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土佐の森・文芸 融通無碍
【第59話】
戊辰戦争/今市宿攻防戦◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
<令和7年11月5日発信>

(銀次のブログ「今市宿攻防の跡地を歩く」より)
銀次のブログ◆戊辰戦争/今市の戦い(慶応4年4月~5月)

日光東照宮、神橋近くに建つ
板垣退助の像
板垣退助(融通無碍/人物評伝)ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
[史実<フリー百科事典『ウィキペディア>より]
今市宿(現在の日光市今市)は江戸と日光を結ぶ日光街道、会津若松へ続く会津西街道、高崎へ続く日光例幣使街道、奥州街道の宿場町大田原宿へ続く日光北街道の集まる交通の結節点だった。
◆第一次今市の戦い
慶応4年4月20日、
旧幕府軍及び会津軍は兵力を2つに分け日光街道の東西両方向から今市へ攻撃を始めた。板垣退助率いる新政府軍(土佐藩迅衝隊)は東西の旧幕府軍を各個撃破した。板垣退助は周囲の新政府側戦況の悪化を鑑み今市周辺に防御陣地を構築し、今市で旧幕府軍を迎え撃つ体制作りに着手した。
◆第二次今市の戦い
慶応4年5月6日、
旧幕府軍及び会津軍は今市の東側に兵力の大部分を集結し一斉攻撃を始めた。板垣退助は西側の守備隊を再編し旧幕府軍の南へ迂回し反撃を始めた。また宇都宮から急行してきた新政府軍(土佐胡蝶隊と砲隊)が到着し、旧幕府軍側は敗走した。
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《樋口真吉の
「日記:戊辰戦争従軍」より》
幕末足軽物語 樋口真吉伝完結編<「幕末足軽物語/樋口真吉伝完結編」ではP334>
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慶応4年4月朔日
柳原卿は甲州路を経由して江戸入り、有馬邸に御入りになる。
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慶応4年4月4日
東海道総督・柳原卿と橋本卿が江戸城に入る。
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慶応4年4月7日
西郷吉之助(=
西郷隆盛)を増上寺に訪う。
西郷隆盛(融通無碍/人物評伝)======
《融通無碍》

徳川将軍家とのゆかりが深い東京・芝にある増上寺
増上寺は徳川家の菩提寺であり、ここに薩摩の西郷が滞在しているとは…。偶々会見会場として使用されたのか、薩摩史に不案内な筆者は悩むところ。
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慶応4年4月14日
小笠原只八が京都に帰る。前日に配置した三門警備の兵を引き上げた。
小笠原只八(融通無碍/人物評伝)・・・・・・・・・・・
慶応4年4月15日
真吉の門人で
迅衝隊第四小隊員・桑原倉之進と同・植田貞之助両名が京師から一万両の公金(軍資金)を護送して来た。下代・柳兵衛が甲府から来る。
迅衝隊(融通無碍/第56話)・・・・・・・・・・・
慶応4年4月16日
東海道大総督・有栖川宮様が芝・増上寺に着いた。
この月の7日、真吉と薩摩・西郷隆盛が面談したあの寺だ。
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慶応4年4月17日
真吉は江戸・市谷の元尾州邸にいて前線から届いた情報を簡潔にまとめている。
真吉が纏めた最前線情報(融通無碍/関連話)・・・・・・・・・・・
慶応4年4月20日山崎広馬が戻って言う。
「官軍は彦根、笠間、壬生に展開中である。敵勢力、千余人らしい。」
「土佐藩兵は20日に進軍して戦う予定」
「薩摩は流山の賊を攻撃する予定」
「戦場は広大で樹木も茂り放題で、麦の背も高いから肩先が見え隠れするほどで、視界も利かず一丁(約100m)先もよく見えない。」
「埋伏して前進する(=匍匐前進。敵の攻撃を避けるため這いつくばって進む)と前後が分からなくなるほどだ。」
「集団・整列して戦う火縄銃戦法は、後込めの新式銃を持った兵に散らばって攻撃(散兵戦法)されると弱い。」
「火縄銃は先込めのため戦士は起立しないと弾込めできない。後込め銃は寝転がって装弾できる。」
