軍を志し、官に願い出て、それ以来粉骨砕身(ふんこつさいしん)努力し、この技術を実践に生かそうとした。
いかんせん一人で、知識も浅くおろそかで、単身孤立し、困窮もしていたのですぐには成功せず、けれども海軍を起こす道を歩んだ。』
龍馬の手紙<溝渕広之丞 宛て>
・・・・・・・・・
龍馬が溝淵広之丞のことを兄・坂本権平に伝えた手紙がある。
『先日江ノ口村の溝渕広之丞に会って、色々とお話しました。』
龍馬の手紙<坂本権平 宛て>
*****************
ブログ
土佐の森・文芸/融通無碍(南寿吉著)
編集・発行
土佐の森グループ/ブログ事務局
**************
元高知県知事橋本大二郎氏
南寿吉先生の遺作(高知新聞/2021.7.2)
融通無碍/総集版
2023.08.01.23.48
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土佐の森・文芸 (長岡謙吉)
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2024-03-12T23:47:00+09:00
2024-03-12T23:47:02+09:00
2023-08-03T06:27:48+09:00
mori100s
幕末足軽物語
土佐の森・文芸
融通無碍(南寿吉著)
[南史観<私観>]
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
長岡謙吉
天保5年、高知城下に生まれる。
河田小龍の下で蘭学に励んだ。
河田小龍(融通無碍/南史観<人物評伝>)
嘉永元年(1848年)に大阪にて儒医に入門、安政6年(1859年)には長崎で二宮敬作に医学を学ぶ。
脱藩して長崎に赴き、坂本龍馬の下で海援隊に参加した。
海援隊(融通無碍/南史観<私観>)
龍馬は長岡の文才を高く評価し、いろは丸事件などの事務処理を長岡に一任していた。
いろは丸事件(融通無碍/南史観<私観>)
慶応3年(1867年)、夕顔丸に坂本龍馬、後藤象二郎らと同船し、大政奉還後の龍馬の構想をまとめた「船中八策」を成文化したとされる。
後藤象二郎(融通無碍/南史観<人物評伝>)
・・・・・・・
慶応3年7月6日
長崎で英艦イカルス号水夫2人が殺害され、その嫌疑が海援隊士に及ぶ(冤罪)という「イカルス号事件」が起こる。
イカルス号事件(融通無碍/南史観<私観>)
龍馬は土佐須崎に赴き、須崎湾に浮かぶ土佐藩船・夕顔丸で英公使・バークスと談判し、海援隊士は関係がないことを認めさせた。
~~~~~~~~~~~~~
[京都国立博物館HPより]
◆龍馬の手紙
慶応3年8月5日 長岡謙吉あて
慶応3年(1867)6月には海援隊によって大政奉還策が土佐藩や薩摩藩に示され、龍馬はそれに向かって活動を行なっていた。
しかし、長崎で英国船イカルス号船員の殺傷事件がおき、海援隊士が犯人として疑われていた。その事件処理が長引き、龍馬は土佐藩と英国側との交渉の席に立ち会うため予定を変更して土佐へ向かわねばならなくなった。
その時に、龍馬が自分の行動予定を長岡謙吉に知らせた短い手紙である。
龍馬の手紙
・・・・・・・・・・
◆海援隊日史
慶応3年(1867)4月から7月頃の海援隊の記録。
その内容の主なものは、海援隊約記の写、いろは丸衝突事故の簡単な記録、新政権構想素案などである。
筆者は海援隊の文官で龍馬の秘書役だった長岡謙吉とみられる。
特に「新政権構想素案」は慶応3年前半段階に海援隊で考えられていた政府構想としてとても重要な内容をもっている。
海援隊日史
*****************
龍馬暗殺の後、長岡謙吉は海援隊の2代目隊長に選ばれた。
龍馬暗殺(融通無碍/南史観<私観>)
海援隊(左から長岡謙吉、溝渕広之丞、坂本龍馬、山本洪堂、千屋寅之助、白峰駿馬)
千屋寅之助(融通無碍/南史観<人物評伝>)
溝渕広之丞(融通無碍/南史観<人物評伝>)
白峰駿馬(融通無碍/南史観<人物評伝>)
戊辰戦争では、海援隊を率いて、瀬戸内海の小豆島や塩飽諸島などを占領した。
明治維新後は三河県知事、大蔵省、工部省などに勤務したが、明治5年死去した。享年39。
=================
[史料] HP/日本の歴史ガイドより
◆龍馬の手紙(長岡謙吉宛て)
万国公法を送って頂きまして、ありがとうございます。
龍馬の手紙(長岡謙吉)
*****************
ブログ
土佐の森・文芸/融通無碍(南寿吉著)
編集・発行
土佐の森グループ/ブログ事務局
**************
元高知県知事橋本大二郎氏
南寿吉先生の遺作(高知新聞/2021.7.2)
融通無碍/総集版
2023.08.01.23.47
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幕末足軽物語/関連話<海援隊>
http://mori100s.exblog.jp/241910845/
2024-03-11T23:46:00+09:00
2024-03-11T23:46:02+09:00
2023-08-25T05:22:11+09:00
mori100s
幕末足軽物語
土佐の森・文芸
幕末足軽物語(南寿吉著)
[関連話]
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
◆亀山社中から海援隊に
慶応3(1867)年4月、龍馬や中岡慎太郎の脱藩罪が許され、亀山社中は海援隊に改編された。
亀山社中(融通無碍/南史観<私観>)
この時に明文化された規則が「海援隊約規」
海援隊約規(高知県立坂本龍馬記念館蔵/弘松家寄託)
5則から成り、隊士の資格は脱藩者と海外への志ある者、隊の課業は航海術や英語を勉強することなど、明確に表している。
海援隊旗(この旗印は「二曳にびき」といい、海援隊の会計を勤めた岩崎弥太郎が基礎を築いた三菱の、船舶部門「日本郵船」の社のマークとして、白地に二本の赤線が使われ、煙突にも描かれた。やはり「二曳」という。)
海援隊(左から長岡謙吉、溝渕広之丞、坂本龍馬、山本洪堂、千屋寅之助、白峰駿馬)
長岡謙吉(融通無碍/南史観<人物評伝>)
長岡謙吉
溝渕広之丞(融通無碍/南史観<人物評伝>)
坂本龍馬(融通無碍/南史観<人物評伝>)
坂本龍馬
千屋寅之助(融通無碍/南史観<人物評伝>)
千屋寅之助(菅野覚兵衛)
白峰駿馬(融通無碍/南史観<人物評伝>)
白峰駿馬
山本洪堂
~~~~~~~~
【その他の隊員】
近藤長次郎(融通無碍/南史観<人物評伝>)
近藤長次郎
高松太郎(融通無碍/南史観<人物評伝>)
高松太郎
池内蔵太(融通無碍/南史観<人物評伝>)
池内蔵太
石田英吉(融通無碍/南史観<人物評伝>)
石田英吉
安岡金馬(融通無碍/南史観<人物評伝>)
安岡金馬
・・・・・・・・・・・
慶応3年1月13日
航海と通商の専門技術があり、薩長とも関係の深い龍馬に注目した土佐藩は、溝淵広之丞を介して龍馬と接触を取り、龍馬と土佐藩大監察/参政・後藤象二郎が会談した。(清風亭会談)
溝淵広之丞(融通無碍/南史観<人物評伝>)
後藤象二郎(融通無碍/南史観<人物評伝>)
長崎清風亭会談
この結果、亀山社中を土佐藩の外郭団体的な組織とすることが決まった。これを機として4月上旬頃に亀山社中は「海援隊」と改称した。
海援隊規約によると、隊の主要目的は土佐藩の援助を受けて土佐藩士や藩の脱藩者、海外事業に志を持つ者を引き受け、運輸、交易、開拓、投機や土佐藩を助けることなどとされ、海軍と会社を兼ねたような組織だった。
隊士は土佐藩士(千屋寅之助、沢村惣之丞、高松太郎、安岡金馬、新宮馬之助、長岡謙吉、溝渕広之丞、石田英吉、中島作太郎)および他藩出身者(紀州藩の陸奥陽之助(=陸奧宗光)、越後長岡藩の白峰駿馬、讃岐国塩飽佐柳島の出身・佐柳高次ら)など16 - 28人、水夫を加えて約50人からなっていた。 同時期、中岡慎太郎は陸援隊を結成している。
沢村惣之丞(融通無碍/南史観<人物評伝>)
安岡金馬(融通無碍/南史観<人物評伝>)
石田英吉(融通無碍/南史観<人物評伝>)
陸奧宗光(融通無碍/南史観<人物評伝>)
・・・・・・・・・・・
慶応3年1月16日
龍馬は、長崎で会談した土佐藩参政・後藤象二郎について、「十分話し合ったが大いに面白い人」と長州藩士・三吉慎蔵に報告している。
後藤 象二郎(融通無碍/南史観<人物評伝>)
三吉慎蔵(融通無碍/南史観<人物評伝>)
龍馬の手紙(三吉慎蔵 宛て)
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慶応3年4月
海援隊と名を改め、坂本龍馬が隊長となり土佐藩公認の外郭機関(海運/有事には海軍として活動)になった。
以後、海援隊が商売することになり、商才に長けた陸奥宗光が主導して行なった。
龍馬が「海援隊が商売する話」を記述した、陸奥宗光宛ての「龍馬の手紙」が残されている。
龍馬の手紙(陸奥宗光宛て 宛て))
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慶応3年11月15日
龍馬が京都の近江屋で陸援隊隊長の中岡慎太郎とともに暗殺される。
中岡慎太郎(融通無碍/片岡正法<人物評伝>)
龍馬暗殺 (融通無碍/南史観<私観>)
坂本龍馬と云う支柱を失った海援隊は大きな転機を迎えた。
坂本龍馬の葬儀を無事終えた海援隊の一同は、幕府の探索の目が厳しい京を出て一旦大坂に集結したが、その中では陸奥陽之助らを中心とした一団が、自分達自らの手で坂本龍馬の復讐を実行するのだと息巻き、血眼になって下手人の捜索に乗り出した。
いろは丸事件に絡んで、紀州藩の三浦休太郎を犯人と決めつけ、「竜馬暗殺復仇隊」を結成して、京の料亭/天満屋で新撰組の面々と酒を飲んでいた三浦を襲撃する。(天満屋事件)
三浦休太郎は手傷を負うが危機一髪で逃れた。
竜馬暗殺復仇隊(融通無碍/南史観<私観>)
旅籠・天満屋/京都油小路
《日記・倦遣録より》
幕末足軽物語 樋口真吉伝完結編
<「幕末足軽物語樋口真吉伝完結編」ではP302>
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慶応3年12月7日
この夜、紀州の大奸・三浦休太郎を討つも死ななかった。
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三浦休太郎は紀州藩士。
この年(慶応3年<1867>4月)龍馬の海援隊船(いろは丸)と紀州船が衝突、いろは丸が沈没した事件が起こる。
いろは丸事件(融通無碍/南史観<私観>)
いろは丸事件(NHK動画)
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慶応4年1月、鳥羽・伏見の戦いが始まる。
龍馬の暗殺で求心力を失い、天満屋事件の後、海援隊は分裂状態になる。
独自の道を模索する長岡謙吉、陸奥陽之助等の一団は京都に留まり、千屋寅之助(=菅野覚兵衛)を中心とする一団は横笛丸で長崎に帰った。中島作太郎は高野山の挙兵に参加する。
長岡謙吉(融通無碍/南史観<人物評伝>)
千屋寅之助(融通無碍/南史観<人物評伝>)
陸奥陽之助、安岡金馬、白峰駿馬、吉井源馬等は新政府に出仕し、その後は明治新政府のそれぞれの場で活躍した。
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慶応4年4月
京に留まった長岡謙吉は、京の情勢、海援隊の状況等を建白書にして度々新政府に提出した。
4月12日、土佐藩大監察・小南五郎右衛門より海援隊長に任命された。
小南五郎右衛門
戊辰戦争が始まると、長岡謙吉らの一派は天領である讃岐国の小豆島などを占領・統治した。
一方、長崎の千屋寅之助(菅野覚兵衛)らの一派は土佐藩大目付(大監察)・佐々木高行とともに長崎奉行所を占領した。
長崎奉行所(幕末足軽物語/関連話)
長崎奉行所を占領(長崎龍馬便り)
佐々木高行は長崎奉行所を接収後、長崎に赴任して来た長崎裁判所総督澤宣嘉と参謀井上馨の推薦で参謀助役に任命され、空白地帯の長崎取り締まりを任された。
佐々木高行(融通無碍/南史観<人物評伝>)
長崎裁判所は「振遠隊」を結成して長崎市街・長崎港の警備・治安維持にあたった。隊長は石田英吉。
振遠隊(融通無碍/南史観<私観>)
石田英吉(融通無碍/南史観<人物評伝>)
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慶応4年閏4月27日
海援隊は土佐藩命により解散される。
龍馬暗殺後の海援隊は大きく二つのグループに分裂していた。本部のある長崎で長崎奉行所を占拠したグループ、もうひとつは長岡謙吉ら京都や大坂に残留したグループ。長崎に残った多くの隊員は振遠隊(総勢359人)に参加している。
また、土佐藩(後藤象二郎)は海援隊を土佐商会に吸収合併、岩崎弥太郎が九十九商会・三菱商会・郵便汽船三菱会社(後の日本郵船株式会社)・三菱商事などに発展させている。
後藤象二郎(融通無碍/南史観<人物評伝>)
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◆土佐商会(「土佐商会跡・板碑より)
土佐藩の貿易関係の役所で、開成館貨殖局と呼ばれた。
長崎出張所は、慶応3年2月頃、長崎市西浜町(現在の浜町)に開設された。
最初は、後藤象二郎が、後には岩崎彌太郎が主任となり、辣腕を振るった。
同出張所の目的は、大砲や弾薬、さらには艦船等を調達することであったが、そのための資金は、土佐の樟脳や鰹節などを売却、捻出した。
また、坂本龍馬率いる海援隊には、隊員それぞれに月々金5両を支給するなど、その運用資金なども調達した。
このように、海援隊は土佐藩の保護のもとにあったので、海援隊旗は土佐藩旗と同様に、「赤白赤」の二曳(にびき)と呼ばれるものであった。
土佐商会跡/長崎市浜町
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◆海援隊日史
慶応3年(1867)4月から7月頃の海援隊の記録。
その内容の主なものは、海援隊約記の写、いろは丸衝突事故の簡単な記録、新政権構想素案などである。
筆者は海援隊の文官で龍馬の秘書役だった長岡謙吉とみられる。
特に「新政権構想素案」は慶応3年前半段階に海援隊で考えられていた政府構想としてとても重要な内容をもっている。
海援隊日史
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それからの海援隊(長崎龍馬便り)
戊辰戦争(秋田戦争)に出征する振遠隊
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ブログ
土佐の森・文芸/幕末足軽物語(南寿吉著)
編集・発行
土佐の森グループ/ブログ事務局
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南寿吉先生の遺作(高知新聞/2021.7.2)
2023.12.01。23.46
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]]>
幕末足軽物語/関連話<亀山社中>
http://mori100s.exblog.jp/241827648/
2024-03-10T23:46:00+09:00
2024-03-10T23:46:02+09:00
2023-06-12T16:28:21+09:00
mori100s
幕末足軽物語
土佐の森・文芸
幕末足軽物語(南寿吉著)
[関連話]
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亀山社中
幕末足軽物語 樋口真吉伝完結編
<「幕末足軽物語樋口真吉伝完結編」ではP274>
慶応元年閏5月~翌2年8月まで真吉日記は記録されていない。
この空白の1年数ヶ月の間には、幕末のキーポイントとなる様々な事件などが起こっている。
慶応元年9月16日 英・米・仏・蘭の四カ国公使らが兵庫の開港を求め、兵庫沖に軍艦を集結させて圧力をかけた。
慶応2年1月21日 薩長同盟が成立
薩長同盟(融通無碍/第38話)
慶応2年6月3日 長州を攻撃するため幕府軍が出発する。第二次長州征伐だ。
第二次長州征伐(融通無碍/南史観<私観>)
慶応2年8月21日 朝廷は将軍・徳川家茂が死んだため征長の兵を停止させる。
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[融通無碍]
何故、真吉の日記がこの期間に欠落するのか考えても無意味だろう。
ないものはないのだから。特に個人的な事情もないだろう。
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元治元年(=慶応元年<1865>)
勝海舟の神戸の海軍塾が閉鎖された。
勝海舟の要請で薩摩藩は、航海術の専門知識を有する龍馬ら塾生の庇護を引き受けた。
神戸海軍操練所跡
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塾頭の坂本龍馬、塾生の近藤長次郎、池内蔵太、千屋寅之助、高松太郎らは勝海舟の口利きで薩摩へ。
近藤長次郎(融通無碍/南史観<人物評伝>)
池内蔵太(融通無碍/南史観<人物評伝>)
千屋寅之助(融通無碍/南史観<人物評伝>)
高松太郎(融通無碍/南史観<人物評伝>)
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◆亀山社中
慶応元年5月
坂本龍馬ら薩摩藩に引き取られた神戸海軍操練所の塾生によって亀山社中が結成された。
武器や艦船などをグラバー商会と取引し、藩に販売するという海運業も含めた総合貿易商社だ。
亀山社中(NHK動画)
勝海舟の要請で龍馬ら塾生の庇護を引き受けた薩摩藩は彼らの航海術の専門知識・実践力を重視/高評価しており、龍馬らが設立を目論む「亀山社中」に出資・支援することになった。
長崎での亀山社中の結成に際しては薩摩藩の小松帯刀が長崎入りし、「亀山社中」のメンバーには薩摩藩から一人3両2分の支度金が支給されたという。(薩摩藩が亀山社中のオーナー的立ち位置になった。)
亀山社中は商業活動に従事する近代的な株式会社に類似した性格を持つ組織として設立され、当時商人が参集していた長崎の豪商・小曽根英四郎邸を根拠地として、下関の豪商・伊藤助太夫邸、そして京都の酢屋に事務所を設置した。
龍馬が亀山社中の近況を知らせた三吉慎蔵宛ての「龍馬の手紙」が残されている。
三吉慎蔵宛て
小曽根英四郎(幕末足軽物語/関連話<人物評伝>)
伊藤助太夫(融幕末足軽物語/関連話<人物評伝>)
亀山社中の成立は商業活動の儲けによって利潤を上げることのほかに、当時、水火のごとき関係にあった薩長両藩和解の目的も含まれており、のちの薩長同盟成立に貢献することになる。
「薩長同盟」までのこと(融幕末足軽物語/関連話)
「英語入門書」を出版(長崎龍馬便り)
その他、「万国公法」の出版も企画されていた。万国公法:国立公文書館
亀山社中の事務処理を一手に引き受けていた長岡謙吉に宛てた「龍馬の手紙<万国公法の出版話>」がある。
龍馬の手紙(長岡謙吉宛て<幕末足軽物語/関連話>
長岡謙吉(融通無碍/南史観<人物評伝>)
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幕府勢力から一連の打撃を受けて、長州藩には彼らを京都政治から駆逐した中心勢力である薩摩・会津両藩に対する根強い反感が生じており、一部の藩士はともには天を戴かずと心中に誓い、たとえば「薩奸會賊(「さっかんかいぞく」薩摩の薩と會津<会津の旧漢字の會>)」の四文字を下駄底に書き踏みつけて鬱憤を晴らす者がいたほどだった。
このような雰囲気の中でも、中岡慎太郎と土方久元は、薩摩、長州の如き雄藩の結盟をもって武力討幕を成し遂げることをを目論んでいた。
中岡慎太郎(融通無碍/片岡正法<人物評伝>)
土方久元(融通無碍/南史観<人物評伝>)
龍馬は慎太郎の武力による倒幕には少し距離を置いていたが、薩摩と長州が同盟することには異論がなく、亀山社中の仕事として協力することに。
龍馬は大村藩志士の渡辺昇と会談し、薩長同盟の必要性を力説する。
渡辺は元練兵館塾頭で桂小五郎らと昵懇であったため、長州藩と坂本龍馬を周旋。長崎で龍馬と桂を引き合わせた。
土方と龍馬が協同して桂を説諭し、下関で薩摩の西郷隆盛と会談することを承服させる。
同時に中岡は薩摩に赴き、西郷に会談を応じるよう説いた。
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慶応元年5月21日
龍馬と桂は下関で西郷の到来を待ったが、「茫然と」した中岡慎太郎が漁船に乗って現れただけであった。
中岡の説得に応じ西郷は下関へ向かっていたが、途中で朝議が幕府の主張する長州再征(第二次長州征伐)に傾くことを阻止するために急ぎ京都へ向かってしまったのだ。
桂は激怒して、和談の進展は不可能になったかに見えたが、龍馬と中岡は薩長和解(=薩長同盟)を諦めなかった。
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討幕急先鋒の立場にある長州藩に対して、幕府は国外勢力に対して長州との武器弾薬類の取り引きを全面的に禁止しており、長州藩は近代的兵器の導入が難しくなっていた。
一方、薩摩藩は兵糧米の調達に苦慮していた。
ここで龍馬は薩摩藩名義で武器を調達して密かに長州に転売し、その代わりに長州から薩摩へ不足していた米を回送する策を提案した。取り引きの実行と貨物の搬送は亀山社中が担当する。
この策略によって両藩の焦眉の急が解決することになるため、両藩とも自然に首肯した。亀山社中の初仕事であった。
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慶応元年7月
近藤長次郎が薩摩藩に赴く。大久保利通(当時は大久保一蔵)ら薩摩藩の要人と話し合った。
このとき近藤長次郎は、
「薩長が手を結んで幕府を倒し朝廷に政権を戻して国家統一と開国をなすべき」と説いたという。
近藤長次郎(融通無碍/南史観<人物評伝>)
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慶応元年8月
亀山社中は長崎のグラバー商会からミニエー銃4,300挺、ゲベール銃3,000挺の薩摩藩名義での長州藩への買いつけ斡旋に成功した。これは同時に薩長和解の最初の契機となった。
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慶応元年10月
また、近藤長次郎(この当時は上杉宗次郎と改名)の働きにより、薩摩藩名義でイギリス製蒸気軍艦ユニオン号(薩摩名「桜島丸」、長州名「乙丑丸」)の購入にも成功し、所有権を巡って紆余曲折はあったが10月と12月に長州藩と桜島丸条約を結び、同船の運航は亀山社中に委ねられることになった。
ユニオン号のこと(融通無碍/第33話)
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慶応2年1月14日
龍馬不在の長崎の亀山社中では、ユニオン号購入で活躍した近藤長次郎(=上杉宗次郎)が独断で英国留学を企てて露見、亀山社中の規約に違反したとして、自刃させられる事件が起きていた。
事件を知らされた龍馬は『手帳摘要』に
「術数はあるが誠が足らず。上杉氏(近藤)の身を亡ぼすところなり」 と書き残している。
後年のお龍の回顧では
「自分がいたら殺しはしなかった」と嘆いたという。
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慶応2年1月21日
坂本龍馬や中岡慎太郎の仲介もあって薩長同盟が成立し、長州側から出された「両藩の合意事項の覚え書」に龍馬が朱筆をもって裏書きする。
