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土佐の森・文芸 融通無碍
[人物評伝]
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佐々木男也(1836~1893)
樋口真吉(1815~1870)
天保7年、長門国萩に長州藩士・佐々木五郎兵衛の嫡子として生まれる。
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文久3年、学習院用掛となり京都で国事に奔走する。
8月18日の政変後に帰国した。
8月18日の政変(融通無碍/関連話)~~~~~~~~~~
元治元年、
蛤御門の変で福原元僴の隊に所属して、土佐の
池内蔵太とともに戦うが敗れる。
池内蔵太(融通無碍/人物評伝)蛤御門の変(融通無碍/関連話)桂小五郎と鳥取藩邸への救助を求めたが断られ長州へ逃れた。
桂小五郎(融通無碍/人物評伝)~~~~~~~~~~
慶応元年、長州藩でクーデタを起こし、藩論の転換に成功した。
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慶応2年、
第二次長州征伐で幕府軍と戦い勝利する。
第二次長州征伐(融通無碍/関連話)~~~~~~~~~~
慶応4年、戊辰戦争では北越戦争で活躍した。
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明治2年、薩長への謝恩の旅で馬関を訪れた樋口真吉と面談している。
維新後は第百十国立銀行支配人、共同運輸会社支配人、日本郵船支配人を務めた。
明治26年、下関で没。享年58。
長州・人物列伝(融通無碍/関連話)ーーーーーーーーーーーーーーーー
[真吉日記/
薩長への謝恩の旅より]
幕末足軽物語 樋口真吉伝完結編<「幕末足軽物語樋口真吉伝完結編」ではP384>
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明治2年3月7日
長府を発す。壇の浦には砲台もあった。
御裾川が流れている。
九州の小倉台は僅か八丁(800m)しか離れていない。この地は地形が要害となるから守備には適地だと思う。
(漢詩あるも略)
馬関に入る。伊勢屋に泊。佐々木男也を訪うて、龍馬と行動をともにしていた池内蔵太のことを聞く。
馬関にて(融通無碍/関連話)
英国海軍陸戦隊によって占拠された前田砲台。
壇の浦砲台(NHK動画)下関戦争(融通無碍/関連話)~~~~~~~~~~
昨夜の宿は島屋(亭主:彦蔵)であったが、亭主の話によると、土佐人・細川左馬之助(=池内蔵太)、細儀元太郎(=
細木核太郎)、
中島信行の3人は長府に滞在中であり、この島屋に40日ばかり泊まったという。現在かれらは遊撃隊に所属しているらしい。
細木核太郎(融通無碍/人物評伝) 中島信行(融通無碍/人物評伝) =====
[融通無碍]
遊撃隊は
来島又兵衛が文久3年10月に周防国宮市(現山口県防府市宮市)において、町人・農民・浪士らを組織して結成した。(来島又兵衛が初代総督)
土佐藩を脱藩した池内蔵太や中島信行、元天誅組の
上田宗児らが参加した。
来島又兵衛(融通無碍/人物評伝) 上田宗児(融通無碍/人物評伝) 元治元年7月、遊撃隊は禁門の変に先鋒として参戦した。
佐々木男也は蛤御門の変で池内蔵太と共に戦った仲間であるから、真吉はその際の池内蔵太の奮闘振りなどを聞いたのだろう。
真吉は長州びいきだし、長州言葉も土佐人には理解しやすく、戊辰戦争の勝利後ということもあり、佐々木男也とは腹蔵のない闊達な雰囲気での会話がはずんだものと思われる。
薩長への謝恩の旅(融通無碍/第29話)**************
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元高知県知事橋本大二郎氏
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