「伏せた状態での移動・攻撃を得意とする官軍にはどうもよろしくない戦地のようだ。」
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慶応4年4月21日
断金隊小頭・
美正貫一郎が甲府に戻る。薩兵が賊兵を討つこと200ばかりとか。この夜九ツ時(24時ごろ)赤坂の方向で火事があった。
断金隊のこと(融通無碍/関連話)美正貫一郎(融通無碍/人物評伝)======
《融通無碍》
美正貫一郎の身分は低いが勇猛果敢な戦士として注目されていた。その戦死の有様については後に触れる。
美正貫一郎がまとめた前線情報(融通無碍/関連話)・・・・・・・・・・・
慶応4年4月23日
前田権三郎が入隊する。
岩倉卿(=
岩倉具視)が明日出発する。
「総兵みな出発せよ」の陣触れが出る。
岩倉具視(融通無碍/人物評伝)・・・・・・・・・・・
慶応4年4月24日
尾州邸にいた総兵力が進発する。千住まで2里。
三宅謙四郎、
川田乙四郎が戦傷して帰る。
三宅謙四郎(融通無碍/人物評伝)川田乙四郎(融通無碍/人物評伝)草加まで2里8丁(約9km)、越谷に1里28丁(7km)、粕壁まで2里28丁(11km)。真吉らは杉戸(埼玉県杉戸町)に宿陣する。
輜重衛長・
谷口傳八は兵卒37人を率い、麻布隊は63人で隊長が金子寛十郎。真吉の輜重局は30人ばかりだ。
谷口傳八(融通無碍/人物評伝)======
《融通無碍》
真吉の役職は『小荷駄裁判役』が正式名称である。どういった職務内容なのかは判然としない。一般的に言えば真吉の年齢は実戦能力が青壮年には及ばない。だから後方支援にまわるのだろう。
が、真吉には冷静沈着な判断と、経験に裏打ちされた深い洞察・予測力がある。実態として、真吉は身分差を乗り越え土佐藩兵の兵站部門の責任者だったようだ。
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慶応4年4月25日
幸手(埼玉県幸手市)へ1里半、栗橋へ2里8丁(9km足らず)。栗橋(埼玉県久喜市栗橋)に宿す。
尾崎源八に手紙を出す。
尾崎源八(融通無碍/人物評伝)======
《融通無碍》
筆者は幸運にも栗橋から真吉が出した手紙を見る機会を得た。嬉しい限りだ。読者の迷惑も顧みず引用する。
真吉の手紙<戦場より>(融通無碍/関連話)・・・・・・・・・・・
慶応4年4月26日
坂東太郎川(=利根川)を越す。中田、古河、野木、間々田<ままだ>(栃木県小山市間々田)で宿。
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慶応4年4月27日
間々田での会戦で(官軍の)彦根藩兵は敗走した。勝った賊は大砲・銃を分捕ったものの、移動中にはこれが邪魔となって遂には大砲などを井戸に投げ込んだ。これを(物陰からこっそり見ていた)兵が夫卒に命じて引き揚げてもって来た。功労はその夫卒にあるから褒金<ほうび>を与えた。
昨日輜重隊を守衛する人々が到着した。
【守衛人の名簿】
宮川胡作、宮地午吉、遠近晋二郎、山崎広馬、佐田庫吉、木戸武士衛、沖恵之助、中屋格之助、土居民助、下代・多作、
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《融通無碍》
筆者、これらの名前を一読して筆者思う。その姓名は決して高い身分の人々とは思えない。
さらに苗字は
土佐の中村(幡多)に特徴的なものばかりである。
遠近はまず幡多以外で耳にしない。佐田も沖も中屋もそうである。
真吉が呼び寄せたのか、真吉を慕って志願して来たのか。もしそうなら心強かろう。
軽装備で戦乱の中を味方の兵士のために駆け巡る輜重兵を守ってくれるのが知人・縁者であるとしたら。
「これは断じて脱線に非ず」とのみ言わせて下さい。
土佐の中村(融通無碍/関連話)・・・・・・・・・・・
慶応4年4月28日
大雨を衝いて迅衝隊の6隊が進み、壬生城に着す。
輜重奉行・
早崎兵吾らが安塚(栃木県壬生町安塚)の賊軍が来たと誤断し、輜重隊は動揺する。
しかも奉行たる早崎兵吾は臆病風に吹かれて(=『三舎を避けて』)姿をくらました。
主を失った輜重隊は右往左往し糸の切れた凧<たこ>状態となる。
真吉は早崎兵吾の行方を懸命に捜したが3日経っても分からない。
その結果、前線は輜重からの物資の供給を受けられず立ち往生、退却を余儀なくされる。土佐藩兵は宇都宮城攻撃に遅参して面目を失う。