坂本龍馬自筆「薩長同盟裏書」/宮内庁書陵部図書課図書寮文庫蔵。
龍馬の手紙<木戸孝允宛て①>(幕末足軽物語/関連話)
この直後、龍馬は伏見・寺田屋で幕吏に襲われ(=寺田屋遭難)重傷を負うが薩摩藩邸に逃れる。
寺田屋遭難(融通無碍/南史観<私観>)
寺田屋遭難(YouTube)
その後鹿児島に渡る。勝海舟の神戸の海軍塾が閉鎖された際にも塾生らの身柄は薩摩に引き取られたこともある。
この事件と、その後の経過が真吉にどう映ったか。
薩長の仲介は良いとしても、その後薩摩の保護下に入りさらに薩摩入りしたという事は
「龍馬は何を考えているのか。まるで薩摩の手下じゃないか」と思ったとしても無理ないかも知れぬ。
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慶応2年4月
薩摩から長州への武器供与の見返りとして兵糧500俵を積んだ蒸気船・ユニオン号が薩摩に向けて馬関を出発、長崎に寄港すると、薩摩藩から亀山社中に供与された小型帆船・ワイルウェフ号が鹿児島に向かう出港準備の真っ最中であった。
ワイル・ウェフ号は、荒鉄や銅地金、大砲、小銃等を薩摩に運ぶ任務で池内蔵太らが操船していた。
池内蔵太(融通無碍/南史観<人物評伝>)
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慶応2年4月28日
小型帆船・ワイルウェフ号が大型蒸気船のユニオン号に曳航されて長崎を出港した。
順調な航海をして一路南下、4月30日に薩摩領の甑島に辿り着いた。
しかし天候が急変、暴風雨となり曳航していたユニオン号は危険を感じ、やむなく引き綱を解いた。
単独行動となったワイル・ウェフ号は、当初は天草に避難しようとしたが果たせず漂流を続け、上五島の潮合崎近くまで押し流された。
5月2日未明、激しい東風に煽られて、浅瀬に乗り上げ転覆、船体は一瞬のうちに破壊してしまった。
池内蔵太ら12名が犠牲になった。池内蔵太は溺死、享年26。
ワイル・ウェフ号遭難位置図
ユニオン号は無事、鹿児島に入港した。
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慶応2年6月14日
龍馬は同志の死を悼み、ユニオン号で鹿児島より馬関に帰る途中、五島に立ち寄り、自らが碑文を書き、土地の庄屋に金を渡して碑を建てさせ、業半ばにして散っていった同志の霊を慰めている。
長崎/上五島・江ノ浜郷にある墓と墓碑銘
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ワイル・ウェフ号の悲劇(長崎龍馬便り)
五島祈りの龍馬像
龍馬が弟のように可愛がっていた池内蔵太をはじめ、12名の亀山社中の同志が若くして五島の海へ散った。
この地に建つ龍馬は仲間への鎮魂の想いを込めて、遭難した場所を見つめながら合掌している。
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慶応2年6月16日
龍馬がユニオン号で下関に帰港した。
長州藩の求めにより第二次長州征伐の戦いに参戦することになった。龍馬にとって初めての、そして最後の戦争体験だ。
第二次長州征伐(融通無碍/南史観<私観>)
高杉晋作が指揮する6月17日の小倉藩への渡海作戦で龍馬はユニオン号(艦長は千屋寅之助、砲手長は石田英吉)を指揮して最初で最後の海戦を経験した。
千屋寅之助(融通無碍/南史観<人物評伝>)
石田英吉(融通無碍/南史観<人物評伝>)
高杉晋作/戦場で三味線
下関海戦図(手前の山は下関市の火の山で現在展望台があり、そこへ登るとこの通りに見える。龍馬は最初門司の半島右側からの攻撃に参加したが、のち下船して火の山に登り、大砲を使って援護射撃をした。「戦のはなしはやった者でなければ分からない」「鉄砲の音がゴマを煎るように聞こえる」など、絵の海部分いっぱいに感想を書いている。/高知県立坂本龍馬記念館より)
長州藩は西洋の新式兵器を装備していたのに対して幕府軍は総じて旧式であり、指揮統制も拙劣だった。
幕府軍は圧倒的な兵力を投入しても長州軍には敵わず、長州軍は連戦連勝した。
思わしくない戦況に幕府軍総司令官の将軍・徳川家茂は心労が重なり7月10日に大坂城で病に倒れ、7月20日に21歳の短い人生を終えた。
家茂の死後、将軍後見職・一橋慶喜の第15代将軍就任が衆望されたが、慶喜は将軍職に就くことを望まず、まずは徳川宗家の家督のみを継承していた。
慶喜は、徳川家茂の代行として出陣を決意するが、九州の小倉城が陥落したことで、戦況不利を悟って休戦を主張、孝明天皇は長州征討を休戦するよう勅命を出す。
このため、第二次長州征伐は立ち消えとなり、勝海舟が長州藩と談判を行い9月19日に幕府軍は撤兵。(小倉口では交戦が続き和議が成立したのは翌慶応3年1月23日)
幕府の求心力も堕ち、長州・薩摩・土佐らの倒幕の気運が高まることに。
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◆龍馬の手紙
(慶応2年8月16日)
さて、さる8月1日、小倉城がついに落城しました。
はたして、幕府の海軍が関門海峡を封鎖することはないとは思いますが、用心に越したことはありません。
龍馬の手紙(三吉慎蔵宛て②<幕末足軽物語/関連話>
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龍馬は薩摩藩から供与された帆船帆船ワイルウェフ号を遭難・沈没させ、ユニオン号も戦時の長州藩へ引き渡すことになり、亀山社中には船がなくなってしまった。
・・・・・・・・・・
慶応2年7月28日
長州藩士・三吉慎蔵宛の手紙で龍馬は
「船がなくなったので、水夫たちに暇を出したが、大方は離れようとしない」と窮状を伝えている。
このため、薩摩藩は10月にワイルウェフ号の代船として帆船「大極丸」を亀山社中に供与した。
龍馬の手紙(三吉慎蔵宛て①<幕末足軽物語/関連話>
三吉慎蔵(融通無碍/南史観<人物評伝>)
大極丸は、ユニオン号の艦長・千屋寅之助の相方・白峰駿馬が船将として運航された。
白峰駿馬(融通無碍/南史観<人物評伝>)
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[長崎市亀山社中記念館HPより]
◆亀山社中とは?
坂本龍馬(1835~1867)は、土佐国高知城下(現在の高知県高知市)に生まれ、江戸で剣術や砲術の修業の後、帰国して土佐勤王党に加盟しました。
その後土佐を脱藩して幕臣・勝海舟の門人となり、勝塾や神戸海軍操練所に学びました。
元治元年(1864)以降操練所が閉鎖されたため、脱藩者の龍馬と同志たちは薩摩藩に保護され、鹿児島を経由して長崎にやってきます。
そして、慶応元年(1865)夏頃、薩摩藩や長崎商人・小曽根(こぞね)家の援助を受け、日本最初の商社といわれる「亀山社中」を結成しました。
この団体は、龍馬らが最初に拠点を構えた地「亀山」と、仲間・結社を意味する「社中」をあわせてそう呼ばれました。
亀山社中の最大の業績は、慶応2年(1866)に、長州藩のために薩摩藩名義で大量の小銃や蒸気船ユニオン号(桜島丸・乙丑丸)の購入・運搬に成功したことです。
そのことが、慶応2年(1866)1月の薩長盟約締結へとつながり、新しい時代をひらくための足がかりとなったのです。
ーーーーーーーーーーーーー
◆亀山社中から海援隊に
慶応3(1867)年4月、龍馬や中岡慎太郎の脱藩罪が許され、亀山社中は土佐藩直属の海援隊に改編された。
この時に明文化された規則が「海援隊約規(高知県立坂本龍馬記念館蔵)」
5則から成り、隊士の資格は脱藩者と海外への志ある者、隊の課業は航海術や英語を勉強することなど、明確に表している。
海援隊(左から長岡謙吉、溝渕広之丞、坂本龍馬、山本洪堂、千屋寅之助、白峰駿馬)
長岡謙吉(融通無碍/南史観<人物評伝>)
溝渕広之丞(融通無碍/南史観<人物評伝>)
坂本龍馬(融通無碍/南史観<人物評伝>)
千屋寅之助(融通無碍/南史観<人物評伝>)
白峰駿馬(融通無碍/南史観<人物評伝>)
山本洪堂
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慶応2年、
土佐藩士・溝渕広之丞が砲術を学ぶために長崎に遊学した。
溝渕広之丞(融通無碍/南史観<人物評伝>)
この溝淵の長崎遊学は、砲術を学ぶのは建前で本来の目的は長崎の情勢探索であった。
長崎にいた亀山社中の坂本龍馬と面会した時、龍馬脱藩の真意を問うたのに対して龍馬は、
「土佐のことを忘れたことはないが志のために浪人の道を選んだ」と言ったという。(龍馬の思いを述べた溝淵宛の龍馬の手紙が残る)
龍馬の手紙(溝渕広之丞 宛て①<幕末足軽物語/関連話>)
このあと、龍馬は土佐藩のために銃を外国商人から買い入れる交渉に当たり、溝淵に買価を相談している。(具体的な金額を明記した溝淵宛の龍馬の手紙か残る)
龍馬の手紙(溝渕広之丞 宛て②<幕末足軽物語/関連話>
さらに、年末には溝淵は龍馬に連れられて長州藩に赴き、木戸孝允を紹介された。長崎に戻った溝淵は木戸との会見を、偶々長崎に出張で来ていた土佐藩参政・後藤象二郎に報告した。後藤は長崎の後、上海まで出張している。
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この時の、龍馬と後藤との関係は
「土佐藩からの公式な支援が欲しい龍馬。が、後藤は土佐勤王党を弾圧した張本人、建前上は逢いたくない、逢えない人物」
「龍馬の人脈と組織を土佐藩に取り込みたい象二郎。が、龍馬は脱藩の罪を犯した犯罪人、建前上は逢うことができない人物、逢えない人物」
この両者の思惑と感情を、溝淵が調整する役割を果たした。
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慶応3年1月、
溝淵の仲介で龍馬と後藤の会談が実現した。会談の場所は長崎清風亭。
長崎清風亭会談
この会談の結果、土佐藩は龍馬らの脱藩を赦免し、亀山社中を土佐藩直属の外郭団体的な組織とすることが決まり、4月上旬頃に亀山社中は「海援隊」と改称した。
海援隊(融通無碍/南史観<私観>)
海援隊規約によると、隊の主要目的は土佐藩の援助を受けて土佐藩士や藩の脱藩者、海外事業に志を持つ者を引き受け、運輸、交易、開拓、投機や土佐藩を助けることなどとされ、海軍と会社を兼ねたような組織だった。
隊長は坂本龍馬、隊士は土佐藩士(千屋寅之助、沢村惣之丞、高松太郎、安岡金馬、新宮馬之助、長岡謙吉、溝渕広之丞、石田英吉、中島作太郎)および他藩出身者(紀州藩の陸奥宗光、越後長岡藩の白峰駿馬)など16 - 28人、水夫を加えて約50人からなっていた。 同時期、中岡慎太郎は陸援隊を結成している。
高松太郎(融通無碍/南史観<人物評伝>)
安岡金馬(融通無碍/南史観<人物評伝>)
石田英吉(融通無碍/南史観<人物評伝>)
陸奧宗光(融通無碍/南史観<人物評伝>)
この時に明文化された規則が「海援隊約規(高知県立坂本龍馬記念館蔵)」
5則から成り、隊士の資格は脱藩者と海外への志ある者、隊の課業は航海術や英語を勉強することなど、明確に表している。
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慶応3年1月13日
航海と通商の専門技術があり、薩長とも関係の深い龍馬に注目した土佐藩は溝淵広之丞を介して龍馬と接触を取り、龍馬と土佐藩大監察・参政の後藤象二郎が会談した。(清風亭会談)
後藤象二郎(融通無碍/南史観<人物評伝>)
龍馬が後藤象二郎の印象を記述した、三吉慎蔵宛ての「龍馬の手紙」が残されている。
三吉慎蔵宛て(後藤象二郎は面白い人)
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慶応3年4月
亀山社中は坂本龍馬が隊長となり海援隊と名を改め、正式に土佐藩公認の外郭機関(商業・海運/有事には海軍として活動)になった。
以後、海援隊が商売することになり、商才に長けた陸奥宗光が主導して行なった。
龍馬が「海援隊が商売する話」を記述した、陸奥宗光宛ての「龍馬の手紙」が残されている。
龍馬の手紙(陸奥宗光宛て)
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慶応3年11月15日
龍馬が京都の近江屋で陸援隊隊長の中岡慎太郎とともに暗殺される。
龍馬暗殺 (融通無碍/南史観<私観>)
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慶応4年4月
龍馬暗殺後、長岡兼吉が土佐藩より海援隊長に任命されたが、龍馬の暗殺で求心力を失い分裂(京都と長崎)。
長岡謙吉(融通無碍/南史観<人物評伝>)
戊辰戦争が始まると、長岡謙吉らの一派<京都に在>は天領である讃岐国の小豆島などを占領・統治した。
一方、千屋寅之助(菅野覚兵衛)らの一派<長崎に在>は土佐藩大目付(大監察)・佐々木高行とともに長崎奉行所を占領した。
長崎奉行所(幕末足軽物語/関連話)
九州鎮撫総督澤宣嘉が下向し、長崎奉行所は長崎裁判所となった。
佐々木高行は長崎奉行所を接収後、長崎に赴任して来た長崎裁判所総督澤宣嘉と参謀井上馨の推薦で参謀助役に任命され、空白地帯の長崎取り締まりを任された。
振遠隊(総員300人以上の隊員はイギリス式の教練を受け西洋式の軍隊組織であった)を組織して任に当たった。
佐々木高行(融通無碍/南史観<人物評伝>)
長崎振遠隊(幕末足軽物語/関連話)
長崎振遠隊は戊辰戦争(秋田戦争)に従軍した。
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[融通無碍]
◆秋田戦争
戊辰戦争時、奥羽越列藩同盟を離脱して新政府軍に参加した久保田藩(秋田藩)が官軍と共に、庄内藩・盛岡藩を中心とする列藩同盟軍を相手に繰り広げた一連の戦い。秋田庄内戊辰戦争ともいう。
秋田での戊辰戦争
秋田の戊辰戦争
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慶応4年閏4月27日
海援隊は藩命により解散される。
後藤象二郎は海援隊を土佐商会に吸収合併、岩崎弥太郎が九十九商会・三菱商会・郵便汽船三菱会社(後の日本郵船株式会社)・三菱商事などに発展させる。
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◆土佐商会(「土佐商会跡・板碑より)
土佐藩の貿易関係の役所で、開成館貨殖局と呼ばれた。
長崎出張所は、慶応3年2月頃、長崎市西浜町(現在の浜町)に開設された。
最初は、後藤象二郎が、後には岩崎彌太郎が主任となり、辣腕を振るった。
同出張所の目的は、大砲や弾薬、さらには艦船等を調達することであったが、そのための資金は、土佐の樟脳や鰹節などを売却、捻出した。
また、坂本龍馬率いる海援隊には、隊員それぞれに月々金5両を支給するなど、その運用資金なども調達した。
このように、海援隊は土佐藩の保護のもとにあったので、海援隊旗は土佐藩旗と同様に、「赤白赤」の二曳(にびき)と呼ばれるものであった。
土佐商会跡/長崎市浜町
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◆海援隊日史
慶応3年(1867)4月から7月頃の海援隊の記録。
その内容の主なものは、海援隊約記の写、いろは丸衝突事故の簡単な記録、新政権構想素案などである。
筆者は海援隊の文官で龍馬の秘書役だった長岡謙吉とみられる。
特に「新政権構想素案」は慶応3年前半段階に海援隊で考えられていた政府構想としてとても重要な内容をもっている。
海援隊日史
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ブログ
土佐の森・文芸/融通無碍(南寿吉著)
編集・発行
土佐の森グループ/ブログ事務局
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元高知県知事橋本大二郎氏
南寿吉先生の遺作(高知新聞/2021.7.2)
融通無碍/総集版
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土佐の森・文芸 (融通無碍<39>慶応3年の大芝居)
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2024-03-05T12:00:00+09:00
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mori100s
幕末足軽物語
土佐の森・文芸
融通無碍(南寿吉著)
[関連話]
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<令和6年3月5日発信>
【第39話】
幕末足軽物語/樋口真吉伝(南寿吉著)から読み解く・・・
龍馬と小五郎の「慶応3年の大芝居」
[プロローグ]
龍馬伝(NHK)
小五郎の手紙<龍馬宛て>(融通無碍/第35話)
龍馬の手紙<小五郎宛て>(幕末足軽物語/関連話)
桂小五郎(NHK)
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一筆書かせて頂きます。
先日の書面にあった(四侯会議後の薩摩、長州、土佐による)大芝居の件はかねて知っていたことだけど、実におもしろい。それがわかった時、いよいよ奮発しました。
その後長崎でも上国(京都)のことを色々と心にかけていました。
多少はご存知かと思いますが、私は銃を一千挺買い求めて、芸州藩の蒸気船を借入て土佐まで送る予定です。
今日はその途中で下関まで着きましたが、運よく伊藤兄(=伊藤俊輔<伊藤博文>:長州藩士)が京都から戻ってきていました。そして薩摩・土佐のことなどを話し、また、大久保(=大久保利通:薩摩藩士)が使者として来た事などを話しました。
急ぎ本国(土佐)を救おうかと思っているので、ここに(下関)留まっている暇はなく、残念ながら出航することになりました。
これから土佐へ向かい乾退助(=板垣退助:土佐藩士)に会い、それから京都へ向かい、後藤象二郎は国(土佐)へ返すか、または、長崎へ向かわせることになります。
《大政奉還が受け容れられなかった場合は後藤を国へ返し、(倒幕派の)板垣を出すと暗示している。》
大政奉還~竜馬暗殺まで(融通無碍/南史観<私観>)
先生の方には、検討した時勢その他の認めもの(船中八策)が出来上がったのでお渡しします。
さらに、最近の京都の議論は先生に直々に伺えば私の考えと同じかとは思いますが、なんとも筆を持つ気にはなれませんでした。
かれこれの理由から心中をお察し下さい。
なお、後日の時にまた。
(慶応3年)9月20日 龍馬
木圭先生(桂小五郎)
坂本龍馬
板垣退助(融通無碍/南史観<人物評伝>)
後藤象二郎(融通無碍/南史観<人物評伝>)
大政奉還について後藤象二郎に宛てた「龍馬の手紙」がある。
龍馬の手紙(後藤象二郎 宛て)
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慶応3年(1867)
《亀山社中が海援隊に/1月、四侯会議/5月、薩土密約/5月、薩土盟約/6月、中岡慎太郎が陸援隊結成/7月、大政奉還/10月、龍馬&慎太郎暗殺/11月、えじゃないか起こる/11月、江戸薩摩藩邸焼討事件/12月》
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1月
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1月13日
航海と通商の専門技術があり、薩長とも関係の深い亀山社中の坂本龍馬に注目した土佐藩は、長崎で溝淵広之丞を介して龍馬と接触を取り、龍馬と土佐藩大監察/参政・後藤象二郎の会談が実現した。(長崎清風亭会談)
後藤象二郎
長崎清風亭会談
清風亭の対決(NHK/龍馬伝)
この結果、亀山社中を土佐藩直属の外郭団体的な組織にすることが決まり、これを機として4月上旬に亀山社中は「海援隊」と改称した。
亀山社中(幕末足軽物語/関連話)
海援隊(幕末足軽物語/関連話)
海援隊(左から長岡謙吉、溝渕広之丞、坂本龍馬、山本洪堂、千屋寅之助、白峰駿馬)
長岡謙吉(融通無碍/南史観<人物評伝>)
長岡謙吉
溝淵広之丞(融通無碍/南史観<人物評伝>)
溝渕広之丞
坂本龍馬(融通無碍/南史観<人物評伝>)
坂本龍馬
山本洪堂
千屋寅之助(融通無碍/南史観<人物評伝>)
千屋寅之助(菅野覚兵衛)
白峰駿馬(融通無碍/南史観<人物評伝>)
白峰駿馬
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海援隊規約によると、隊の主要目的は土佐藩の援助を受けて土佐藩士や藩の脱藩者、海外事業に志を持つ者を引き受け、運輸、交易、開拓、投機や土佐藩を助けることなどとされ、海軍と会社を兼ねたような組織だった。
隊長は坂本龍馬、隊士は土佐藩士(千屋寅之助、沢村惣之丞、高松太郎、安岡金馬、新宮馬之助、長岡謙吉、溝渕広之丞、石田英吉、中島作太郎ら)および他藩出身者(紀州藩の陸奥陽之助、越後長岡藩の白峰駿馬、越前福井藩士の山本洪堂、讃岐国塩飽佐柳島の出身・佐柳高次ら)など16 - 28人、水夫を加えて約50人からなっていた。
沢村惣之丞(融通無碍/南史観<人物評伝>)
高松太郎(融通無碍/南史観<人物評伝>)
安岡金馬(融通無碍/南史観<人物評伝>)
石田英吉(融通無碍/南史観<人物評伝>)
陸奧宗光(融通無碍/南史観<人物評伝>)
同時期、中岡慎太郎は京都で陸援隊を結成している。
中岡慎太郎(幕末足軽物語/関連話<人物評伝/片岡正法>)
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慶応3年1月16日
龍馬は、長崎で会談した土佐藩参政・後藤象二郎について、「十分話し合ったが大いに面白い人物だ」と長州藩士・三吉慎蔵に報告している。
三吉慎蔵(融通無碍/南史観<人物評伝>)
龍馬の手紙(三吉慎蔵 宛て)
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2月
幕末足軽物語 樋口真吉伝完結編
樋口真吉
<「幕末足軽物語樋口真吉伝完結編」ではP277>
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2月15日
西郷吉之助が蒸気船に乗って高知に来た。
龍馬は、西郷が高知にやってきて、山内容堂と会見した情報をつかんでおり、そのことを長州藩士・三吉慎蔵に伝えた「龍馬の手紙」がある。
龍馬の手紙(三吉慎蔵宛て)
龍馬の手紙(融通無碍/第45話)
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◆薩摩の西郷が高知へ
薩摩の実力者・西郷が海路高知に入る。
隠居・山内容堂に時局打開のための四侯会議への参加を懸命に口説く。
愛用の玻璃酒杯を片手にあぐらをかく鯨海酔侯山内容堂公/高知市鏡川畔山内神社
山内容堂(融通無碍/南史観<人物評伝>)
四侯会議(融通無碍/南史観<私観>)
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[融通無碍]
西郷隆盛の要請に応じ、四侯会議への参加を決心した容堂は
「よし、ワシは今回は東山の土になる積もりで行く」と上洛の決意を披瀝した。(容堂決心の固さは分かるが、その後の行動が伴ったか・・・・。)
西郷の訪問は土佐藩では大事件で、藩は豪商・川崎(=田村屋)の邸宅をその宿舎に当てもてなした。(泊まったときに西郷が使った下駄が今も残っている。)
薩摩の西郷が高知へ (融通無碍/南史観<私観>)
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[融通無碍]
◆四侯会議とは?
薩摩藩の主導のもとに成立した四侯会議は、京都において設置された諸侯による会議。有力な四侯による合議体制で、15代将軍・徳川慶喜や摂政・二条斉敬に対する諮詢機関として設置された。朝廷や幕府の正式な機関ではなかったが、それに準ずるものとして扱われた。
慶応3年5月初旬から中旬にわたり8回にわたって京都で開催された。
薩摩藩国父・島津久光、越前・松平春嶽、土佐・山内容堂、宇和島・伊達宗城が、直面する二つの政治課題「長州処分(赦免)」と「兵庫開港」について話し合い、将軍徳川慶喜との交渉に臨んだ。
5月14日の初会合では、慶喜の提案により諸侯との記念写真を撮影しただけで散会となり、四侯側が慶喜から上手くあしらわれた恰好となった。
徳川慶喜たっての要請で四侯は二条城で記念写真に応じた。写真が趣味の慶喜が自ら撮ったという。
四侯会議の際に徳川慶喜が撮影したとされる写真。(右上から時計回りに)島津久光、山内容堂、伊達宗城、松平春嶽(福井市立郷土歴史博物館所蔵)
四侯会議(かごしま明治維新特集/南日本新聞)
島津久光(融通無碍/南史観<人物評伝>)
伊達宗城(融通無碍/南史観<人物評伝>)
松平春嶽(融通無碍/南史観<人物評伝>)
薩摩藩はこの四侯会議を機に政治の主導権を幕府から雄藩連合側へ奪取し、朝廷を中心とした公武合体の政治体制へ変革しようと図ったが、幕府(=徳川慶喜)との政局に敗れ、薩摩藩の目論見は挫折した。
公武合体 (融通無碍/南史観<私観>)
その結果、薩摩は完全に倒幕路線に舵を切ることになり、明治維新までの幕末劇(物語)が始まる。
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2月21日
西郷帰る。
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[融通無碍]
◆西郷の離高
西郷は高知を離れたあと西へ。四国西端の足摺岬を回って宇和島に向かう。
容堂と同じく四侯会議の参加メンバーとして期待される宇和島・伊達侯(伊達宗城)を説得し、成功した。
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2月22日
「我ら今度皇国のために」云々の容堂の書付が藩士に公表される。
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[融通無碍]
◆書付<かきつけ>
容堂は
「我らの今回の上京は皇国のためであり、困難な旅だが少々のことでは挫くじけず・・・」と周辺に決意を披瀝して退路を断った積もり…。
有言実行か、大言壮語して竜頭蛇尾に終わるか。不言実行が恥をかかず、得策の場合も…。
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3月
西郷隆盛と約束した四侯会議に参加するため、山内容堂は上洛した。
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4月
樋口真吉は徒士目付役格式御用人として、山内容堂がいる京都に差し立てられた。
身辺警護も含む山内容堂の側近としての任務だ。
真吉は混迷する京都に上洛し、「慶応3年の大芝居」の舞台に(下士<足軽>のため徹底した裏方ではあるが…。)どっぷりとはまることになる。
混迷する京都 (融通無碍/南史観<私観>)
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[融通無碍]
この時期、真吉は京の土佐藩邸を中心に動き回った。
特に中岡慎太郎とは頻繁に会っているが、6月以降は慎太郎と接触していることの記録(日記)がない。
しかし、慎太郎日記を読めば、6月以降も変わらず、頻繁に会っていることが判明する。
倒幕路線を突き進む慎太郎との交遊を(倒幕を是としない土佐藩・官吏としての立場から)真吉は意識して秘匿したようだ。
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慶応3年4月
長崎の亀山社中は海援隊と名を改め、坂本龍馬が隊長となり土佐藩公認の外郭機関(海運/有事には海軍として活動)になった。
海援隊(幕末足軽物語/関連話)
本部は、長崎の豪商・小曽根英四郎邸に置かれた。
小曽根英四郎(幕末足軽物語/関連話<人物評伝>)
以後、海援隊が商売することになり、商才に長けた陸奥宗光が主導して行なった。
陸奧宗光(幕末足軽物語/関連話<人物評伝>)
龍馬が「海援隊が商売する話」を記述した、陸奥宗光宛ての「龍馬の手紙」が残されている。
龍馬の手紙(陸奥宗光宛て 宛て))
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<「幕末足軽物語/樋口真吉伝完結編」ではP282>
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4月23日
龍馬の海援隊船(いろは丸)と紀州船が衝突、いろは丸が沈没した事件が起こる。
いろは丸事件(融通無碍/南史観<私観>)
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[融通無碍]
大洲藩籍で海援隊が運用する(一航海500両で契約)蒸気船「いろは丸」が瀬戸内海中部の備後国鞆の浦沖で紀州藩船「明光丸」と衝突し、「明光丸」が遥かに大型であったために「いろは丸」は大きく損傷して沈没してしまった。
龍馬、小曽根英四郎(会計官)はじめ、いろは丸乗組員は明光丸に収容されて備後鞆ノ津に入港、英四郎知りあいの回船問屋桝屋清左衛門方に落ち着き、早速、紀州側と談判を開始した。
衝突直後の龍馬の手紙がある。海援隊の千屋寅之助宛てた事件の状況を知らせる手紙だ。
龍馬の手紙(千屋寅之助宛て>(幕末足軽物語/関連話)
千屋寅之助(=菅野覚兵衛)
千屋寅之助(融通無碍/南史観<人物評伝>)
龍馬は万国公法をもとに紀州藩側の過失を厳しく追及。さらには「船を沈めたその償いは金を取らずに国を取る」の歌詞入り流行歌を長崎で流行らせるなどして紀州藩を批判した。
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◆万国公法
龍馬に万国公法を教授したのは長岡謙吉。
長岡謙吉
長岡は、天保5年高知城下の浦戸町の医師・今井孝順(孝純、玄泉)の長男として生まれる。安政6年には家業の医師を継ぐため、長崎で二宮敬作に医学を学ぶ(後年、二宮の師であるシーボルトが再来日した際には英語や国際法の教えを受けた)。その後、高知城下東(鹿児)にて医者として活動、名医としての評判を得ていたが、やがて脱藩して長崎に赴き、坂本龍馬の下で海援隊に参加した。
龍馬は長岡の文才を高く評価し、文士として海援隊の通信文書の作成や、いろは丸事件の顛末書の起草など、事務処理のほとんどを長岡に一任していた。
慶応3年、夕顔丸に坂本龍馬、後藤象二郎らと同船し、大政奉還後の龍馬の構想をまとめた「船中八策」を成文化したのは長岡とされている。
万国公法について、長岡謙吉に宛てた「龍馬の手紙」がある。
龍馬の手紙<長岡謙吉宛>(幕末足軽物語/関連話)
長岡謙吉(融通無碍/南史観<人物評伝>)
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紀州藩と海援隊の交渉は、後藤象二郎ら土佐藩が全面的にバックアップし、また薩摩藩士・五代友厚の調停もあり、5月に紀州藩は「いろは丸」が積んでいたと龍馬側が主張したミニエー銃400丁など銃火器35,630両や金塊や陶器などの品47,896両198文の賠償金83,526両198文の支払に同意した。その後、減額して70,000両(現在の貨幣価値に換算すれば164億円/日本銀行高知支店の計算による)になった。
この「いろは丸事件」も、龍馬にとっては、唄もあり、はったりもありの「一世一代の大芝居」であった。
◆龍馬の大芝居/いろは丸劇場
紀州藩を相手に、龍馬が仕掛けた演出は、なんと!コマーシャル・ソング。 ん!?
「船を沈めたその償いは、金を取らずに国を取る--♪」
龍馬はこんな戯れ歌<里謡(りよう)>を長崎の花街丸山で流行らせ、世論を味方につける巧みな攻勢を仕掛けたことはよく知られている。
これはまさに現代のCMプランナーだ。
龍馬は、長崎で豪商・小曽根英四郎の兄・小曽根乾堂から中国の楽器、月琴を習ったといわれている。司馬遼太郎の『竜馬がゆく』でも、姉・乙女と一緒に一弦琴を習ったり、名曲『漁火』を演奏したり、また長崎では花街へと繰り出し『長崎ぶらぶら節』を楽しむ場面などが出てくる。
龍馬はかなりの音楽好きだったようだ。
小曽根英四郎(幕末足軽物語/関連話<人物評伝>)
長崎ぶらぶら節( YouTube )
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5月
長州の桂小五郎が、土佐の坂本龍馬に話した「大芝居」は混迷の京都に役者が出そろい、慶応3年5月に幕が切って下ろされた。
ようやく、薩摩の西郷が斡旋した四侯会議の役者たちが京都に出そろった。芝居の始まりだ。
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[丁卯上京誌/真吉日記より]
<「幕末足軽物語樋口真吉伝完結編」ではP279>
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5月11日
殿下が将軍を召して言う。
「以前から言ってきたことだが、戎服・胡服(=洋服)姿の者が帝都を徘徊し、大阪湾にも異国船が入っている。大坂市中を勝手気ままに歩き、その上(神聖な)岩清水の神廟を覗くなど、言うべき語を失う。
帝都警衛のため設置した関門を無理矢理通行するなど一体誰が認めたのだ。これを知らないとは言わせないぞ。
28人の異人どもが先達<せんだって>から入洛しておるはずだ。これらのことをとくと相糾<あいただ>し、結果を報告せよ。」
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[融通無碍]
◆殿下が将軍を詰問
殿下とは、のちの明治天皇の摂政に就任した二条斉敬<なりゆき>(=関白)である。将軍は徳川慶喜<よしのぶ>。
この頃、慶喜は朝廷への対抗意識を燃やし、大坂城で各国の公使と対面(謁見)して自分が日本の実質的な統治を行なう権力者であることを誇示していた。
その証しとして「兵庫の開港」も確約したから、攘夷・鎖港の朝廷側の反発を招いていた。
まだ流動する世界で、主導権を握って実績を積み上げて、諸外国の支援を得ようとする姿勢が攘夷派を刺激し倒幕運動の火を一段と燃え上がらせた。
・・・・・・・・・・・
5月12日
薩摩と越前と宇和島の三侯が土佐藩邸に来る。(四侯会議の根回しか)
真吉は石川清之助、高松太郎と逢う。
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[融通無碍]
石川清之助は中岡慎太郎の変名である。高松太郎は龍馬の姉の子(龍馬家を継ぐことになる龍馬の甥である。)
中岡慎太郎
この時期、土佐藩では薩摩藩の西郷隆盛が主張する「四侯会議」を積極的に後押ししており、真吉も藩邸で御用にかかわる。
この日、山内容堂が薩摩と越前と宇和島の三侯を土佐藩邸に呼び、二条城での会見のすりあわせをしたものと思われる。(四侯会議の初会合は14日に、二条城で開催された。)
土佐藩邸で四侯会議のメンバーが議論した同じ日、真吉と中岡慎太郎、高松太郎が何のために逢い、何を話して、何を画策したのか、日記からは読み取れない。
高松太郎
高松太郎(融通無碍/南史観<人物評伝>)
龍馬の手紙<高松太郎宛て>(幕末足軽物語/関連話)
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5月14日、
京都・二条城を舞台に、初めての四侯会議が開催された。
四侯会議 (融通無碍/南史観<私観>)
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5月15日
乾退助(=板垣退助)が江戸から京都に来る。
日光東照宮、神橋近くに建つ板垣退助の像
板垣退助(融通無碍/南史観<人物評伝>)
退助は一時期、容堂に嫌われ江戸藩邸で閑日を過ごしていたが、老公入京を聞いて動いたようだ。
福岡孝弟(藤次)、中岡慎太郎らと武力倒幕の密議を交わした。(福岡は大政奉還の平和路線派、中岡は武力討幕路線派だ。)福岡藤次
福岡孝弟(藤次)(融通無碍/南史観<人物評伝>)
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5月18日
江戸にいた退助は、中岡慎太郎の手紙を受けて上洛した。
京都東山の料亭「近安楼」で、福岡藤次や、広島藩の船越洋之助らとともに中岡と会見して武力討幕を議した。
その後、退助は中岡慎太郎の仲介で薩摩の西郷隆盛に逢っている。
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5月19日
容堂は宿痾<しゅくあ>(不治に近い持病=歯痛かも)の治療のため医学生を呼んだ。
容堂はこの日の四侯会議を病気で欠席。(21日も)
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[融通無碍]
◆容堂病気
永年の過度の飲酒で肝臓などは傷んでいただろう。
だが今回は四侯会議が思い通りに運ばないことが癪の種だった。歯痛もあった。
医学生は弘田親厚(中村・下田出身)かも知れない。
容堂は政局の帰趨を左右する重要人物、後には朝廷から英国医も派遣された。
・・・・・・・・・
5月20日
幕臣・原市之進が将軍・徳川慶喜の代理として病床の容堂を見舞いに来た。(原市之進は、徳川慶喜の懐刀)
原市之進(幕末足軽物語/関連話<人物評伝>)
朝廷からは御酒を四樽、鯉二十尾を賜る。
(容堂は朝廷からも幕府からもお呼びがかかる。どうする、容堂!!。)
・・・・・・・・・
5月21日
中岡慎太郎の仲介によって京都(御花畑)の薩摩藩家老・小松帯刀寓居(京都市上京区)で、土佐藩の板垣退助、谷干城、毛利恭助、中岡慎太郎ららとともに、薩摩藩の西郷吉之助(=隆盛)、吉井耕助、小松帯刀らと武力討幕を議し、大意を確認し薩土密約を結ぶ。
薩摩藩と土佐藩の実力者間で交わされた武力討幕のための軍事同盟=『薩土密約』だ。薩土密約は「武力倒幕路線」で、後の戊辰戦争に繋がる。
薩土密約 (幕末足軽物語/関連話)
谷干城(四万十町HPより)
谷千城(融通無碍/南史観<人物評伝>)
吉井耕助
吉井耕助(融通無碍/南史観<人物評伝>)
また、この密約には江戸の土佐藩邸に匿われていた水戸浪士の身柄を薩摩藩邸へ移管することも盛り込まれていた。後の江戸薩摩藩邸焼き討ち事件に繋がる。
江戸薩摩藩邸焼き討ち事件(幕末足軽物語/関連話)
薩摩藩邸焼討事件絵図(松山文化伝承館蔵)
・・・・・・・・・
5月22日
(四侯会議で幕府と朝廷の間に立つ)容堂は、病気と称して御暇を願い立てる。(舞台から降りるか?)