その後落ち着いた早崎兵吾は正気に返り、舞い戻ったが問罪されて旅宿に閉居し、次いで本藩送りの処分を受ける。
早崎兵吾(融通無碍/人物評伝)・・・・・・・・・・・
慶応4年4月29日
晴れ、二連木(=栃木県鹿沼市楡木<にれぎ>)、鹿沼、今市(栃木県日光市今市)に着く。
今市から20丁ばかり(約2km)前方の瀬川(同・日光市瀬川)に敵が関門を作り、胸壁(防護の楯・土盛、塹壕)を築いていたが兵を進め攻撃すると敵は逃げ去った。
跡には2人の死骸があった。
真吉らの隊の被害は、手島金馬が戦死、負傷は荒尾常吉、田村傳八、吉川省作、金田弥太郎であった。
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慶応4年閏4月1日

如来寺(日光市今市)
晴れ、「如来寺」(栃木県日光市今市、東武日光線の下今市駅の西北500mに所在)に輜重局本部を置くことにした。
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《融通無碍》
土佐藩迅衝隊は今市宿では街の中心部にある「如来寺」に輜重局本部を置き、万全の食糧武器弾薬等の補給体制を整えていた。
真吉は輜重隊<裁判役>(融通無碍/関連話)・・・・・・・・・・・
慶応4年閏4月2日
晴れ、日光山に登る。宿坊の下に渓流があり、その対岸には会津に通じる間道があった。
賊の敗残兵が栗原に集結して『もうすぐ会津から援軍が来るぞ』と辺りに流言する。
会津に援軍を送る余裕などないはず。輜重担当の真吉は冷静に分析していただろう。
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慶応4年閏4月3日
曇り、栗原方面に因州勢が出撃するも敵影は見えず。帰隊する。
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慶応4年閏4月4日
雨、天金(朝廷から交付される軍資金)申請のため真吉は
弘田章三郎(真吉の門人)と大沢に行く。軍監・仁尾遠江助に逢って2000両を受け取る。今夜の宿は軍監が差配してくれた。また負傷兵に着せる服をもらう。明日、護衛兵12人を連れ西尾氏、板垣氏の両氏が忍<おし>(埼玉県行田市忍)に行く予定と聞いた。
弘田章三郎(融通無碍/人物評伝)ーーーーーーーー
今日は日光本道と間道、二手に別れて攻め上った。間道から攻めた谷口小隊の進路に敵の姿はなく、手負いの賊が少数、病院とも呼べないような粗末な施設に収容されているのみだった。
小笠原謙吉(第3番隊長)、
二川元助(第10番隊長)、
谷重喜(第4番隊長)の三小隊を警戒のため東照宮の宿坊に残して、残りは今市に帰った。
小笠原謙吉(融通無碍/人物評伝)二川元助(融通無碍/人物評伝)谷 重喜(融通無碍/人物評伝)======
《融通無碍》
◆世界遺産を守った土佐兵・板垣退助
昨日、迅衝隊は敵を追って日光東照宮に迫ったが、その門前に2人の僧侶が飛び出して来て平身低頭して涙を流さんばかりに哀願する
「賊徒が山内(境内)に侵入しております。今、官軍がこれを追って攻撃しますとこの貴重な霊場が焦土と化すことはわれらにとって嘆息に堪えないことです。暫くのあいだ、お待ち下さい。帰山して凶徒どもを追い払い掃除も済ませて官軍をお迎えします」
確かに懇願は丁寧で理に適っている。僧侶は懇願を繰り返す。
迅衝隊内で相談の末、ひとまず引き返すことにした。
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総督・板垣退助の英断もあっただろう。日光東照宮という文化財はその後の戦火も免れて現在に至る。世界文化遺産である。
総督たる土佐藩上士・板垣退助には幕府を開いた徳川家康に対する尊崇の念があった筈だ。かれの地位の源泉は藩祖・
山内一豊を厚遇した徳川家康にあるから、「家康あっての土佐藩」だ。もし総督が長宗我部侍の末裔であったら「憎き徳川の廟など・・・」だったかも知れぬ。
歴史に「もしも・・・」は禁物。
山内一豊と長宗我部氏(融通無碍/関連話)・・・・・・・・・・・
慶応4年閏4月5日 晴れ、
大沢を発し、今市に戻る。
さきに甲府の人・旧井清左ヱ門という人が敵情を偵察するため日光に潜入したが発覚して
滅多斬りにされたという。
結城七郎は甲府で地元有志によって結成された断金隊(土佐にとっては外人部隊)の隊長であるが江戸で突然脱走した。