~~~~~~~~
板垣退助は容堂に謁し
「今倒幕に積極的に動かねば、いずれ薩長の手下同然になり後塵を拝する」となかば脅し、密約を承認させる。
この「薩摩との密約・容堂の承認」を知るものはごく限られていた。容堂の側近中の側近、寺村左膳にも知らされてなかった。
寺村左膳(融通無碍/南史観<人物評伝>)
決断のつかない容堂は悩み苦しむ。
退助の激情は死んだ吉田東洋以上かもしれない。が、容堂は直言を好んだ。
吉田東洋
吉田東洋(融通無碍/南史観<人物評伝>)
但し、上士による直言である。真吉ら下士(郷士)がこれを行えば「分を超えた行為≒処罰対象」と見なされる。が、容堂、今回はその真吉も連れての入洛だ。伊豆・下田の遠州灘でのあわやの遭難経験が心に刻まれているのか。
伊豆・下田の宝福寺
伊豆・下田でのこと(融通無碍/第4話)
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[融通無碍]
「焼け跡の釘<くぎ>拾い」という言葉がある。
消火活動に出遅れたら(混乱に乗じ、めぼしい物を盗む「火事場泥棒」も出来ず)ショボショボと金目<かねめ>ともいえぬ焼け釘を漁<あさる>こと。戦働<いくさばたらき>には平時の正義は無用で、早い者勝ちだ。
徳川を倒したあとの世界にこそ出番あり、と意気ごむ退助、徳川を倒すなど夢想だにしない容堂。
世は動いている。
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退助は薩摩藩と締結した密約及び水戸浪士を江戸土佐藩邸に隠匿している事を山内容堂に稟申。
容堂は退助の勢いに圧される形で、この密約を承認、水戸浪士を江戸土佐藩邸に隠匿させていることも黙認した。そのうえで板垣退助に土佐藩の軍制改革を命じた。
容堂の鶴の一声で板垣退助を筆頭として、土佐藩は軍制改革(軍備の近代化)を行うことを決定。中岡慎太郎らにアルミニー銃の購入を命じた。
一方、薩摩藩側も薩摩藩邸で重臣会議を開き、藩論を武力討幕に統一することが確認された。
中岡慎太郎は、ただちに書簡をしたため、薩摩藩と土佐藩の間で武力討幕の密約が締結されたことを土佐勤王党の同志に知らせた。
「天下の大事を成さんとすれば、先ず過去の遺恨や私怨を忘れよ。今や乾退助を盟主として起つべき時である。」と「檄文」を飛ばした。
さらに、退助は土佐勤王党弾圧で投獄されていた島村寿之助、安岡覚之助らを釈放した。これにより、土佐七郡(全土)の勤王党の党員ら300余名が板垣のもとで近代式練兵を行なうことになった。(これがのちの迅衝隊の主力メンバーとなる。)
結果的に、武市半平太が率いた土佐勤王党を、板垣退助が迅衝隊として引き継ぐ形になった。
武市半平太
武市半平太(融通無碍/南史観<人物評伝>)
土佐勤王党(融通無碍/南史観<私観>)
迅衝隊(幕末足軽物語<関連話>)
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5月23日
幕臣・小笠原壱岐守が江戸に帰る。
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[融通無碍]
◆小笠原壱岐守
小笠原は勅命による幕府の長州征伐の総督であったが、第二次長州征伐で惨敗し、文字通り敗軍の将となり面目を失った。
幕船・富士山に乗って戦線離脱、敵前逃亡した。
かれ、何の面目あって入洛したか。処分を決定するための召喚があったと解することもできる。いずれにしても、幕府の対応はいかにも遅い。
第二次長州征伐(融通無碍/南史観<私観>)
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[丁卯上京誌/真吉日記より]
<「幕末足軽物語樋口真吉伝完結編」ではP281>
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5月24日
将軍(徳川慶喜)が殿下(二条摂政)に兵庫開港を要求し迫る。
夜を徹した議論で、慶喜はまるで懐に拳銃を呑んだような態度で交渉し、殿下を虚喝し続けて、終に殿下は不本意な勅命(≒偽勅)を出すに至り、翌25日明け方の七ツ頃(4時)に退出した。
この日の夕方、三条橋のたもとに立つ高札が
「長州は朝敵だ」と明記していたから、これが引き抜かれた。(この行為がだれによってなされたかは記されていない)
この日に行なわれた朝議(四侯会議)で、徳川慶喜は幕府が要求する「兵庫を開港する」勅許を勝ち取ったが、その時の慶喜の一番の側近(ブレイン)として辣腕をふるったのが原市之進だ。
原市之進(幕末足軽物語/関連話<人物評伝>)
徹夜の交渉など一連の政局における慶喜の完全勝利は原の功績であるが、これを妬む者も多く、また「兵庫開港」が水戸藩の尊王攘夷からの変節、奸臣と見なされ、同僚である水戸浪士・鈴木常二郎、依田勇太郎、鈴木豊三郎の刺客3人により暗殺された。
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[融通無碍]
◆徹夜の交渉
徳川慶喜は決死の覚悟をもって朝議(四侯会議)に臨んだ。
四侯には慶喜の動きに半ば諦め気味の雰囲気が漂い、春嶽、宗城の2人が参席したのみであった。(薩摩・土佐は不戦敗。)
朝廷は、徳川の要求を飲み、勅令を出した。(強要の末だから、真吉は日記に「偽勅」と書いた。)
①兵庫を開港する(徳川の要求)
②長州は朝敵ではなく寛大な処分に留める。
慶喜が主導して徹夜の交渉で勅許を勝ち取ったことは、一連の政局における慶喜の完全勝利と四侯会議側の敗北を意味した。
これにより、薩摩は幕府を含む公武合体に見切りを付けて、完全に「倒幕路線」に舵を切った。
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5月26日
容堂は馬に乗って登営(=登城)した。(辞任の挨拶か)
容堂は馬が好き (融通無碍/南史観<私観>)
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5月27日
老公(容堂)が乗馬で帰国の途に就く。
(伏見で御宿を取ったあと大坂に一日滞在し、蒸気船に乗って高知・浦戸に着船の予定だ。)
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[融通無碍]
◆容堂、京都から遁走する
容堂は四侯会議もスルーして、早々に京都から遁走する。
当時、京童<きょうわらべ>歌に
「見えた 見えたよ 三条の橋に 丸に三つ葉の 尾が見えた」というのがある。
丸に三つ葉は土佐山内の家紋である。尾は乗馬姿の容堂を揶揄したものか。逃げて行く後ろ姿も大勢に目撃され京雀の噂になったか。
これとは別の関連する話題がある。
◆臆病湯と書かれた徳利
筆者が見た骨董に珍品があった。酒用の徳利である。首が長い。
この出所<でどころ>は県中西部・新庄川の中流域で、幕末には数多くの志士を出した村の旧家である。時代は幕末、土佐安芸の内原野焼きらしい。
それに書かれた文句が振るっている。
『京みやげ 臆病湯<おくびょうとう>』
筆者想像するに
容堂をからかった物だろう
もし容堂が帰郷にあたり京・土産を買うなら酒好きだから酒だ。
が、中身が愛飲の灘の銘酒「剣菱」では面白くない。
酒好きで臆病なら、臆病というやまいを治すには○○湯(葛根湯<かっこんとう>のように)に限る
それなら京都に行く前に薩摩の西郷と家臣に確約した「上洛して京・東山の土になる」をあっさり破約した大ぼら吹きの土産は「臆病湯」という薬が一番だ。
内原野焼きの酒徳利
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6月
いろは丸事件の処理で長崎にいた龍馬と後藤象二郎はただちに京都へ出向し、建白書の形式で山内容堂へ(大政奉還の)上書を行なうよう準備していた。
しかし、これより1ヶ月前の5月21日の時点で既に中岡慎太郎の仲介によって板垣退助、毛利恭助、谷干城らが薩摩藩の西郷隆盛、吉井友実、小松帯刀らと薩土討幕の密約を結び、翌日容堂はこれを承認した。大坂で武器300挺の買い付けを指示したあと、板垣退助らとともに土佐に帰藩していた。
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[丁卯上京誌/真吉日記より]
<「幕末足軽物語樋口真吉伝完結編」ではP283>
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6月3日
真吉が相国寺前の旅宿に西郷吉之助を訪ねて逢う。
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[融通無碍]
◆真吉が西郷と逢う
中岡慎太郎日記には、同日の記録として「樋口と西郷に至る」とあり、この会見は中岡の紹介によるものか。
相国寺の前には薩摩藩の二本松藩邸があった。
この二本松にある薩摩屋敷こそ龍馬暗殺の一月<ひとつき>前に、龍馬が友人望月清平に送った書簡中にある「薩摩が勧める緊急避難先」だった。
龍馬暗殺 (融通無碍/南史観<私観>)
二本松の薩摩藩邸跡、現在は同志社大学の今出川キャンパス
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6月8日
祇園にて真写をなす。西山平馬も同じく写す。
真吉 写真を写す(融通無碍/南史観<私観>)
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6月9日
いろは丸事件の談判を終えた龍馬と後藤象二郎は藩船「夕顔丸」に乗船して長崎を発ち、兵庫へ向かった。
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[融通無碍]
5月には京都で、将軍・徳川慶喜および島津久光、伊達宗城、松平春嶽、山内容堂による四侯会議が開かれており、後藤象二郎は山内容堂に京都へ呼ばれていたが、四侯会議には間に合わなかった。
龍馬は「夕顔丸」船内で政治綱領を後藤に提示した。
それは以下の8項目であった。
①天下ノ政権ヲ朝廷ニ奉還セシメ、政令宜シク朝廷ヨリ出ヅベキ事(大政奉還)
②上下議政局ヲ設ケ、議員ヲ置キテ万機ヲ参賛セシメ、万機宜シク公議ニ決スベキ事(議会開設)
③有材ノ公卿諸侯及ビ天下ノ人材ヲ顧問ニ備ヘ官爵ヲ賜ヒ、宜シク従来有名無実ノ官ヲ除クベキ事(官制改革)
④外国ノ交際広ク公議ヲ採リ、新ニ至当ノ規約ヲ立ツベキ事(条約改正)
⑤古来ノ律令を折衷シ、新ニ無窮ノ大典ヲ撰定スベキ事(憲法制定)
⑥海軍宜ク拡張スベキ事(海軍の創設)
⑦御親兵ヲ置キ、帝都ヲ守衛セシムベキ事(陸軍の創設)
⑧金銀物貨宜シク外国ト平均ノ法ヲ設クベキ事(通貨政策)
以上の8項目は、長岡謙吉が筆記したとされ、歴史小説などでは「船中八策」と呼ばれ、のちに成立した維新政府の綱領の実質的な原本となったとされてきた。
しかし、江戸時代のものとは思えない文体で書かれており、内容も引用されたものによって食い違いがあり、かつ龍馬によって書かれた船中八策の原本は見つかっておらず、近年では船中八策は創作とされる。
11月に書かれた新政府綱領8策の自筆本は実在しており、思想や主張の内容はこれをと基に遡及して作られたものとされる。
船中八策(NHK動画)
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[丁卯上京誌/真吉日記より]
<「幕末足軽物語樋口真吉伝完結編」ではP283>
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6月13日
参政・後藤象二郎が着京した。
薩摩藩士・田中耕助と坂本龍馬が来る。
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[融通無碍]
◆田中耕助
かって、日本漫遊の旅の途中、釣り好き田中耕助の招きに応じ、真吉は釣行をした。
日本漫遊の旅(融通無碍/第12話)
《「幕末足軽物語 樋口真吉伝/完結編」では、P121》
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◆坂本龍馬
想像だが、二人は言葉を交わさなかったのではないか。
川柳に『その二人 昼間は互いに 物言わず』
来島又兵衛の項でも引いた。
来島又兵衛
来島又兵衛(融通無碍/南史観<人物評伝>)
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[融通無碍]
後藤象二郎は龍馬とともに、土佐藩船・夕顔丸で長崎から着京した。
その船中で龍馬が後藤に新国家の構想(=船中八策)を示したとされる。(異説有り)
田中耕助はかってロンドンに3カ月間留学した経験があるという。
残念ながら、後藤、田中、龍馬と何を話したかの記録はない。
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6月17日
白河邸(中岡慎太郎の結成した陸援隊がここに駐留した)に詰める軽卒が10人ばかり二条河原で納涼しながら一杯飲んで2組に分かれての帰途、先行組の2人と何者かが口げんかになるがそのまま帰った。
ところが後行組がそこを通り掛ると矢庭に斬りかかってきて軽卒1人が薄手を負って倒れた。後行組が次々と刀を抜いて対抗姿勢を示すと敵は逃げ去った。賊は2人だった。
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6月22日
大政奉還論を意図した後藤象二郎と坂本龍馬が上洛し、薩摩藩と薩土盟約を結ぶことになる。
5月には薩土密約が成立しており、そのため一歩出遅れた後藤象二郎らは大坂で藩重臣らと協議し大政奉還論を藩論とするよう求める他なかった。
土佐側は坂本龍馬、中岡慎太郎、寺村左膳、後藤象二郎、福岡孝弟(藤次)真辺正心(栄三郎)が、薩摩側は西郷隆盛、大久保一蔵、小松帯刀が代表となり、龍馬の進言に基づいた王政復古を目標となす薩土盟約が成立した。
寺村左膳(融通無碍/南史観<人物評伝>)
福岡孝弟(融通無碍/南史観<人物評伝>)
薩土盟約 (融通無碍/南史観<私観>)
薩土盟約は「武力によらない平和的路線」、その後の大政奉還/公議政体へと繋がる。
一方、1カ月前の5月に成立した薩土密約は「武力倒幕路線」で、後の戊辰戦争に繋がる。
《当初、板垣には薩土盟約、寺村、後藤には薩土密約の存在が伏せられた。盟約、密約の両方に関わった中岡の差配か。》
真吉は、表向き(職務上)は薩土盟約に関わったと見られ、日記にも記述を残している。
しかし、裏では薩土密約にも深く関わっていたようで、5月21日の密約締結の場には、真吉の一番弟子とも言える安岡亮太郎を参加させている。密約のことは、日記にはいっさい記録していない。
安岡亮太郎
安岡亮太郎(融通無碍/南史観<人物評伝>)
後藤象二郎は薩摩との盟約を成立させると、土佐に帰って山内容堂に(大政奉還の)上書を行なった。
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[融通無碍]
慶応3年、土佐藩は幕府を中心とする公議政体論を藩論として決定、大政奉還のため薩土盟約を締結する。
将軍徳川慶喜に大政奉還を勧告、布告させるという「平和路線」だ。
その後も、この路線で武力討幕派に対抗したが、薩摩の二股膏薬(薩土密約)などもあり伏見戦争(戊辰戦争)でこの平和路線は霧散した。
土佐藩も佐幕派の筆頭・旧藩主の山内容堂の突然の「君子豹変」で、討幕運動に加わることになる。
腹の探り合い/薩土盟約
この盟約には背景がある。
幕府の命脈が尽きようとしていることは薩摩、土佐ともに明瞭に見えていた。問題はどう収拾を付けるか。
武力倒幕の薩摩、平和裏に政権交代を実現したい土佐が曖昧な形で妥協して生まれたものだ。
だから契約が実効していた期間は極めて短い。
この6月22日(下旬)から9月上旬(明確な日付確定は困難だ)の間のたった2ヶ月半だった。
薩摩としては土佐を幕府側に立たせることは避けたい、その一心で妥協した産物だ。
この経緯を真吉は知っていたはずだが、日記には書いていない。
真吉は長州好きだった。薩長の対立と、変転極まりない薩摩の態度に嫌悪を感じていたか。そう考えておこう。
薩土盟約
薩土盟約が締結された前後のことを長州藩士・三吉慎蔵に伝えた「龍馬の手紙」がある。
龍馬の手紙(三吉慎蔵宛て)
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板垣退助は西郷隆盛と薩土討幕の密約を結んだあと、土佐勤王党の志士らを釈放した。
釈放された勤王の志士を再結集して土佐藩兵(=迅衝隊)を結成、土佐藩は薩長とともに討幕勢力の一翼を担うことになる。
迅衝隊 (融通無碍/南史観<私観>)
また一方では、土佐勤王党を弾圧した後藤象二郎が、土佐藩・参政となり坂本龍馬と邂逅して大政奉還を主導した。
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6月26日
芸州藩が加わって薩土芸盟約が成立した。
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7月
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7月3日
後藤象二郎氏が帰国する。同行帰国したのは寺村左膳らであった。
平和路線が薩摩の理解を得たとして高知に帰り、隠居・山内容堂に「大政奉還建白」の相談をするための帰国だった。
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7月4日
後藤象二郎が「平和路線の最終調整」のため高知に帰る。
龍馬が不在中の長崎で、英国軍艦イカロス号の水夫が殺害され、海援隊士に嫌疑がかけられる事件が発生した。
その談判交渉が、高知の須崎で行なわれることになり、龍馬も高知に行くことに。
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7月4日
幕府・鉄砲方と二条鉄砲組のケンカを新撰組が仲裁する
寺は財産持ちだったから自衛の手段を日頃から講じ、幕府の鉄砲方を寺内に引き入れていたが、政情不安もあり気が立っている。踏んだ踏まぬは喧嘩の常。京の治安維持を主務とする新撰組も思わぬ出番が回る。新撰組とて人を斬りたくない。
新撰組(融通無碍/南史観<私観>)
幕府からの御達し書(通知文)
「市中取締りのため、陸軍奉行と歩兵奉行の銃隊頭、歩兵頭、撤兵頭、組合銃隊頭に附属する兵士が巡邏するからその心得のため通知する。」
将軍が鳥羽通りを通って大坂に下る。七カ国の船が大阪湾に入ってきたからだ。将軍は単身外国船に乗り込んだという。
幕府は近頃銀札を造り大坂辺の現金と引き換えを始めたらしい。大坂の豪商で一万両以上を融通する者は皆幕府の金融をするらしい。
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[融通無碍]
意味不明だが、経済・通貨・為替戦争が始まったようだ。
幕末のインフレ・デフレ(融通無碍/南史観<私観>)
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7月27日
客兵(中岡慎太郎傘下の浪士達/26名=陸援隊、後に田中健助<=田中光顕>ら12名が追加加入/真吉はその名簿を入手していた)を白川邸入り(陸援隊の屯所として使用)させることが決定する。
田中光顕
田中光顕(融通無碍/南史観<人物評伝>)
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[融通無碍]
◆白川邸
土佐藩の京都藩邸・白川邸(現京都大学農学部構内にあった)は、前年の慶応2年に福岡藤次により購入され、結果的には陸援隊の屯所となった。
真吉は佐々木三四郎と相談して、中岡慎太郎傘下の浪士達を白川邸に入れる。
長崎の龍馬・海援隊と並び称される陸援隊の誕生である。
陸援隊(幕末足軽物語/関連話)
この決定について、三四郎自身『他日罪人となることは覚悟している』と書く危険な行動だった。三四郎の気概を見る思いがする。こういう人柄が友を作る。
佐々木三四郎
佐々木三四郎(融通無碍/南史観<人物評伝>)
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7月28日
夜、由比猪内と佐々木三四郎が大坂に下る。
用務は、長崎において土佐藩の夕顔丸(龍馬が運行)の船員(海援隊員)が英国人を殺害した事件(イカルス号事件)について本藩に確認と質問をするためだ。
英国水兵殺害事件(イカルス号事件)(融通無碍/南史観<私観>)
(これに関連して)大坂の幕府役人が英国からの直訴もあり、とりあえず英国の動きを制止し「幕府自らが我が藩(=土佐)を糾問する」と幕吏・永井玄蕃から土佐藩大坂屋敷の留守居役に連絡があった。事の詳細は「在坂の閣老・板倉伊賀守に直に逢って聞くべし」と言われ、2人は幕府役所に赴く。
幕吏・平山図書頭、外川某、説木(=設楽)某が土佐に行くのは、英国人を斬った者が土佐藩船・横笛に逃げ込んだという情報によるもの。
由比、佐々木の二氏が土佐(須崎)に帰国する。幕吏も行く。英国(船)もその後を追って土佐に行くらしい。切歯切歯(歯がゆいことだ)。
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8月
真吉は西郷隆盛にも相国寺前の旅宿で数回面談している。東奔西走する龍馬とも数回会っている。お互い知らぬふりをしていたのかも知れぬ。会った場所も土佐藩邸内ではないはずだ。
時局は土壇場に来ていた。
大政奉還である。
それも平和裏に終わればいいが、中岡慎太郎を中心とする陸援隊はもうこの時期には、世にはばかることなく武力倒幕を目指すようになっていた。
陸援隊員たちを京の白川にある藩邸に収容するよう積極的に動いたのは、真吉と武者修行の旅の経験のある佐々木三四郎で、藩からの処罰を覚悟の上の行動であった。
真吉の突然の辞職申し入れは、このことに由来するか。(三四郎を動かしたのは真吉だから)
京伏見での戦となれば陸戦が主体となる。長崎を本拠地とする海援隊(坂本龍馬)の出番はあるまい。
しかし、この時期には龍馬も中岡慎太郎も大政奉還・その後の幕府との戦いを見越して秘かに動いていた。
土佐藩・大監察の本山只一郎に宛てた 中岡慎太郎の書状がある。(霊山歴史館蔵<京都東山>)
中岡慎太郎の手紙(youtube)
慎太郎の手紙では、土佐藩も大政奉還に向けて行動をおこすことを本山に促している。
本山只一郎(融通無碍/南史観<人物評伝>)
龍馬の手紙<本山只一郎宛て>(幕末足軽物語/関連話)
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8月1日
龍馬が兵庫の駅に着いた。幕吏も追い付いて来た。両者とも高知に急いでいる。
龍馬は乗船(=三邦丸)したがまだ蒸気は立っていないから帆を上げ出発した。幕吏も同じく帆を上げ追発した。
翌2日も1隻が出発する。英国船が長崎から来てこれも追発した。在港している仏船は4隻という。
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真吉の日記の中に七言絶句の漢詩あり。本文は略すが大意は
「夷賊も幕府も大急ぎで高知に向かう。船中は衆議一致せず大騒ぎだろう。この混乱を断ち切れるのは誰か。後藤氏か、そうでなければ板垣君だ」
事件解決後の作だろうが、後藤と板垣への真吉の高評価が分かる。
後世の評価では後藤象二郎はあまり芳しくない(明治期のかれの所業の故か)。
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8月6日
兵庫で約10人の脱藩人が英国船に討ち入って2人が捕縛された由、大坂の留守居役・石川石之助から報せが来る。
英国人を斬った事件は幕府の奸謀であること疑いない。
同じ頃芸州人・船越某が上京し同様の話を聞かされた。
さらに時任健三郎が帰って言うには
「それは間違いだ。少し事情がある。つまり仏人は神戸と兵庫の境目辺りで水練をしていたが旗本・青木源五郎の家来がこれを嘲弄したから仏人が怒って海辺に上がって来た。これを見た家来が抜刀するも逆に刀を奪われ縛り上げられた。この件について仏は幕府に対し『近頃毎度われらに不敬の挙動があり、ついには仏の公子に刀を抜き付ける事態にまでなった。とにかく横浜で談判して決着をつけよう』と言って早々に発船して去ったというのが事実だ」
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《融通無碍》
◆真吉の記録は実況中継
情報が混乱しているが、真吉の記録に後出しジャンケンはない。当時のまま残る実況中継だ。
それ故、筆者は真吉の記録に大きな価値を見る。
明治の遺勲者たちが若輩連を前に「○○翁、往時を語る」のとは全く別世界の記録。懐旧談にありがちなリップサービスも誇張も老齢のための記憶違いもここにはない。どうぞこの点に留意してもらいたい。
事件当事者の本人が話したとしても、時間が経過すれば、話の内容の信憑性は相当薄れるだろう。
・・・・・・・・・
8月8日
佐々木氏らが乗った薩摩の蒸気船は今月1日、浪花を発し2日夜に土佐の須崎に着いた。
幕府の船も(1日遅れで)3日須崎着。
参政・後藤象二郎が薩摩・西郷隆盛氏に送った手紙に
「(大政奉還という)土佐の国論に変わりなく、さあ京都に行こうかとした時、土佐藩士が長崎で英国人を殺害した報せ(イカルス号水夫殺害事件)が飛び込んで来た。この一件が幕府の悪巧みに間違いないから(出発を延期して)英国などと直接交渉し幕府の奸謀であることを証明したい。その後藩侯父子が英国ミニストル(=公使)と懇親を結び土佐を出る予定だ」。
~~~~~~~~
薩摩の西郷氏が京都の土佐藩邸に来て言う。
「兵庫において英船に攻撃したのは脱藩浪人15人ばかりによるもので、このことは大坂の土佐藩邸・留守居役の石川石之助から聞いた。」
同じ内容を芸州の船越某も話した。
・・・・・・・・・
8月12日
本藩から幕吏の書類が届く。今月6日に高知城下から出されたもの。
この時点ではまだ英国船は土佐(=須崎)に到着していない。
須崎には渡邊弥久馬、由比猪内、後藤象二郎、佐々木三四郎が詰めている。
板垣退助も、2小隊を率いて須崎に来ている。
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[融通無碍]
◆板垣が2小隊を引率
船内の交渉では、陸で乾の小隊が活発に行軍するのを見て英国側が不快感を示し
「交渉より戦争する気じゃないか。不愉快極まる」と抗議すると後藤は涼しい顔で
「いや、通常の訓練、演習でござるよ」と答えて脇にいた容堂の側近・寺村左膳などを安堵させたという。
板垣は明治を迎えると政治家として自由民権運動をリードしたが、「政治家より軍人に適した人柄だった」という評価がある。
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8月14日
水戸の浪士3人が幕府の大監察・原市之進の旅館に押し入り刺して首を取った。
原の家臣が必死で賊を追い駆け全員を報復・斬殺する。
この蛮行を実行した水戸浪士の名は、鈴木常二郎弟、同豊三郎、依田勇太郎。
かれらは市之進の首を獲った他、板倉閣老への訴文を残した。
◆暗殺者たちの残した訴文
原市之進 梅津孫太郎
この者らは元水戸藩の家臣で、徳川斉昭(=水戸烈公)に奉事して先哲に交わりかねがね尊攘の大義を講究し当時顕要の地位に居て奸謀を巡らし、あまつさえこの度は兵庫開港を謀った。
この行為は先哲の教旨を顧みず、天聴を欺くもの。主君を助け尊攘の盛挙を施行させることこそ至当なのに、死を恐れ栄利を貪り快楽を主とすること少なからず。
われらは多言を待たず、玉体を破壊し天倫を滅することで共に天を戴<かざる>賊臣である。
衆の悪天を断ち必誅の義に基ずき今身を以って先帝在天の霊に謝し奉り、君臣の汚辱を雪そそぎ、衆人の冀<こいねがう>所に答えるもの。
天下有識の士よ、幸いにこれを諒解<りょう>とせよ。
(筆者、力不足で意味不明な文章になった。原文に忠実に訳するとこうなった。中学生レベルの英文和訳を表に出す、恥じ入るばかり。)
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《融通無碍》
◆原市之進(幕臣・大目付)
慶応3年5月24日に行なわれた朝議(四侯会議)で、徳川慶喜は幕府が要求する「兵庫を開港する」勅許を勝ち取ったが、その時の慶喜の一番の側近(ブレイン)として辣腕をふるったのが原市之進。
徹夜の交渉など一連の政局における慶喜の完全勝利は原の功績であるが、これを妬む者も多く、また「兵庫開港」が水戸藩の尊王攘夷からの変節、奸臣と見なされ、同僚である水戸浪士・鈴木常二郎、依田勇太郎、鈴木豊三郎の刺客3人により暗殺された。
原市之進(幕末足軽物語/関連話<人物評伝>)
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暗殺者3人は閣老・板倉伊賀守の邸に入るも本人とは逢えず、
(原市之進の惨殺後)かれこれするうちに原の家臣が追いついて、豊三郎と勇太郎を斬る。
常二郎は(原の家臣を差し留め)、辞世の歌を書き残して屠腹した。
【辞世の歌】
闇の夜の 死手(出)乃山路を たとるとも 迷いはせまし 日の本の道
閣老の家来は常二郎の切腹を中途で制し、治療したが深手のため、舌が回らず
ただ「常州<じょうしゅう>」という言葉のみ分かったという。
・・・・・・・・・
8月15日
長崎で起きたイカルス号水夫殺害事件が、土佐の須崎で談判交渉される。
イカルス号水夫殺害事件(融通無碍/南史観<私観>)
須崎での談判交渉後、後藤、龍馬、佐々木三四郎らが高知から土佐藩船・夕顔丸に乗船して長崎に行く。
この船に英国の通訳・佐藤健之助(アーネスト・サトウ、佐藤愛之助とも号した)が加わり同乗した。
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[融通無碍]
◆佐藤健之助(アーネスト・サトウ)
イギリスの外交官。イギリス公使館の通訳、駐日公使、駐清公使を務め、イギリスにおける日本学の基礎を築いた。
長崎で起きたイカルス号水夫殺害事件の犯人が土佐藩士との情報(誤報であったが)があったため、佐藤健之助は阿波経由で土佐に来ていた。土佐では主に後藤象二郎を交渉相手とし、山内容堂にも謁見した。
佐藤は龍馬とともに土佐藩船「夕顔丸」 で下関経由で長崎に向かい、龍馬の紹介で桂小五郎と初めて会った。
夕顔丸
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[融通無碍]
◆土佐藩の洋式艦船
土佐藩の洋式艦船は『源氏物語』の巻の名に因んで命名されている。
「夕顔」・「空蝉」・「若紫」の他に、「箒木」・「胡蝶」・「羽衣」・「乙女」・「紅葉賀」が知られている。
「夕顔丸」モニュメント(長崎市西浜町)/この船中で大政奉還に繋がる龍馬の「船中八策」が起草された。
龍馬は海援隊員の疑義をはらすために長崎へ戻り、9月まで英国公使パークスとの談判にあたった。結局、容疑不十分で海援隊士の嫌疑は晴れている。(犯人は福岡藩士・金子才吉で事件直後に自刃していた。)
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[余話](英使サトウ滞日見聞記維新日本外交秘録より)
サトウとの交渉で後藤象二郎は
「土佐藩は事件とは全く関係ない」と論じている。
「英国を手本にして国会と憲法とを作ろうと思っている。薩摩の西郷も相似た意見を持っている」とも述べている。
幕末足軽物語/関連話<民撰議院設立建白書>
サトウは
「後藤はこれまで会った中で最も才智の優れた日本人である。余の考えでは、独り西郷だけが人物の点で後藤に優れていた。」と記述している。
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9月
中岡慎太郎は、白川の隊舎内(陸援隊屯所)に大量の武器弾薬類を集積した。これを真吉に見せたのではないか。
国内には戦争に備えて武器が充満していた。攻撃するにも自衛するにも武備は必要だ。
諸藩が懸命に新武器を購入し実戦に備えて藩士を鍛えている。
幕府も大量の武器を抱えたままである。
平穏のうちに政権交代が行われる可能性は低い。せめて考えられるのは江戸市中での戦闘を避けることである。
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9月2日
桂小五郎(当時は既に木戸姓を名乗っていた)から龍馬宛に手紙がきた。
龍馬はこの手紙をもらった後、独断で土佐藩に買い取らせるためのライフル銃を1000丁以上購入し、藩の重役に討幕への覚悟を求めた。
幕末足軽物語/関連話<桂小五郎の手紙(龍馬宛て)
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9月6日
大監察に復職した板垣退助は薩土討幕の密約をもとに藩内で武力討幕論を推し進め、佐々木高行らと藩庁を動かし、土佐勤王党弾圧で投獄されていた島村寿之助、安岡覚之助ら旧土佐勤王党員らを釈放させた。
これにより、勤王党の幹部らが議して、退助を盟主として討幕挙兵の実行を決断。武市瑞山の土佐勤王党を板垣退助が事実上引き継ぐことになる。
・・・・・・・・・・
9月8日、
京都で薩摩・大久保と西郷、長州・広沢真臣と品川弥二郎、芸州・辻が会い、出兵協定である三藩(薩長芸)盟約を結んだ。
これで薩摩は土佐の力がなくとも倒幕に見通しがついたと判断、薩土盟約の意義が失われつつある。
薩摩は、建前では平和路線、本音は武力討幕の方向に舵を切ったが、土佐はそれを知らない。
芸州、薩摩、会津などの動きが活発になる。
一連に動きから「どうも薩摩と安芸・広島の動きが怪しい」と真吉は感じていた。
さて、薩土盟約がどうなるか。
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9月9日、
土佐藩お抱えの刀鍛冶・左行秀(豊永久左衛門)は、退助が江戸の土佐藩邸に尊皇攘夷派浪士を隠匿していることを、山内容堂の側近・寺村左膳に密告を行った。
左行秀(融通無碍/南史観<人物評伝>)
幕末足軽物語 樋口真吉伝完結編
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<「幕末足軽物語樋口真吉伝完結編」ではP293>
慶応3年9月9日
この日、江戸から豊永久左衛門(=左行秀)が来た。
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左行秀は、16日に本藩(高知)に行く。
行秀は江戸藩邸での乾退助(=板垣退助)の行動<水戸浪士隠匿>に反発し、本藩に告発すべく江戸から京都へ来て、真吉らとも相談のうえ高知に向かう。行秀は刀工だったが龍馬の兄・権平とも親しかった。
真吉は(外交掛御用であるから「水戸浪士隠匿事件の裏事情」を知っていたであろうが)、愚直な行秀の行動を黙認したのか。制止するが止められなかったのか。
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[融通無碍]
◆裏事情とは?
左行秀は「乾退助が江戸築地の土佐藩邸(中屋敷)に天狗党残党(水戸浪士)を隠匿し、薩摩藩が京都で挙兵した場合、退助らの一党が東国で挙兵する計画を立てている」と土佐藩重役・寺村左膳に対し密告<機密事項の暴露>を行った。
この密告は、建前論的には退助が処罰(死罪/切腹)されるほどの重大事柄であったが、土佐藩(乾退助)と薩摩藩(西郷隆盛)の間で締結された薩土討幕の密約<薩土密約>を山内容堂が知っていた<黙認していた>ため、退助は不問(処罰ではなく、軍制改革・近代式練兵の責任者に抜擢される)、行秀は図らずも「不埒な密告をする裏切り者」になってしまった。
よかれと思ってしたことが裏事情を知らなかったため、その後の人生を狂わせた。いつの時代にもよくあることだ。
その後、水戸浪士たちは土佐藩から薩摩藩へ移管され、慶応3年の暮れに戊辰戦争の前哨戦となる「江戸薩摩藩邸の焼討事件」へと発展した。
江戸薩摩藩邸焼き討ち事件(幕末足軽物語/関連話)
この事件は、薩摩が「倒幕の大儀を得るための陰謀」であった。やがて、翌慶応4年の鳥羽伏見の戦い・戊辰戦争へと繋がって行く。
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9月20日
龍馬は、桂小五郎に
「先日いただいた手紙の中の「大芝居」の件は、かねてより知っていたことだけど、実におもしろい。」と手紙を出している。
龍馬の手紙<桂小五郎(=木戸孝允)宛て③>(幕末足軽物語/関連話)
さらに、
「大政奉還が受け容れられなかった場合は、後藤象二郎を国へ返し、板垣退助を出す」と述べている。
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9月22日
中岡慎太郎が『兵談』を著して、国許の勤王党同志・大石円に送り、軍隊編成方法の詳細を説く。
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9月23日
これらの動きに呼応し、イカロス号事件の処理を終えた龍馬は、新式小銃1,000挺あまりを船に積んで長崎から土佐へ運んだ。
途中、下関に寄港し、長州の伊藤博文らと会談したのち、廻船問屋・伊藤家に妻のお龍と妹の君江を預けた。
この際、龍馬は
「万一のご報知仕候時ハ、(略)愚妻おして尊家に御養置可被遺候よふ」との書簡を朋友・三吉慎蔵に送り、お龍の後事を託している。
三吉慎蔵
三吉慎蔵(融通無碍/南史観<人物評伝>)
三吉慎蔵は龍馬との約束通り、お龍・君枝姉妹を長府の自宅に引き取って面倒を見た。
龍馬暗殺後の翌年(慶応4年3月)、慎蔵はお龍・君枝姉妹を高知の坂本家に送り届けている。
その後、お龍の妹・君江は高知/和食(現高知県芸西村)の千屋寅之助(=菅野覚兵衛)に嫁いでいる。
千屋寅之助(融通無碍/南史観<人物評伝>)
寅之助の実家には、お龍も同居しており、和食の琴ヶ浜松原には「お龍・君江姉妹像」の銅像がある。
お龍君枝姉妹像(高知県芸西村和食)
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坂本龍馬らは一連の動きに呼応して、長崎より銃器を携えて土佐へ帰国。
龍馬、千挺の銃を土佐藩へ持ち込む(NHK)
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9月24日
浦戸入港の時、龍馬は土佐藩家老・渡辺弥久馬(斎藤利行)に小銃の購入、及び討幕への覚悟を求めた書簡を送っている。
渡辺弥久馬(融通無碍/南史観<人物評伝>)
◆龍馬の手紙(渡辺弥久馬宛て)
『この度は、銃一千挺芸州藩の蒸気船に積んで浦戸まで来ました。来る途中で下関により、京都の急報を聞きましたが、中々差し迫った感じでした。』
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[融通無碍]
龍馬は五台山下の料亭で、土佐藩家老・渡辺弥久馬と懇談、龍馬が土佐藩へ持ち込んだ銃千挺の商談がまとまった。
会談後、渡辺弥久馬は龍馬に帰宅を勧める。脱藩以来初めての帰宅だった。
銃の売却代金の他に謝礼も追加され、自宅で開かれた龍馬帰郷の祝いの席で、姉・乙女らに気前良く分け与えた。
脱藩者が、秘密裏ではあるが公然に近い形で帰郷した。
龍馬は5年半ぶりに故郷の土を踏み家族と再会した。
龍馬 最後の帰郷(NHK動画)
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9月25日
龍馬は土佐勤王党の同志らと再会し、討幕挙兵の方策と時期を議す。
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9月27日
本山只一郎宛ての 坂本龍馬書状/9月27日(霊山歴史館蔵<京都東山>)
龍馬の手紙(youtube)
龍馬のこの手紙が書かれた時期には、本山只一郎は土佐藩の大監察という重役に就いていた。文中、龍馬は
「薩長が藩論を統一したので、土佐藩も早く藩論を統一してほしい」、
「運んできたライフル銃の購入を決めてほしい」と、本山をせかしている。
龍馬の手紙<本山只一郎宛て>(幕末足軽物語/関連話)
本山只一郎(融通無碍/南史観<人物評伝>)
土佐藩が龍馬から購入したライフル銃は1000挺ともいわれる。後に真吉が土佐藩の輜重隊<兵站/武器弾薬食糧の調達・輸送・補充を用務とする>の責任者として参戦した戊辰戦争で使われることに。
真吉は輜重隊<裁判役>(融通無碍/南史観<私観>)
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9月29日
板垣退助は土佐藩仕置役(参政)兼歩兵大隊司令に任ぜられる。
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10月
慶応3年10月になると、大芝居の第2幕/大政奉還の物語が始まった。
幕末足軽物語 樋口真吉伝完結編
<「幕末足軽物語樋口真吉伝完結編」ではP296>
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10月3日、
後藤象二郎と福岡藤次の両氏が建白書(=大政奉還)を閣老・板倉周防守に提出する。
後藤象二郎(融通無碍/南史観<人物評伝>)
福岡藤次(融通無碍/南史観<人物評伝>)
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慶応3年10月3日
容堂の同意を受けた後藤が二条城に登城して、容堂、後藤、寺村、福岡、神山左多衛の連名で老中・板倉勝静に大政奉還建白書を提出し、幕府が時勢に従い政権を朝廷に奉還することを提案していた。
しかし、土佐藩幹部の中にあって板垣退助は武力討幕の意見を曲げず、大政奉還論を「空名無実」と批判し
「徳川300年の幕藩体制は、戦争によって作られた秩序である。ならば戦争によってでなければこれを覆えすことは出来ない。話し合いで将軍職を退任させるような、生易しい策は早々に破綻するであろう」と真っ向から反対する意見を言上した。
このことで板垣は全役職を解任されて失脚した。
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10月4日
寺村左膳と神山左多衛が摂政・二条家に同じ内容の建白書を差し上げる。
寺村左膳(融通無碍/南史観<人物評伝>)
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10月5日
寺村左膳が立帰り(任務終了次第、戻る)で帰国し、本藩に京師情報を伝えることになった。啓太郎らが随従する。
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10月8日
後藤象二郎が幕府閣老・板倉周防守幕・板倉閣老に建白書の趣旨を説明するため出向く。
板垣退助は大政奉還に真っ向から反対して、土佐藩歩兵大隊司令役を解任された。
土佐藩は板垣退助の説く過激な武力討幕か、後藤象二郎の説く穏健な大政奉還かで、藩論が揺れ動く。
・・・・・・・・・
10月9日
龍馬が入京。
龍馬は入京したことを土佐にいる兄の坂本権平に伝えている。
龍馬の手紙<坂本権平宛て>(幕末足軽物語/関連話)
徳川慶喜がこの建白を受け入れるか否かは不明確で、龍馬は後藤に
「建白が受け入れられない場合は、あなた(後藤象二郎)はその場で切腹する覚悟でしょうから、後下城なきときは、海援隊同志とともに慶喜を路上で待ち受けて仇を討ちます。地下で相まみえましょう」 と激しい内容の手紙を送っている。
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10月10日
坂本龍馬が長崎から長州、土佐を経て上京した。
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[融通無碍]
◆龍馬が長崎から上京した
慶応3年9月、龍馬は長崎で買い込んだ大量の新式銃を芸州藩から借入れた蒸気船を使って土佐まで送る計画で長崎を出発した。
途中、下関に寄港、そこで長州藩士・伊藤俊輔と面談して薩摩・土佐のことなどを話した。そのことを長州の桂小五郎に報告した「龍馬の手紙」がある。
龍馬の手紙(桂小五郎宛て<幕末足軽物語/関連話>)
その後、龍馬は四国の西南端の足摺岬を回り高知の浦戸湾に船を停泊。
土佐藩は平和路線を取っているも、事態はどう転ぶか予測できない。
和にしろ戦にしろ武器は必要だった。
(<後藤象二郎=平和路線の>大政奉還は実現したが、結果的には龍馬が運んだ大量の新式銃は、<板垣退助=倒幕路線の>戊辰戦争で使われた。)
龍馬は土佐藩家老・渡辺弥久馬、大監察・本山只一郎と接触して好感触を得たから、直接交渉に踏み切り、五台山下の料亭で懇談。
渡辺弥久馬(融通無碍/南史観<人物評伝>)
本山只一郎(融通無碍/南史観<人物評伝>)
結果、藩の銃購入が決まった。
その後、龍馬は上京するが船の故障もあって須崎に舞い戻り別船に乗り換える等、予定を狂わせながらも大坂へ入港を果たす。
11月15日に京都で暗殺されるから、長崎から始まり大坂で終わるこの船旅(途中で高知を経由した)は、龍馬最後の船旅となる。
死の直前に福井に行くが、これは陸路だった。龍馬は死ぬために京都に入った。
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◆龍馬の動静(真吉日記より)
才谷楳太郎(=坂本龍馬)が長崎から長州、土佐を経て上京したが、その「龍馬の動静」を日記に書いていた。
龍馬は長崎で買い込んだ大量の新式銃を蒸気船・震天丸に載せ長州に寄港した後、四国の西南端の足摺岬を回り高知の浦戸湾に船を停泊。土佐藩への銃の売却だ。
土佐藩は武器は必要とし、銃の購入が決まった。
売却代金の他に謝礼も追加され、龍馬帰郷の祝いの席で、姉・乙女らに気前良く分け与えた。
龍馬は11月15日に京都で暗殺されるから、長崎から始まり高知経由、大坂で終わるこの船旅は、龍馬最後の船旅となる。
龍馬 最後の帰郷(NHK動画)
龍馬は大政奉還を見届けるため、
そして死ぬために、真吉の居る京都に入った。
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◆大政奉還
大政奉還(NHK大河ドラマ/徳川慶喜)
慶喜が長州に寛大な処分を決めたため、幕閣は武力討伐を主張するが、幕府軍の戦力を知る慶喜は強硬論を退ける。
そんな中、慶喜は幕閣から土佐の大政奉還建白の情報を聞き、坂本龍馬の「船中八策」を渡されて、側近の西周に徳川中心の新体制草案作りをいそがせる。
西周の「議題草案/徳川中心の憲法草案」が完成、慶喜はこれに沿って行動をおこすことにするが・・・。
西周(幕末足軽物語/関連話<人物評伝>)
土佐が独自に大政奉還の建白書を幕府に提出、一方薩摩は倒幕の勅命を画策する。
慶喜は倒幕派の機先を制して大政奉還を表明する。
最後の将軍・徳川慶喜は倒幕勢力の主張に最も胡散臭さを感じていた。
大政奉還 歴史を動かした龍馬たち(NHK動画)
大政奉還~竜馬暗殺まで(融通無碍/南史観<私観>)
大政奉還(YouTube)
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龍馬と永井尚志<大政奉還~伏見戦争>(幕末足軽物語/関連話)
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10月12日
神山氏が摂政・二条家に(建白書説明のため)出る。
一方、慶喜は大小目付や諸有司など幕府要人を集め、政権奉還の書付を提示した。
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10月13日
二条城大広間に10万石以上の諸藩重臣を集め、板倉勝静が大政奉還上表の諮問案を廻覧した。
その後、直々に意見するために土佐藩の後藤象二郎・福岡孝弟、薩摩藩の小松帯刀らが慶喜に拝謁したが、小松は慶喜に大政奉還の賛成を表明した。
◆大政奉還
《日記・倦遣録より》
<「幕末足軽物語/樋口真吉伝完結編」ではP297>
幕府は二条城に諸藩を集める。集まった諸大名、その数40余であった。
王政復古(=大政奉還)を布告する紙面が参加者に配られる。
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龍馬の手紙
いよいよ大政奉還の可否を決める日。龍馬は二条城へ登城する後藤に決死の覚悟で臨めと檄文を送った。しかし、よほど力が入ったのか「(後藤)先生」を「生生」と書き損じ、これを下書きとして手元に残した。このときの緊張と高まりが直に伝わる第一級資料である。(坂本龍馬記念館HPより)
龍馬の手紙<後藤象二郎宛て>(幕末足軽物語/関連話)
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10月13日
将軍・徳川慶喜は二条城で後藤を含む諸藩重臣に大政奉還を諮問。翌14日に明治天皇に上奏。15日に勅許が下された。
ここに、江戸幕府は理論的には日本政府の座を朝廷に明け渡したことになった。
大政奉還・上奏の直前(10月14日)に討幕の密勅が薩摩と長州に下された。
【討幕の密勅(訳文)】
源慶喜(徳川慶喜)は、歴代長年の幕府の権威を笠に着て、一族の兵力が強大なことをたよりにして、みだりに忠実で善良な人々を殺傷し、天皇の命令を無視してきた。そしてついには、先帝(孝明天皇)が下した詔勅を曲解して恐縮することもなく、人民を苦境に陥れて顧みることもない。この罪悪が極まれば、今にも日本は転覆してしまう(滅んでしまう)であろう。
朕(明治天皇)今、人民の父母となってこの賊臣を排斥しなければ、いかにして、上に向かっては先帝の霊に謝罪し、下に向かっては人民の深いうらみに報いることが出来るだろうか。これこそが、朕の憂い、憤る理由である。
本来であれば、先帝の喪に服して慎むべきところだが、この憂い、憤りが止むことはない。お前たち臣下は、朕の意図するところをよく理解して、賊臣である慶喜を殺害し、時勢を一転させる大きな手柄をあげ、人民の平穏を取り戻せ。これこそが朕の願いであるから、少しも迷い怠ることなくこの詔を実行せよ。
しかし、大政奉還の成立によって討幕の大義名分が失われ、21日に討幕の実行延期を命じられる。
最後の将軍・徳川慶喜は倒幕勢力の主張に最も胡散臭さを感じていた。
が、かれ自身の幕末の一連行動は似たようなもの。
最後の将軍・徳川慶喜
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10月14日
将軍・徳川慶喜が(摂政・二条家にか?)辞表を出す。
下横目・卯七郎が高知を8日に発ち、昨13日に着京した。
卯七郎が京都に来た理由は、近頃高知へ京師の情報が全く届かないのは(何か変事があって)途絶かと心配した上司が「お前、行って見て来い」と命じられたから。
真吉は高知の同志(島村祐四郎、桑原介馬、<中村の>諸君)に、京師の情報(大政奉還の諸事情<手紙>)を送る。
真吉が送った手紙<大政奉還!!>(融通無碍/南史観<私観>)
(土佐山内家宝物資料館蔵)
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10月15日
15代将軍・徳川慶喜による大政奉還が勅許された。
大政奉還(NHK大河ドラマ/徳川慶喜)
そして龍馬と慎太郎はその1カ月後、11月15日夜近江屋において同時に暗殺された。
徳川幕府を倒して新しい国家を築く目前に、京都近江屋で坂本龍馬と中岡慎太郎は会談中刺客に襲われ、その生涯を閉じた。
大政奉還から龍馬&慎太郎暗殺まで(融通無碍/南史観<私観>)
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10月16日
展望が見えた龍馬は、戸田雅楽(尾崎三良)と新政府職制案の『新官制擬定書』を策定した。
龍馬が西郷に見せた新政府職制案の名簿に西郷の名はあったが龍馬の名が欠けており、新政府に入ってはどうかと西郷が勧めると龍馬は
「わしは世界の海援隊をやります」と答えたという有名な逸話がある。(この逸話は大正3年に書かれた千頭清臣作の『坂本竜馬』が出典で、創作の可能性がある。ただし、龍馬本人は役人になるのは嫌とお龍に語ったという話がある(『千里駒後日譚』)
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10月17日
薩摩の小松、西郷、大久保(=薩摩の大立者3人)が帰国する。
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10月19日
望月清平が勅書を持って帰国する。下横目・俊太郎も同行する。
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[融通無碍]
◆届かなかった手紙
《日記・倦遣録より》
<「幕末足軽物語/樋口真吉伝完結編」ではP298>
望月清平が帰国した前日(18日)、清平はすぐ近くの町屋・近江屋に潜伏する龍馬からの手紙を受け取っていた。
その中身は大要で
「今、住む近江屋が危険なことは承知。だが薩摩の世話になるのもまずい。真吉に頼んで安全な隠れ家を探してくれ」というものであった。
届かなかった手紙(融通無碍/南史観<私観>)
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10月20日
福岡と神山の二氏が御所に招かれる
・・・・・・・・・
10月24日
慶喜は将軍辞職を奏請したが、朝廷は勅許を拒否したので。この段階でも、実質的には幕府は朝廷に代わって、政治を代行していた。
坂本龍馬が後藤象二郎の依頼で山内容堂の書状を持って越前福井藩へ出向き、松平春嶽の上京を促して由利公正(=三岡八郎)と会談した。
後藤象二郎(融通無碍/南史観<人物評伝>)
山内容堂(融通無碍/南史観<人物評伝>)
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[融通無碍]
龍馬が下横目・岡本健三郎に見張られながら越前福井藩へ向けて出発。
岡本の同行について記載した岡本宛の「龍馬の手紙」がある。
龍馬の手紙<岡本健三郎宛て>(幕末足軽物語/関連話)
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龍馬の福井訪問の目的は、
①大政奉還後の政治体制について松平春嶽の考えを聞くこと。
松平春嶽(融通無碍/南史観<人物評伝>)
②新政府の財政問題の解決方法を由利公正に聞くこと。
由利公正(融通無碍/南史観<人物評伝>)
新国家には松平春嶽の力が必須であるため、本来なら後藤象二郎が行くべきところ、後藤は大政奉還の顛末を山内容堂へ報告するため帰国しなければならず、代わりに後藤が龍馬を派遣した。
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◆龍馬、越前・福井に行く
龍馬は福井で由利公正に会い、新政府樹立後の経済運営と財政についてコタツに足を突っ込んで語り合う。
由利公正は藩によって逼塞された身の上だったから監視役がつき、龍馬にも同様の岡本健三郎がいる。
2人の相談事はコタツで足を暖めながらだったが、監視と見張りはその様子を遠巻きにして見るだけで「たまらん程ひやかった」という岡本健三郎の後日談がある。
由利公正も
「この出会いで龍馬から写真をもらった。その後川に落としてなくしたが、思えばそれは龍馬が暗殺された晩だった」と言い残した。
龍馬暗殺(融通無碍/南史観<私観>)
由利公正は謹慎中にもかかわらず坂本龍馬の来訪を受けて交流を深める。
龍馬とは新政府が取るべき経済政策について談義し、このことが明治新政府への参画を求められたことへ結びついたのだと後に語っている。
明治新政府(融通無碍/南史観<私観>)
この会談が、後に(明治7年)後藤象二郎、由利公正、岡本健三郎らによる「民撰議院設立建白書」に繋がって行く。
民撰議院設立建白書(融通無碍/南史観<私観>)
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11月
船中八策をもとにしたとされる『新政府綱領八策』を起草し、新政府の中心人物の名は故意に「○○○自ら盟主と為り」と空欄にしておいた。龍馬が誰を意図していたのかはさまざまな説がある。
・・・・・・・・・
11月5日
福井から帰京した。
直後に、由利公正の新政府入りを推薦する後藤象二郎宛ての手紙「越行の記」を記し、さらに10日(龍馬暗殺の5日前)には福井藩士・中根雪江宛てに、由利公正を出仕させるよう懇願する手紙を記している。
龍馬の手紙(慶応3年11月初旬)
越行の記(土佐藩参政・後藤象二郎に、越前福井藩を訪れた内容を報告した書簡。)
龍馬の手紙(後藤象二郎 宛て②<幕末足軽物語/関連話>)
龍馬の手紙(中根雪江宛て)<新国家>・・・解説は尾崎前高知県知事
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暗殺直前の龍馬の手紙
◆暗殺5日前の手紙
龍馬の手紙(中根雪江宛て)<新国家>
◆届かなかった手紙
龍馬暗殺の直前、龍馬は安全な宿の確保を真吉に頼んだ手紙がある。
しかし、その龍馬の手紙は真吉に届かなかった・・・。
届かなかった龍馬の手紙(融通無碍/南史観<私観>)
樋口真吉伝
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11月15日
龍馬・慎太郎が暗殺された。
龍馬と慎太郎が同じ日、同じ場所で刺客に攻撃され龍馬は即死、慎太郎は3日後死んだ。
龍馬暗殺(融通無碍/南史観<私観>)
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[融通無碍]
真吉はその死に様をだれかから聞いて、こう日記に書き残した。
龍馬暗殺/京都・近江屋(NHK動画)
近江屋
日記・日新録<龍馬暗殺の日!>(融通無碍/南史観<私観>)
龍馬と慎太郎が暗殺された夜、真吉は京都の土佐藩邸にいた。
当日の日記が残っている。「日新録」がそれである。それには、通説と違う記述もある。
龍馬は宿にしていた河原町の蛸薬師で醤油商を営む近江屋新助宅母屋の二階にいた。
当日は陸援隊の中岡慎太郎や土佐藩士の岡本健三郎、画家の淡海槐堂などの訪問を受けている。
午後8時頃 、龍馬と中岡が話していたところ、十津川郷士と名乗る男たち数人が来訪し面会を求めてきた。従僕の藤吉が取り次いだところで、来訪者はそのまま二階に上がって藤吉を斬り、龍馬たちのいる部屋に押し入った。龍馬達は帯刀しておらず、龍馬はまず額を深く斬られ、その他数か所を斬られて、ほとんど即死に近い形で殺害された]。享年33(満31歳没)。龍馬の誕生日と命日が同じ日になってしまった。
龍馬暗殺は新選組の関与が強く疑われた。
慶応4年(1868年)4月に、戊辰戦争の最中、下総国流山で出頭して捕縛された新選組局長の近藤勇は、土佐藩の主力部隊の小監察であった谷干城の強い主張によって斬首に処された。ただし、谷自身は近藤が「有志の徒」を殺害したとは言及しているが、龍馬の名は全く出しておらず、斬首の理由としても言及していない。また、新選組に所属していた大石鍬次郎は龍馬殺害の疑いで捕縛され拷問の末に自らが龍馬を殺害したと自白するも、のちに撤回している。
12月6日海援隊士たちは紀州藩による、いろは丸事件の報復を疑い、陸奥陽之助らが紀州藩御用人の三浦休太郎を襲撃して、三浦の護衛にあたっていた新選組と斬り合いになっている。(天満屋事件)
明治3年、箱館戦争で降伏して捕虜になった元見廻組の今井信郎が、取り調べ最中に、与頭・佐々木只三郎とその部下6人(今井信郎、渡辺吉太郎、高橋安次郎、桂早之助、土肥伴蔵、桜井大三郎)が坂本龍馬を殺害したと供述し、現在では見廻組犯人説が定説になっている。
その一方で、薩摩藩黒幕説やフリーメイソン説まで様々な異説が生まれ現在まで取り沙汰されている。
墓所は京都市東山区の京都霊山護国神社の霊山墓地中腹。墓碑は桂小五郎が揮毫した。
龍馬暗殺(融通無碍/南史観<私観>)
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龍馬と小五郎の「慶応3年の大芝居」第3幕が龍馬暗殺で幕が降り、引き続き第4幕<師走のこと>へ。
大政奉還から龍馬暗殺まで (融通無碍/南史観<私観>)
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[龍馬&小五郎/小話]
①西郷隆盛と、坂本竜馬と、桂小五郎、もし結婚するとしたら誰でしょう?と若い独身女性に聞くと「断然、桂小五郎!」だそうだ。西郷だと、家庭よりも仕事を優先しすぎのきらいがある。竜馬だと他の女性にモテすぎて心配になる。それに比べて桂小五郎はずっと一途に奥さんを大切にしてくれそうだからとか。
②安政の頃、坂本龍馬と桂小五郎が江戸の土佐藩邸で行われた剣術大会で対決した記録がある。勝敗結果は2対3で龍馬が敗北。司馬遼太郎の「竜馬がゆく」の場面と同様、接戦の後に小五郎が勝利したようだ。
龍馬の手紙<桂小五郎なるものあり>(幕末足軽物語/関連話)
岩倉使節団右から大久保利通、伊藤博文、岩倉具視、山口尚芳、木戸孝允(=桂小五郎)
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大芝居/第4幕<慶応3年師走のこと>
12月
《日記・倦遣録より》
幕末足軽物語 樋口真吉伝完結編
<「幕末足軽物語樋口真吉伝完結編」ではP302>
・・・・・・・・・・・・
慶応3年12月7日
この夜、紀州の大奸・三浦休太郎を討つも死ななかった。
龍馬暗殺後、陸奧宗光は紀州藩士・三浦休太郎を暗殺の黒幕と主張し、海援隊の同志15人と共に三浦の滞在する天満屋を襲撃する事件(天満屋事件)を起こしている。
龍馬暗殺(融通無碍/南史観<私観>)
陸奧宗光(幕末足軽物語/関連話<人物評伝>)
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[融通無碍]
◆竜馬暗殺復仇隊
いろは丸の怨念から龍馬の暗殺犯とされた紀州藩幹部・三浦休太郎を討つため海援隊士を主体とする復仇隊が作られ、京の料亭/天満屋で新撰組の面々と酒を飲んでいた三浦を襲撃(天満屋事件)するも、討ち漏らした、と真吉は日記に書き残している。
龍馬暗殺復仇隊(融通無碍/南史観<私観>)
新撰組(融通無碍/南史観<私観>)
~~~~~~~~~
さらに、倦遣録と同じ時期を扱った記録(愚庵筆記、壬戊日記)がある。
龍馬が暗殺された<慶応3年11月15日>ころの記録(日新録)も現存する。
日記・日新録<龍馬暗殺の日>(融通無碍/南史観<私観>)
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慶応3年12月9日、
薩摩を中心とする倒幕派の画策によって、王政復古の大号令が出され、一部の公家と5藩(薩摩・土佐・安芸・尾張・越前)に長州藩を加えた有力者が主導する新政府が樹立された。
王政復古の大号令(融通無碍/第40話)
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[真吉日記]
12月9日~大晦日
9日 老公(山内容堂)が参内する。(御所での三職会議<明治天皇臨席>に出席)
10日 老公(山内容堂)が河原町土佐藩邸から大仏邸に。
12日 会津、桑名、大垣が大坂に下る。《兵庫行きを命じられる。》
13日 将軍・徳川慶喜が大坂に下る。加賀が上京する。
14日 《出京して伏見まで南下する。》
15日 徳川の歩兵が土手を歩いて大坂に向かっているのを見る。《船を雇い淀川を下る。大坂について河藤に宿す。》
16日 紀州勢は天王寺に宿陣している。《大坂に留まる。》
17日 《陸行して西宮に宿す。》
18日 《兵庫の三本屋に宿す。》
19日 《豪商・北風庄右衛門を訪問する。》
20日 《小舟に乗って外国船を見る。停泊する外国船は米、英、仏で20ばかり。》
22日 《浪花に戻る。》
23日 《伏見。》
24日 《帰京。》
27日 政変で追放されていた五卿が京都に戻った。
28日 高札を改正する。《三条殿に謁し一書を呈上する。大原郷に拝謁する。》
大晦日 《宿毛の齋原治一郎<後の大江卓>が高野山から上京する。》
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慶応3年12月23日
海援隊士の陸奥宗光が大坂のイギリス公使館にアーネスト・サトウを訪ね、新政府の承認問題について意見交換をする。
陸奥宗光(幕末足軽物語/関連話<人物評伝>)
アーネスト・サトウ
陸奥は皇族の一人が大坂城内で外国公使と会見し、王政復古の布告を宣言することを提案、サトウの賛成を得ると、これに基づく意見書を議定・岩倉具視に提出した。
岩倉具視
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慶応3年12月25日
江戸で薩摩藩邸焼討ち事件が起こる。
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[融通無碍]
薩摩の西郷の謀略で「江戸薩摩藩邸焼き討ち事件」が起こる。
江戸薩摩藩邸焼き討ち事件(幕末足軽物語/関連話)
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薩土密約に基づき薩摩の西郷隆盛が谷干城に「京都で合戦が始まる」ことを告げる。この情報を高知本藩に伝えるため急遽、谷干城が早馬で土佐に向かうことに。
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[融通無碍]
西郷は土佐藩兵の上洛を促し、これに呼応して板垣退助が迅衝隊を率いて上洛、そのまま関東・東北へ兵を進めた。戊辰戦争だ。
迅衝隊(融通無碍/南史観<私観>)
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◆鳥羽・伏見の戦い
大政奉還で一大名になったつもりの徳川慶喜(旧幕府)、あくまでも倒幕を目論む薩摩・長州藩、その間で狼狽する朝廷、それぞれの思惑が絡んで鳥羽伏見で薩長軍と旧幕府軍(会津・桑名藩など)が戦闘状態になった。<鳥羽・伏見の戦い>
土佐藩(山内容堂)は「この戦闘は、薩摩・長州と会津・桑名の私闘である」と日和見を決め込んでいたが、『薩土密約』から京都の土佐藩兵(真吉も)が、伏見方面の戦闘に参加してしまう。
戊辰戦争が鳥羽伏見の戦いから始まり、幕府軍の愚行を見て容堂は佐幕から倒幕に変心した。
愛用の玻璃酒杯を片手にあぐらをかく鯨海酔侯山内容堂公/高知市鏡川畔山内神社
山内容堂(融通無碍/南史観<人物評伝>)
「徳川家への旧恩に報いる」ことに専心した男が、全く正反対の向こう岸に飛び移った、大嫌いな船も使わず。取り巻きたちは仰天する。
容堂は言い放つ。
『やると決めた以上、即刻やる。やれ!』
側近は戦費問題を持ち出して説得する。
戦費調達(融通無碍/南史観<私観>)
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◆丁卯上京誌
慶応3年の「真吉日記」である。
このとき真吉は、土佐藩京都藩邸で容堂の側近として仕えており、四侯会議・薩土密約・薩土盟約・大政奉還・龍馬暗殺などの生情報を記録している。
丁卯上京誌(融通無碍/南史観<私観>)
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慶応3年の暮れの世情
この頃京都市中に神仏の名号(御札おふだ)が降る。その騒ぎが喧やかましい程だ。(群集は)日夜踊り狂って止まない。
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[融通無碍]
◆御札が降る
全国的に起った珍現象である。
「えじゃないか えじゃないか」と歌いながら踊り狂う民衆が町にあふれた。
土佐でもそれ以前から「のえくり」と呼ばれる民衆の踊り(あるいは行列)が鏡川河畔の潮江の川原で続いた。
前の人の着物を握り蛇のような列をなしてジグザク行進する。あまりの喧騒に手を焼いて藩庁はこれを禁止した。
転換期には諸外国でもこんな現象が起きるらしいから、人間の本性に基ずくものかもしれぬ。
えじゃないか(融通無碍/南史観<私観>)
慶応3年が、終わった。
「慶応3年の大芝居」の幕が降りた。
慶応4年は、戦乱(伏見戦争)が待ち構えている。
これは芝居ではなく、日本人同士の戦い<活劇>『戊辰戦争』だ。
「慶応4年の大活劇」の幕が揚がった。
慶応4年の大活劇<伏見から戊辰戦争へ>(融通無碍/南史観<私観>)
真吉と戊辰戦争(融通無碍/南史観<私観>)
慶応4年/戊辰の年、秋には改元され明治となる。真吉、54歳
《鳥羽伏見の戦い・戊辰戦争/1月、堺事件、新政府有栖川宮熾仁親王を征東大総督に/2月、甲州勝沼の戦い/3月、江戸城無血開城/4月、新政府軍会津若松城を攻撃/8月、会津戦争に勝利し東京・高知に凱旋/11月》
明治元年(融通無碍/南史観<私観>)
明治の新政府(融通無碍/南史観<私観>)
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ブログ
土佐の森・文芸/幕末足軽物語(南寿吉著)
編集・発行
土佐の森グループ/ブログ事務局
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南寿吉先生の遺作(高知新聞/2021.7.2)
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幕末足軽物語/関連話<大芝居の立役者たち>
この大芝居のプロデューサー、脚本家、は誰なのでしょうか?
この大芝居を演出した、また出演した「新しい時代を切り開いた立役者たち」のコメント集です。(皆、役者じゃのうし!?)
幕末足軽物語/関連話<大芝居の役者たち>
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2024.03.05.12.00
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土佐の森・文芸 (融通無碍<38>薩長同盟)
http://mori100s.exblog.jp/241919971/
2024-02-05T12:00:00+09:00
2024-03-07T16:37:29+09:00
2023-09-06T12:59:50+09:00
mori100s
幕末足軽物語
土佐の森・文芸
融通無碍(南寿吉著)
[関連話]
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<令和6年2月5日発信>
【第38話】
薩長同盟
薩長同盟(龍馬伝/NHK)
その時歴史が動いた 坂本龍馬 幕末の日本を動かす~薩長同盟成立の時~
《幕末の風雲児、坂本龍馬。土佐藩を脱藩した一介の浪人でありながら、当時犬猿の仲だった薩摩と長州という二つの藩の間を奔走し、奇跡ともいえる「薩長同盟」を成立させました。この同盟で、時代は一気に倒幕・維新へと傾いたのです。それまで龍馬は努力と挫折を繰り返しました。当時の日記など、関係者の目撃談を徹底検証し、薩長同盟が結ばれた瞬間と、その時、龍馬が果たした役割を描きます。》
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坂本龍馬が「薩長同盟」の腹案を打ち出したのは、慶応元年<元治2年>3月に遡る。
長州藩では、攘夷倒幕のための薩長連合を実現する動きがあり、龍馬が懇意にしていた長府藩士・印藤聿から相談を持ちかけられた。
印藤聿(融通無碍/南史観<人物評伝>)
それに対する龍馬の思いを伝えた印藤聿宛ての「龍馬の手紙」がある。
龍馬の手紙(印藤聿宛て)
「薩長同盟」までのこと(幕末足軽物語/関連話)
薩長同盟(NHK)
[歴史探偵] 坂本龍馬が薩長同盟に果たした真の役割とは?|
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幕末足軽物語 樋口真吉伝完結編
<「幕末足軽物語樋口真吉伝完結編」ではP274>
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慶応2年1月21日
京都の薩摩・小松邸で坂本龍馬や中岡慎太郎を介して、薩摩藩(西郷隆盛、小松帯刀、大久保利通、吉井友実ら)と長州藩(木戸孝允、品川弥次郎、三好軍太郎ら)の「薩長同盟」が成立した。
中岡慎太郎(幕末足軽物語/関連話<人物評伝>)<片岡正法>
吉井友実(融通無碍/南史観<人物評伝>)
長州側から出された「両藩の合意事項の覚え書」に龍馬が朱筆をもって裏書きする。
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慶応2年1月22日
薩摩側からの6か条の条文が提示された。その場で検討が行われ、木戸孝允(=桂小五郎)はこれを了承した。
これにより薩長両藩は後世「薩長同盟」と呼ばれることになる盟約を結んだ。龍馬はこの締結の場に列席している。
盟約成立後、木戸孝允は自分の記憶に誤りがないかと、龍馬に条文の確認を行い、間違いないという「龍馬の手紙(返書)」を受け取っている。
坂本龍馬自筆「薩長同盟裏書」/宮内庁書陵部図書課図書寮文庫蔵。
龍馬の手紙<木戸孝允宛て①>(幕末足軽物語/関連話)
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慶応2年1月23日
龍馬は護衛役の長府藩士・三吉慎蔵と投宿していた伏見の寺田屋へ戻り祝杯を挙げた。
三吉慎蔵(融通無碍/南史観<人物評伝>)
だがこのとき、伏見奉行が龍馬捕縛の準備を進めていた。
明け方2時頃、一階で入浴していた龍馬の恋人のお龍が窓外の異常を察知して袷一枚のまま二階に駆け上がり、2人に知らせた。
すぐに多数の捕り手が屋内に押し入り、龍馬は高杉晋作から贈られた拳銃を、三吉は長槍をもって応戦するが、多勢に無勢で龍馬は両手指を斬られ、両人は屋外に脱出した。
負傷した龍馬は材木場に潜み、三吉は旅人を装って伏見薩摩藩邸に逃げ込み救援を求めた。これにより龍馬は薩摩藩に救出された。
寺田屋遭難(融通無碍/南史観<私観>)
寺田屋事件(NHK)
その後、龍馬はお龍とともに鹿児島に渡る。
勝海舟の神戸の海軍塾(=神戸海軍操練所)が閉鎖された際にも、塾生らの身柄は薩摩に引き取られている。龍馬は長州びいきだが薩摩との縁が深い。
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◆神戸海軍操練所
神戸海軍操練所跡
神戸海軍操練所は、慶応元年(1865年)3月9日に閉鎖された。
龍馬は勝海舟の紹介で、薩摩藩の西郷吉之助(=隆盛)に会う。西郷は、操船技術を持つ龍馬たちを薩摩に引き取ろうと話す。龍馬は、長州を討った薩摩に従う気にはなれない。操練所を離れ、行き場のない龍馬たち。龍馬は薩摩の世話になるか悩む。
西郷吉之助(NHK)神戸海軍操練所(幕末足軽物語/関連話)
神戸海軍操練所の遺構を発見(高知新聞)
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[幕末足軽物語/関連話]
◆寺田屋遭難に関連する「龍馬の手紙」
龍馬は、兄の坂本権平、長州の木戸孝允に寺田屋遭難の詳細を知らせている。
龍馬の手紙<坂本権平宛て①>
龍馬の手紙<木戸孝允宛て②>
木戸孝允は、折り返し龍馬に返書を出している。
「薩長同盟裏書」を受け取ったという礼状であるとともに、伏見寺田屋で襲われたことの「龍馬の手紙」を受け取っての見舞状である。
『大兄(龍馬)が伏見で襲われたことには驚いたが、何とか逃れたということで安堵した。大兄は公明で寛大なのは良いが、あまりに無用心なので心配だ。世の中が良くなるまではくれぐれもご用心下さい。』と忠告している。
なお、龍馬に宛てたこの「木戸孝允の手紙」は、土佐にいる龍馬の兄(坂本権平)への手紙に添えて(同封して)送っている。
龍馬が天下の人物とした桂小五郎との交友を実家の家族に自慢するために送ったらしい。龍馬の(天然ボケ的な)お茶目な行動心理が垣間見られる。
~~~~~~~~~~
さらに、龍馬は幕府若年寄・永井尚志にも寺田屋遭難の顛末を手紙を書いて報告している。
慶応2年1月、薩長同盟が締結された直後、龍馬は伏見の寺田屋で幕府の伏見奉行の取り方に襲われた。
寺田屋遭難(YouTube)
寺田屋遭難後、こともあろうに幕府の要人・永井尚志(京都守護職・松平容保<京都見廻組、新撰組を支配下>を監督する立場にあった。)に、寺田騒動のことやら幕府の内乱のことなどを、皮肉・揶揄混じりでつらつらと書き綴って差し出している。龍馬の(天然ボケ的な)複雑な行動心理が垣間見られる。
龍馬の手紙<永井尚志 宛て>
このことが伏線となり、後の龍馬暗殺の黒幕は永井尚志という説もある。
・・・・・・・・・・
慶応2年2月29日
寺田屋遭難での龍馬の傷は深く、西郷の勧めにより、刀傷の治療のために薩摩の霧島温泉で療養することを決めた。
龍馬は、薩摩藩船・三邦丸に便乗してお龍を伴い京都を出立した。その後、薩摩には、83日間逗留した。
2人は温泉療養のかたわら霧島山、日当山温泉、塩浸温泉、鹿児島などを巡った。
温泉で休養をとるとともに左手の傷を治療したこの旅は龍馬とお龍との蜜月旅行となり、これが日本最初の新婚旅行とされている。
「薩長同盟・坂本龍馬新婚旅行」解説映像(鹿児島市)
龍馬の「新婚旅行の手紙」(京都国立博物館所蔵<国重要文化財指定>)
お龍のことや鹿児島への旅の様子を絵入りで姉・乙女に知らせた手紙である。霧島山登山について絵入りで述べている。
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かくして薩長同盟後、龍馬は薩摩藩の後押しで、長崎に亀山社中を立ち上げた。
亀山社中(幕末足軽物語/関連話)
・・・・・・・・・・・
慶応3年1月13日
航海と通商の専門技術があり、薩長とも関係の深い亀山社中の坂本龍馬に注目した土佐藩は、長崎で溝淵広之丞を介して龍馬と接触を取り、龍馬と土佐藩大監察/参政・後藤象二郎の会談が実現した。(長崎清風亭会談)
後藤象二郎(融通無碍/南史観<人物評伝>)
長崎清風亭会談
この結果、亀山社中を土佐藩直属の外郭団体的な組織にすることが決まり、これを機として4月上旬に亀山社中は「海援隊」と改称した。
海援隊(幕末足軽物語/関連話)
海援隊(左から長岡謙吉、溝渕広之丞、坂本龍馬、山本洪堂、千屋寅之助、白峰駿馬)
長岡謙吉(融通無碍/南史観<人物評伝>)
長岡謙吉
溝淵広之丞(融通無碍/南史観<人物評伝>)
溝渕広之丞
坂本龍馬(融通無碍/南史観<人物評伝>)
坂本龍馬
山本洪堂
千屋寅之助(融通無碍/南史観<人物評伝>)
千屋寅之助(菅野覚兵衛)
白峰駿馬(融通無碍/南史観<人物評伝>)
白峰駿馬
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慶応3年2月15日
西郷隆盛(=吉之助)が蒸気船に乗って高知に来た。
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◆薩摩の西郷が高知へ
薩摩の実力者・西郷が海路高知に入る。
隠居・山内容堂に時局打開のための四侯会議への参加を懸命に口説く。
愛用の玻璃酒杯を片手にあぐらをかく鯨海酔侯山内容堂公/高知市鏡川畔山内神社
山内容堂(融通無碍/南史観<人物評伝>)
四侯会議(融通無碍/南史観<私観>)
・・・・・・・・・・
慶応3年4月
海援隊と名を改め、坂本龍馬が隊長となり土佐藩公認の外郭機関(海運/有事には海軍として活動)になった。
以後、海援隊が商売することになり、商才に長けた陸奥宗光が主導して行なった。
陸奧宗光(融通無碍/南史観<人物評伝>)
龍馬が「海援隊が商売する話」を記述した、陸奥宗光宛ての「龍馬の手紙」が残されている。
龍馬の手紙(陸奥宗光宛て 宛て))
・・・・・・・・・・
慶応3年9月20日
龍馬は、桂小五郎に
「先日いただいた手紙の中の大芝居(薩長同盟のあと、四侯会議に始まる一連の幕末劇か?)の件は、かねてより知っていたことだけど、実におもしろい。」と手紙を出している。
龍馬の手紙<桂小五郎(=木戸孝允)宛て③>
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一連の幕末劇<大芝居>(幕末物語)
慶応3年の大芝居(融通無碍/第39話)
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土佐の森・文芸/幕末足軽物語(南寿吉著)
編集・発行
土佐の森グループ/ブログ事務局
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南寿吉先生の遺作(高知新聞/2021.7.2)
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幕末足軽物語/関連話<「薩長同盟」までのこと>
http://mori100s.exblog.jp/241977131/
2024-02-01T23:59:00+09:00
2024-02-23T06:06:11+09:00
2023-11-17T16:39:04+09:00
mori100s
未分類
土佐の森・文芸
幕末足軽物語(南寿吉著)
[関連話]
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薩長同盟
幕末足軽物語 樋口真吉伝完結編
<「幕末足軽物語樋口真吉伝完結編」ではP274>
○慶応2年1月21日
京都の薩摩・小松邸で坂本龍馬や中岡慎太郎を介して、薩摩藩(西郷、小松、大久保、吉井ら)と長州藩(木戸、品川、三好ら)の「薩長同盟」が成立した。
中岡慎太郎(融通無碍/慎太郎伝<片岡正法>)
薩長同盟(融通無碍/第38話)
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◆「薩長同盟」までのこと
坂本龍馬が「薩長同盟」の腹案を打ち出したのは、慶応元年<元治2年>3月に遡る。
勝海舟の神戸海軍操練所が閉鎖された。
神戸海軍操練所跡
坂本龍馬をはじめとする神戸海軍操練所の研修生は勝海舟の口利きで薩摩へ向かうことに。
神戸海軍操練所(幕末足軽物語/関連話)
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慶応元年<元治2年>3月12日
坂本龍馬、近藤長次郎、池内蔵太、千屋寅之助、高松太郎らは薩摩へ。
近藤長次郎(融通無碍/南史観<人物評伝>)
池内蔵太(融通無碍/南史観<人物評伝>)
千屋寅之助(融通無碍/南史観<人物評伝>)
高松太郎(融通無碍/南史観<人物評伝>)
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龍馬ら塾生の庇護を引き受けた薩摩藩は、彼らの航海術の専門知識を重視していた。
その後、長崎で龍馬らが「亀山社中」を立上げることになるが、薩摩藩は莫大な金額を出資、亀山社中のオーナー的立ち位置となった。
亀山社中(幕末足軽物語/関連話)
亀山社中は商業活動に従事する近代的な株式会社に類似した性格を持つ組織であり、当時商人が参集していた長崎の豪商・小曽根英四郎家を根拠地として、下関の豪商・伊藤助太夫家、そして京都の酢屋に事務所を設置した。
小曽根英四郎(幕末足軽物語/関連話<人物評伝>)
伊藤助太夫(幕末足軽物語/関連話<人物評伝>)
亀山社中の成立は商業活動の儲けによって利潤を上げることのほかに、龍馬の思惑で、当時水火のごとき関係にあった「薩長両藩和解」の目的も含まれていたのだ。薩長同盟成立に貢献することになる。
亀山社中(NHK動画)
・・・・・・・・・・
慶応元年5月
長州藩では幕府勢力から一連の打撃(長州征伐)を受けて、長州藩を京都政治から駆逐した中心勢力である薩摩・会津両藩に対する根強い反感が生じていた。
長州征伐(融通無碍/南史観<私観>)
一部の長州藩士はともには天を戴かずと心中に誓い、たとえば「薩奸會賊<さっかんかいぞく>」(薩摩の薩と會津(会津の旧漢字)の會)の四文字を下駄底に書き踏みつけて鬱憤を晴らす者がいたほどだった。
このような雰囲気の中でも、坂本龍馬、中岡慎太郎、土方久元らは、薩摩、長州の結盟を促し、これをもって国家の安寧を望んでいた。
土方久元(融通無碍/南史観<人物評伝>)
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長府藩士・印藤聿に宛てた「龍馬の手紙」がある。
龍馬の手紙(印藤聿宛て)
ーーーーーーー
『今夜も伊藤助太夫<下関の豪商>と飲んでいます。
昨夜から貴方からご相談された件で考えていました。
何にしても急ぎすぎてはかえって双方の心が通じないことと思います。何と言ってもお互いに国家のことを憂いていることは同じてあり、双方の考えを理解しあうことが大事です。そうでなければ、双方あれやこれやの議論になり、かえって障害が発生することになります。笑いなどを絡めて和やかな会談にしなければとても大成させることは難しいと思う。
何にしてもよく考えないといけないですね。』
伊藤助太夫(幕末足軽物語/関連話<人物評伝>)
~~~~~~~~~~
龍馬は大村藩志士の渡辺昇と会談し、薩長同盟の必要性を力説する。
渡辺は元練兵館塾頭で桂小五郎らと昵懇であったため、長州藩と坂本龍馬を周旋。長崎で龍馬と桂を引き合わせた。
渡辺昇に宛てた「龍馬の手紙」がある。
龍馬の手紙(渡辺昇宛て)
~~~~~~~~~~
薩長和解の周旋に、龍馬は長州に入る。
長州入りの前に太宰府に立ち寄り、薩摩藩士・渋谷彦助を通じて都落ちしていた三条実美ら五卿に謁見して、長州入りの添え状をもらっている。
三条実美(融通無碍/南史観<人物評伝>)
五卿の衛視をしていた渋谷彦助に宛てた「龍馬の手紙」がある。
龍馬の手紙(渋谷彦助宛て/5月5日付け)
《5月6日に桂小五郎と面会することを記している。》
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土方久元と龍馬が桂を説諭し、下関で薩摩の西郷隆盛と会談することを承服させる。
同時に中岡慎太郎は薩摩に赴き、西郷に会談を応じるよう説いて、西郷が下関に来ることになった。
・・・・・・・・・・
慶応元年5月21日
西郷隆盛が長州に来る約束のもと、坂本龍馬と桂小五郎は下関で西郷の到来を待った。
が、西郷が乗っているはずの船が下関へ到着したが、船には茫然とした中岡慎太郎が乗って現れただけであった。
西郷は下関へ向かっていたが、途中で朝議が幕府の主張する長州再征(第二次長州征伐/下関戦争)に傾くことを阻止するために下関に寄らず急ぎ京都へ向かってしまったのだ。
桂は激怒して、和談の進展は不可能になったかに見えたが、龍馬と中岡は薩長和解を諦めることはなかった。
第二次長州征伐(融通無碍/南史観<私観>)
下関戦争(融通無碍/南史観<私観>)
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元治元年(1864)の第一次長州征伐が決まったころ、幕府は国外勢力に対して長州との武器弾薬類の取り引きを全面的に禁止しており、長州藩は近代的兵器の導入が難しくなっていた。
第一次長州征伐(融通無碍/南史観<私観>)
一方、薩摩藩は兵糧米の調達に苦慮していた。
ここで龍馬は薩摩藩名義で武器を調達して密かに長州に転売し、その代わりに長州から薩摩へ不足していた米を回送する策を提案した。
取り引きの実行と貨物の搬送は亀山社中が担当することにした。
この策略によって両藩の焦眉の急が解決することになるため、両藩とも自然に首肯した。
亀山社中の初仕事でもあった。
・・・・・・・・・
慶応元年8月
亀山社中は長崎のグラバー商会からミニエー銃4,300挺、ゲベール銃3,000挺の薩摩藩名義での長州藩への買いつけ斡旋に成功した。これは同時に薩長和解の最初の契機となった。
また、近藤長次郎(この当時は上杉宗次郎と改名)の働きにより、薩摩藩名義でイギリス製蒸気軍艦ユニオン号(薩摩名「桜島丸」、長州名「乙丑丸」)の購入に成功した。
長州藩が資金50,000両を出し、グラバー商会から薩摩藩の名義で購入、それを亀山社中が操船・運行するという「桜島丸協定」(桜島条約とも)が結ばれた。所有権を巡って紆余曲折はあったが、ユニオン号は亀山社中に委ねられることになった。
近藤長次郎(融通無碍/南史観<人物評伝>)
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[融通無碍]
ユニオン号のこと(融通無碍/第33話)
・・・・・・・・・・・・
慶応2年1月22日
薩摩側からの6か条の条文が提示された。その場で検討が行われ、桂はこれを了承した。
これにより薩長両藩は後世「薩長同盟」と呼ばれることになる盟約を結んだ。龍馬はこの締結の場に列席している。
盟約成立後、木戸は自分の記憶に誤りがないかと、龍馬に条文の確認を行い、間違いないという返書を受け取っている。
坂本龍馬自筆「薩長同盟裏書」/宮内庁書陵部図書課図書寮文庫蔵。
龍馬の手紙<木戸孝允宛て①>(幕末足軽物語/関連話)
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土佐の森・文芸/幕末足軽物語(南寿吉著)
編集・発行
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南寿吉先生の遺作(高知新聞/2021.7.2)
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土佐の森・文芸 (印藤聿)
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土佐の森・文芸
融通無碍(南寿吉著)
[関連話]
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印藤聿(=豊永長吉)
天保2年(1831年)2月18日、長府藩士・下村又三郎高輔の三男として生まれる。
安政4年、九州を遍歴して地理や人情を視察して帰藩、万延元年(29歳)には藩主・毛利元周の側近として国事周旋に尽力した。
長府藩内では坂本龍馬と最も早く知り合った人物で、龍馬と長府藩(長州)のパイプ役を果たす。龍馬の身辺警護に三吉慎蔵を紹介した。
「薩長同盟」後の寺田屋騒動では、龍馬は三吉慎蔵に命を助けられた。
三吉慎蔵(融通無碍/南史観<人物評伝>)
寺田屋遭難(融通無碍/南史観<私観>)
寺田屋遭難(YouTube)
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真木菊四郎らとともに長府藩内の改革・革新派として活躍、長州藩の藩論統一に尽力した。
慶応元年3月、長州藩が藩の正規軍として報国隊を結成すると泉十郎(長府藩士)らと共に参画、軍監を兼任した。
下関戦争(第二次長州征伐)では砲隊司令士兼警衛肝煎役として幕府軍と戦った。
下関戦争(融通無碍/南史観<私観>)
第二次長州征伐(融通無碍/南史観<私観>)
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[関連話]<人物評伝>
◆真木菊四郎
真木菊四郎が歴史の舞台に登場するのは、文久2年2月、弱冠20歳の時だ。久留米から薩摩経由で京都に上り、薩摩藩の尊攘・過激派とともに倒幕運動に傾注するが、寺田屋事件で頓挫し、久留米藩に送還されてしまう。
寺田屋事件(融通無碍/南史観<私観>)
文久3年、菊四郎は長州を経由して再び上京する。長州藩を中心とする尊攘激派と交わり京都の政局をリードする存在となった。
文久3年、8月18日の政変により、長州藩は尊攘派七公卿とともに京都を追われてしまう。世に言う「七卿落ち」である。菊四郎も七卿を警護して長州に移った。
8月18日の政変(融通無碍/南史観<私観>)
元治元年7月、長州藩は「禁門の変」を起こす。菊四郎は浪士隊として従軍、しかし、薩摩、会津らの連合軍に敗れて敗走、長州・下関に落ち延びる。
禁門の変(融通無碍/南史観<私観>)
長州に下った菊四郎は、攘夷倒幕のための薩長連合を実現するために奔走していたが、元治2年(=慶応元年)2月14日、下関で暗殺される。享年23歳、志士としての活動は僅か3年間であった。
菊四郎は誰に殺されたのだろうか。長州人があやめたとは考えにくい。
暗殺の下手人は土佐脱藩浪士の池内蔵太という説もある。内蔵太は坂本龍馬の幼なじみで、行動をともにする朋友。
池内蔵太(融通無碍/南史観<人物評伝>)
池は「禁門の変」に長州方(長州人)として参加、幕府軍(薩摩藩・会津藩など)と戦い敗北。そこで自分達(長州人)を苦しめた薩摩を憎悪する思いが強く、薩長連合を進めようとする菊四郎が許せなかったらしい。
歴史に「もしも」は禁句であるが、菊四郎が暗殺を免れていたら、そのわずか1年後の「薩長同盟」の成立を受けて、勤皇の志士としての彼の評価は高まったと思われる。龍馬に先駆けて「薩長連合」に貢献した人物として歴史に大きく名前を残していたかもしれない。
薩長同盟(融通無碍/第38話)
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[融通無碍]<人物評伝>
◆泉十郎
長府藩士。長府藩報国隊の都督となり、三条実美ら五卿の長府潜居に際して接待役として活躍する。慶応元年10月、藩内政争の犠牲となり27歳を以て自刃する。
三条実美(融通無碍/南史観<人物評伝>)
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[HP/日本の歴史ガイドより]
◆龍馬の手紙(印藤聿宛て)
【原文】
二白、今夜も助太夫とのみ呑ており申候。昨夜道路中うかゞい候事件色々相考候所、何レ急成ハかへりて両方の志通じかね候ヘバ、何を申ても共に国家をうれへ候所より成立候論なれば、両方の意味が通達して両方から心配して其よろしきおへらみ候方よろしく、そふなけれバ両方より道也、義也と論を吹合候よふニなれバ、かへりてがいを生じ候べく、談笑中ニともに宜を求め候よふでなけれバ、とても大成ハなりがたくと奉存候。何レ御深慮千万の中と奉存候。右御報拝捧候。十二日龍印藤大兄足下猶けふハ船の事大ニ御セ話被遣候。御礼千万語言にかへかね候。〇いさ順助兄も唯今出崎時計御頼ニ候て御帰り被成候。再拝々。印藤大将軍陣下龍返報入
・・・・・・・・・・・・・
【現代文】
今夜も伊藤助太夫と飲んでいます。
《伊藤助太夫は下関の豪商、伊藤に宛てた「いろは丸事件」の紀州藩との交渉経緯を知らせる「龍馬の手紙」がある。》
龍馬の手紙(伊藤助太夫宛て)
いろは丸事件(融通無碍/南史観<私観>)
昨夜から貴方からご相談された件で考えていました。
何にしても急ぎすぎてはかえって双方の心が通じないことと思います。
何と言ってもお互いに国家のことを憂いていることは同じてあり、双方の考えを理解しあうことが大事です。
そうでなければ、双方あれやこれやの議論になり、かえって障害が発生することになります。
笑いなどを絡めて和やかな会談にしなければとても大成させることは難しいと思う。
何にしてもよく考えないといけないですね。
その旨、上記の事ご報告致します。
(慶応元年5月)12日
龍馬より
印藤聿様へ
なお、本日は船のことで本当に世話になりました。お礼の言葉もありません。
順助兄(=小野淳輔のことで、甥の高松太郎が改名した名前)もただいま外出先から帰ってきました。
高松太郎(融通無碍/南史観<人物評伝>)
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[龍馬の手紙<印藤聿 宛>]慶応元年12月3日
一筆書かせて頂きます。
私は11月24日に大阪を出港し、同26日夕方に上関(山口県)に着きました。
今日は下関に来ていて、手紙を届けにきました。
いずれまた会いましょう。
12月3日 龍馬
印藤聿様へ
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[龍馬の手紙<印藤聿 宛>]慶応元年12月29日
昨日山口より中島四郎(長州藩海軍)、能間百合熊(財満百合熊のこと長州藩海軍)、福原三蔵(奇兵隊士)の他要人が、山田宇右衛門(長州藩士)とかいう人もきました。
いまだにユニオン号の話し合いもまとまらないけれど、思うに、今日中に話がまとまるでしょう。
ユニオン号のこと(融通無碍/第33話)
山口から桂小五郎(木戸孝允)の長い手紙が届いて、予定よりも半日も早く京都へ向かうと言ってきました。
されど、今回の京都行きは私一人のほかは、船の操縦に詳しい人がいない、誰かほかに詳しい人がいればなお都合が良いのですが。
一、山口には薩摩藩の黒田了介という人がきているので、この人と共に桂さんは先日京都へ行くことに決まりました。この桂さんに諸隊の者が7・8人同行します。(目的は「薩長同盟」の話し合いのためです。)
薩長同盟までのこと(幕末足軽物語/関連話>)
薩長同盟(融通無碍/第38話)
一、私の船は正月2日・3日頃に出港すると思うが、いまだに不明です。上記のように出港出来ればと思ってます。
29日
印藤様
龍馬より
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[龍馬の手紙<印藤聿 宛>]慶応2年2月3日
伏見の寺田屋で、三吉慎蔵(=長府藩士/龍馬の護衛役)と飲んでいたところ、幕府の役人数人から襲撃されました。
三吉慎蔵は一緒に薩摩藩邸に入りましたのでご安心下さい。
なので、今回は寺内新右門(=海援隊士/新宮馬之助のこと)がそちらへ行きますので話を聞いて下さい。
あとは、お会いして話しましょう。
2月3日
印藤様 龍馬より
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[融通無碍]<関連話>
◆寺田屋遭難
寺田屋遭難の詳細を記述した龍馬の手紙がある。兄の坂本権平と長州の木戸孝允に宛てたものだ。
龍馬の手紙(坂本権平 宛て<幕末足軽物語/関連話>)
龍馬の手紙(木戸孝允 宛て<幕末足軽物語/関連話>)
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[龍馬の手紙<印藤聿 宛>]慶応3年3月6日
先日から病気なので引きこもってますので、この手紙を書きます。
下の件は、長い物語ですが、通常の手紙では何分わかりがたいと思いますので、箇条書きの方が宜しいかと思いますので、元よりご了承くださいませ。
第一段
一、先日長府藩家老・三吉周亮が下関へお帰りかと思いますが、薩摩藩の者より極秘に聞いた話では隊の者は三吉周亮のことを大いに論じて勢い込んでいるようでございます。
なお、この極秘のことは三吉周亮がもっとも海軍に力を入れ、陸軍には世話をしないからとのこと。
詳しくは不明ながら、私が思うに三吉周亮が陸軍を指揮するようになれば隊内一同皆報国の心を奮起し、三吉周亮の賢さを感じ入ると思う。
このような事を聞くに、定めて隊を指揮するものに三吉周亮のような者がいないのを憂う。
南面を制すれば、北面うらむの義にはならんかな。(三吉が陸軍を指揮すれば今度は海軍が騒ぐことにならないか)
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[関連話]<人物評伝>
◆三吉周亮
長府藩家老、元治元年、第一次長州征討の折に藩内で幕府恭順派が台頭すると、山口から逃れてきた三条実美ら五卿を功山寺に迎える。この五卿の功山寺入りが後の薩長和解の先鞭となった。
長州征伐(融通無碍/南史観<私観>)
元治元年12月、周亮は薩摩藩の西郷と会見、高杉晋作との会談の斡旋を受諾して、翌元治2年1月に下関にて実現させる。
薩長和解に努め、また「薩長同盟」の締結の際には坂本龍馬と数回にわたり会談している。
慶応2年6月、長州藩の報国隊の惣督に就任、第二次長州征討時には小倉口にて同隊を率いて戦い勝利する。小倉での戦いは龍馬も参戦している。
慶応3年7月、長府藩が購入したイギリス製軍艦「満珠艦(丸)」の艦長に就任した。
第二次長州征討(融通無碍/南史観<私観>)
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第二段
今日は、はからずも三吉周亮が来て、幸いにも諸君の無異平安(変わりなく平穏)なることを伝え聞いたという。
三吉慎蔵及び、印藤聿も2・3・4日中には下関に来るとのこと、待っている。
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第三段
上の一段、二段、の事も案じるが、かの竹島行きの事はかねてからお耳に入れてある通り、三吉慎蔵にも話してあり、随分賛成してくれて、いずれ改めて下関で決めましょうとのことでした。
しかし、その後お目にかかれてないので、お返事を待っているところです。
ですが、当今は世の中の目前のことばかりで、相談は出来ないことなので、諸人は竹島行きのことは皆無用のこととしていて、三吉周亮の遠大の策には従えぬと言い、この事は実行できなくて残念な話と察しております。
竹島は地図で推測すれば90里くらいです。
井上聞多がこの島に渡った者に聞いたところ、100里ですというのでだいたい同じようです。
島の流れは10里斗くらいと私はかつて長崎で聞いたがなんとも話が違うものです。
この島に渡る者の話では、クスノキと良く似たものがあり、多くは新木である。この他、一里あまり、弐里あまりもあろう平地である。これに関する本はたった一ヶ所から出た話しをまとめただけの本かと疑う。
下関から行って戻るまではまる3日はかかる。
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[融通無碍]<関連話>
◆竹島
幕末期、長州の志士たちのあいだに、竹島開墾論なるものがあったという。
吉田松陰は、安政5年2月、桂小五郎あて書簡で所見を述べている。
「朝鮮・満州に臨まんとならば竹島は第一の足溜なり」
富国強兵策の延長線上に、竹島の開墾を構想していた。
しかし、同年7月、桂小五郎、村田蔵六の連名で老中・久世広周あてに提出された「竹島開拓建言書草案」は、建白者が藩主ではないとして返却され、日の目を見なかった。
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第四段
私は蝦夷へ渡ろうとしていた頃から、新国を開くことは積年の思いで一生の思いなのです。何卒一人でもやりやりきる覚悟です。
伊藤助太夫は私の志を憐れみ、且つ積年の思いもあるゆえ、秘めていた不屈の思いを披露してくれた。
諸国の浪人らに命じてこの地を開墾するべしと、この思いが強いのです。
=====
[関連話]
◆北方開拓計画
この龍馬、積年の夢(蝦夷に渡って新国を開くという)『北方開拓計画』については、鳥取藩伏見京都御留守居役の河田佐久馬に宛てた「龍馬の手紙」に記述がある。
龍馬の手紙(河田左久馬 宛て)<慶応3年3月>(北方開拓計画)
「坂本龍馬書簡 慶応3年2月14日 河田左久馬宛」(個人所蔵 鳥取県立博物館寄託)
《蝦夷地行きの準備が整いつつあることを、龍馬が意気揚々と報告する内容》
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第五段
先日お耳に入れた内々の話ですが、三吉慎三が無理なら自らが出向きたいとのこと、私はまことに幸せです。
しかし、このような時世なので貴方達がこの地を離れるのは大変難しいことと思う。
*****************
第六段
長崎で、いろは丸を3月15日から4月1日までの間、借り入れる旨の定約を定めました。
それゆえ、近いうちにこの期限も来てしまう。
いろは丸事件(融通無碍/南史観<私観>)
3月の初めから長崎に来て大洲藩の船が来るのを待つうちに、私は先日、中風(手足のしびれ)になり床に伏せっており自由に動けない状態でしたが、かれこれするうちに、大洲藩の船と共に長崎を巡りたいと思うようになりました。
=====
[関連話]
◆いろは丸
慶応3年、長崎から大坂へ小銃・弾薬を輸送する必要が生じていた土佐藩がいろは丸の貸与を大洲藩に求めた。土佐藩への貸与が成立し、大洲藩士にかわって坂本龍馬ら海援隊員が乗り組んで長崎を出港した。
慶応3年4月、瀬戸内海を航行中に紀州藩の明光丸と衝突し、鞆の浦まで曳航中に沈没した。
事故の直後、千屋寅之助(=菅野覚兵衛/海援隊士)、高松太郎(龍馬の甥/海援隊士)に宛てた「龍馬の手紙」に記述がある。
龍馬の手紙(千屋寅之助 宛て)<慶応3年4月>(いろは丸が沈没した!)
その後、経緯など、龍馬は頻繁に手紙を書いている。
高柳楠之助 宛て(いろは丸事件)
下関の豪商・伊藤助太夫 宛て(いろは丸事件の経緯)
小谷耕蔵&渡辺剛八 宛て(いろは丸事件が決着)
妻・お龍宛て(いろは丸事件、その後)
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第七段
大洲藩の船の石炭の費用は一昼夜で1万2千斤なので2万斤の見込みとなる。タネ油一昼夜に一斗。
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第八段
もとより無理をしてでも船を借りたのは、もとよりの考えがあったからです。
他に賛同する人を募る道があるのであれば、三吉慎蔵君達の「やる」「やらない」の意見を早々に聞きたい。
もし止めるのあれば、以前から約束している人々にもその旨伝え、賛同してくれる人を集めなければならない。
ただし、お金の都合次第である。
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第九段
三吉慎蔵も貴方達もこないのであれば、他人を集めず私一人で行くことになればまたお金が入用になる。
今は手元に少々はあるけれども、もしそのようなことになれば、400金を10ヶ月の期限で借用したい。
ご尽力頂けますと大変幸せにございます。
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第十段
お頼み申し上げたことは三吉慎蔵君達の準備が整わない場合でも、山を登り木々を見て木の名前を記す者、土地を見ては稲や麦がこの地で育つか調べる者、山では鍬を持ってハゼノキ(櫨の木)を調べる者、海では、貝類、魚類、海草などを見る者を一人ずつ探してほしい。
お世話を御頼みしたいのはこの内容となります。
上記の件は私の一生のお願いでして、良い林を探し、海にも恵みがあればこの地に人を移すことは万物の時を得る喜びなのです。
以上 龍馬
(慶応3年)3月6日 寝られないまま筆をとってます。
印藤先生(長府藩士)
なお、先日は柿本人麻呂、山部赤人などをときどき集まって詠み、ついに一巻くらいになりました。
ある翁(老人)に頼んでこの一巻・二巻を付けようかと思っていたが飯立市(死亡)となりました。
なので幸いにも私の歌は第二巻とはなりません。この歌は
「心からのどけくもあるか野べハなを雪げながらの春風ぞふく」
その頃から引き続き家主などはしきりに歌を詠み、ある人が書林(書物がたくさんある場所)になりそうだとのこと。
お暇があれば、お出かけ下さい。面白いことですので。諸君の歌袋のチリ私も時々31字を笑いだし、ともに楽しんでいる。
今夜も筆を動かそうとしているが歌の意味がわかりかねるのが春夜の心のようで、
「世と共にうつれバ曇る春の夜を朧月とも人ハ言なれ」
先生も近々お作りになってお越し下さいませ。先日の作品は家の主が、この一巻の中に入れました。
~~~~~~~
《龍馬も「歌心」があったようだ。》
四万十川百人一首
《この歌集は、土佐中村での南寿吉氏の「樋口真吉物語」に端を発します。》
土佐の森・文芸 (中村の豪商・木戸家)
第4首 木戸三亀子(四万十市)
土佐の森・文芸 (土佐の中村)
中村は戦国時代に一条氏という京の名門公家が応仁の乱(1467年に始まった)の混乱を避け、移り住んだ公家大名の領地(荘園)であった。
竜馬の四万十川伝説(幕末足軽物語/関連話)
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土佐の森・文芸 (伊藤助太夫)
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[関連話]
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伊藤助太夫
天保元年生まれ、 明治5年11月19日没、享年43。
下関の豪商で、別名は九三。
幕末の志士らを様々な側面から支援した。
特に坂本龍馬との関係は深かった。龍馬は下関の伊藤家、長崎の小曽根家を活動本拠にしていた。名前を助太夫から九三に変えたのも龍馬の勧めから。龍馬が書いた手紙のうち、助太夫宛の手紙が姉・乙女に次いで2番目(14通)に多い。
慶応2年、龍馬は伊藤邸に寄寓し、以来ここから東西へ飛び回った。
慶応2年12月、龍馬が北方開拓を計画したときも助太夫は援助している。
慶応3年2月10日、龍馬はお龍とともに下関を訪れ、伊藤邸の一室である「自然堂」を借り受ける。龍馬が号とした「自然堂」の由来である。夫婦水入らずの生活を楽しみ、助太夫と近くの稲荷町遊郭に遊び、夫婦痴話喧嘩をしたり、馬関の風流人たちの歌会に誘われたりもしている。
慶応3年4月、龍馬は小曽根家から借用した600両の一部を、伊藤家への返済に充てている。この伊藤家の借金は前年10月、北方開拓に使うつもりで海援隊が購入した大極丸に関わるものと思われる。その後紆余曲折の末、大極丸は土佐藩船となっている。
海援隊
=============
[龍馬の手紙/伊藤助太夫宛て
慶応3年4月6日付
『今日は金子が必要とのことなので、小曽根英四郎の店の番頭清吉に600両差し出しました。残りの200両は今しばらくお借りしたいと思います。』
小曽根英四郎(幕末足軽物語/関連話<人物評伝>)
~~~~~~~~~~~~
慶応3年4月23日、龍馬の海援隊船(いろは丸)と紀州藩船(明光丸)が衝突、いろは丸が沈没した事件が起こる。いろは丸事件だ。
龍馬の手紙(伊藤助太夫宛て)
いろは丸事件(融通無碍/南史観<私観>)
NHK龍馬伝 第42回 「いろは丸事件」
NHK龍馬伝 第42回
いろは丸事件(youtube.)
=============
[龍馬の手紙/伊藤助太夫宛て
慶応3年5月7日付
『二ヶ条を書きます。
一、この度の長崎行きは非常な事件(いろは丸事件)なので、留守には注意して下さい。親友といえども自然堂(龍馬のこと)まで参らぬよう門番衆にもそのようにお伝え下さい。
一、私が留守で他のところから訪ねてくる人は、親友と言えども、ご飯も宿泊もさせてはならない。このこと、宜しくお願い致します。』
追伸、ご案内の通りこの度は長崎へ向かいますが、どうなりましたか?
検討中であれば、先ほどの覚え書き(二ヶ条)の件を出しておきます。
一、かねて私とお龍(妻)のところへ三吉慎蔵、印藤聿の両人が聞きに来ました。そして、貴方の家に宿泊させて頂くと頼んであると言いました。私たち両人の生活のことの一切は両者にお聞きください。
三吉慎蔵(融通無碍/南史観<人物評伝>)
印藤聿(幕末足軽物語/関連話<人物評伝>)
一、私たちは者好きなので他人を呼んでしまいます。この費用の一切は私からお支払い致します。(ただし、今月末になります)もし、また私が気がつかないような時は、伊藤家会計係から書付を寄こして下さい。かつ、私が洗濯してくれる女性などを雇い入れた時は、この食事代は通常の旅人よりも安くして頂けると助かります。伊藤家使用人にもその旨お伝え下さいませ。』
====
[関連話]
[印藤聿]
印藤聿 宛て
《長府藩士・印藤聿に宛てた「薩長同盟」に向けた長州での動きなどをしたためた「龍馬の手紙」である。》
=============
[龍馬の手紙/伊藤助太夫宛て
慶応3年5月27日付
『船の争論(=いろは丸事件)は、私が思うように運んでいまして、まだ長崎にいます。土佐人だけはみんな兄弟のごとく必死でおりますので、実に面白いことです。』
=============
[龍馬の手紙/伊藤助太夫宛て
慶応3年5月28日付
『ますますご健勝のようでなによりです。
紀州藩との船の話ですが段々と進み、明日か、今日は戦争かとひしめきあってます。
後藤象二郎も大興奮していてとても骨が折れる、と言っています。
後藤 象二郎(融通無碍/南史観<人物評伝>)
長崎の商人どもに至るまで、ただ紀州藩を撃てだの紀州藩の船を乗っ取れだのとののしり合ってます。
知らぬ人まで戦をすすめに来ます。』
紀州藩とは日々談論(戦い)をして、とうとうやっつけて、今朝から薩摩藩へ頼んで詫びを入れる運びとなりましたので、これまでの無礼を私も許しました。
薩摩藩から伊呂波丸の交代の船と荷物の代金を立て替えてもらい、紀州藩の奉行が宿まで来て挨拶をすれば良いでしょうかなどと言うが、私個人はそれでいいとしても、鞆の港へ捨て置かれたことにおいては、これは紀州藩が土佐藩の侍を辱めたことになるため、私へ挨拶しただけで済むことではないですよ、と言い、主人の山内容堂へも挨拶するべきだと、今日言いました。
山内容堂(融通無碍/南史観<人物評伝>)
いずれにしても、これでまた話がこじれれば一戦するのもまたおもしろいことです。
まずは、お気づかい下されていると思い、今のまま早々にお伝え申し上げます。』
======
[融通無碍]
◆龍馬のアイデア戦法
紀州藩を相手に、龍馬が仕掛けた新戦法は、なんと!コマーシャル・ソング。 ん!?
「船を沈めたその償いは金を取らずに国を取る--♪」
龍馬はこんな戯れ歌<里謡(りよう)>を花街丸山で流行らせ、世論を味方につける巧みな攻勢を仕掛けたことはよく知られている。
これはまさに現代のCMプランナー同様のアイデア戦法だ。
龍馬は、長崎で豪商・ 小曽根乾堂(小曽根英四郎の兄)から中国の楽器、月琴を習ったといわれている。司馬遼太郎の『竜馬がゆく』でも、姉・乙女と一緒に一弦琴を習ったり、名曲『漁火』を演奏したり、また長崎では花街へと繰り出し『長崎ぶらぶら節』を楽しむ場面などが出てくる。
龍馬はかなりの音楽好きだったようだ。
長崎ぶらぶら節( YouTube )
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[龍馬の手紙/伊藤助太夫宛て
慶応3年5月28日付
『さて、この度そちらに向かわせた小曽根清三郎(小曽根英四郎の兄)とは大兄(=伊藤助太夫)も色々とお話合い下さい。
そして、下関の唐物屋に申し聞かせ、皆々小曽根清三郎とお引き合わせ下さい。
三吉大夫(=三吉慎蔵)にも詳しく話して下されば、この小曽根は何でも出来ることは確約します。
長州のためにもなること間違いなく、私の国(土佐)にも都合が宜く商談なども出来るかと思います。』
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慶応3年11月、お龍は龍馬暗殺の悲報を伊藤助太夫邸で聞いている。
龍馬暗殺(融通無碍/南史観<私観>)
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龍馬の手紙
土佐の森・文芸 (融通無碍<45>龍馬の手紙)より
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[伊藤助太夫]
伊藤助太夫(幕末足軽物語/関連話<人物評伝>)
伊藤助太夫 宛て
《下関の豪商・伊藤助太夫に宛てた「いろは丸事件」の紀州藩との交渉経緯を知らせる「龍馬の手紙」である。》
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ブログ
土佐の森・文芸/幕末足軽物語(南寿吉著)
編集・発行
土佐の森グループ/ブログ事務局
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南寿吉先生の遺作(高知新聞/2021.7.2)
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幕末足軽物語/関連話・特集版①
http://mori100s.exblog.jp/242049799/
2024-01-17T19:38:00+09:00
2024-02-23T14:43:49+09:00
2024-01-17T17:24:37+09:00
mori100s
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土佐の森・文芸
融通無碍(南寿吉著)
幕末足軽物語/関連話・特集版①
1月17日のこと
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[高知新聞/2024.1.17より]
1月17日は阪神大震災の日として知られるが、ことしは歴史上のもう一つの出来事にも思いを巡らしてみたい。
明治7年(1874)1月17日、板垣退助らが国会の開設を求める「民撰議院設立建白書」を提出した。
ことしで150年になる。
日本には国会もなければ、人民の権利や国の仕組みを定めた憲法もなかった時代。
高知の先人たちが活躍した自由民権運動はここに始まる。
1月17日(高知新聞・小社会/2024.1.17)
自由民権運動150年<3ジジ放談>(高知新聞/2024.1.22)
自由民権運動150年(幕末足軽物語/関連話)
自民党派閥の裏金事件などを語り合う(左から)佐高信氏と平野貞夫氏、前川喜平氏(高知市桟橋通4丁目の市立自由民権記念館)
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大震災
追悼会場で竹灯籠に火をともす人たち=17日早朝、神戸市中央区の東遊園地[高知新聞/2024.1.17より]
夜明け前の暗闇に「ともに 1・17」の炎が揺らめき、大切な人たちへ鎮魂の祈りがささげられた。
阪神大震災の追悼行事が開かれた神戸市中央区の公園「東遊園地」。発生時刻の午前5時46分を告げる時報が響くと市民らは手を合わせた。
石川県から訪れた能登半島地震の被災者は古里の復興を誓った。
能登地震で自宅が全壊したという柴田剛さん(67)=同県輪島市=は
「能登を復興させるぞという気持ちで祈った」と語った。
「1・17」の火に手を合わせ 各地で鎮魂、能登被災者も(高知新聞/2024.1.17)
◆能登半島地震特集<高知新聞>
大震災と薪と高齢者・・・
◆東日本大震災<NPO法人土佐の森・救援隊>
大震災と薪と限界集落・・・
◆薪と高齢者に纏わる悲痛な事件<高知新聞/2021.3.16>
嘆きながらも前へ
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民撰議院設立建白書
[高知新聞/2024.1.11より]
光を放つ議事堂―「国」と「民」の物語
民撰議院設立建白書150年
自由民権運動は明治7年1月17日、板垣退助らが「民撰議院設立建白書」を明治新政府に出して始まった。
[高知新聞/2024.1.1より]
江戸の幕藩体制が崩れ、明治の幕が開いていた明治7年(1874)1月、国会議事堂前の庭園付近にあった屋敷に板垣退助らが集まり、数日後、明治政府に一通の建白書を出す。国会をつくって人々を政治に参加させよ―と求めた「民撰議院設立建白書」だった。
会合したのは板垣退助、後藤象二郎、岡本健三郎、古沢迂郎、小室信夫、由利公正、江藤新平、副島種臣の8人であった。(うち4人は旧土佐藩士、2人は旧佐賀藩士、1人は旧福井藩士、1人は京都の商家の生まれで旧徳島藩士。)
彼らはこの日、日本初の政治結社とされる「愛国公党」を結成し、5日後の1月17日に政府に出す「民撰議院設立建白書」の内容を確認していた。
「人民は政府の政治について議論する権利がある」
「国の行く末を多くの人で考えるためには、民撰議院(国会)を設立するよりほかない」
◆幕末足軽物語/関連話
幕末足軽物語/関連話<民撰議院設立建白書>
古沢迂郎(幕末足軽物語/関連話<人物評伝>)
江藤新平(幕末足軽物語/関連話<人物評伝>)
副島種臣(幕末足軽物語/関連話<人物評伝>)
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