滅多斬りにされた男(融通無碍/関連話)この夜、敵が襲来するという説があり、真吉は草履を履いたまま寝た。
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《融通無碍》
断金隊は迅衝隊総督・板垣退助が甲府に入り、
「わたしの先祖は甲斐の侍であった。そのときの苗字は板垣である。よって今後は板垣と名乗る」という決意表明に感動した地元諸氏によって結成された。
だから迅衝隊とは兄弟のような間柄で終始行動を共にした時期もあった。
しかし、どうもそうとばかりは言えないようだ。
隊長が脱退届けを出し、その承認を得ずして脱走する、しかも今市では『迅衝隊を襲撃する』という情報が流れて、真吉は不時に備えて草鞋を履いたまま就寝する。襲われても不思議はないという事情があったと考えるべきだろう。
板垣退助の行動には時としてに疑問符が付くことがあると感じる。明治の終わり頃のかれの懐旧談の速記録を読んでも難解で不可解なことが多い。
筆者は自分の理解力の欠如を棚上げして
『理解できない、辻褄の合わない話は嘘だ』と考えるようにしている。精神衛生上、非常な効果がある。
会社の不文律の方針を奉じ、あるいは自主規制して自ら緘口令を敷く報道関係者も多い昨今、断金隊の問題にも何かそんな影を感じる。
「沈黙を守る人が多数を占め、口を開く者は虚言を吐く」では真実は伝わらない。
表現の自由が守られているうちに、あるうちに正しいと信ずることは言っておきたい。
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慶応4年閏4月6日 曇り、
因州勢は引き揚げて宇都宮に移る。桑原守助が壬生へ行く。
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慶応4年閏4月7日
板垣退助氏が忍から戻る。
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慶応4年閏4月9日
雨、戦闘に必須の軍夫の不足が深刻化してどうにもならない。
真吉はその募集のため本藩(高知)に派遣されることになった。
早々に出立する。同行は小監察・秋澤清吉及び前田権四郎、下横目・雄作である。
午後(昼過ぎ)今市を出て夕暮れに壬生に着いて、船借上げ経費として1万両を受け取る。そのまま昼夜兼行して歩き、小山で夜が明けた。
真吉、人集めのため奔走する(融通無碍/関連話)~~~~~
<「幕末足軽物語/樋口真吉伝完結編」ではP346>
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慶応4年閏5月朔日
(本藩(高知)派遣の用務も終え)江戸甲邸<市谷にある旧尾州藩邸>に着いた。
折からの大雨。真吉が高知からミアカに乗せて来た砲隊がこの夜、千住まで進む。
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慶応4年閏5月2日
江戸甲邸を発し、連日の雨を衝いて古河まで足を伸ばし泊まる。同宿は谷頼助。
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慶応4年閏5月3日
壬生を経て今市に返る。
安岡亮太郎((=真吉の一番弟子、土佐中村の人)が江戸に行く。
安岡亮太郎(融通無碍/人物評伝)・・・・・・・・・・・
慶応4年閏5月4日
賊が毘沙門の山(今市の北10kmにある山か?詳細不明)に旗を立てる。
先月18日、19日、21日の敵襲はことごとく撃退した。
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《融通無碍》
真吉は『賊襲来、悉ことごとく撃って之を退しりぞく』と日記に書いたが、実情は大接戦で、辛うじて勝ちを収めた際どい戦<いくさ>で、命拾いしたような有様であったらしい。
この前後、真吉は江戸にいたから戦況の実態を知らなかったはずで「悉く」とは強がりを言ったか、虚勢を張ったのか。
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慶応4年閏5月5日
事なく終わる。真吉が今市に戻る前の一昨日、迅衝隊は毘沙門山にたてこもる賊軍に発砲し攻撃を掛けたところ、賊は立ててあった旗(=旌)を巻いて後退したという。
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<「幕末足軽物語/樋口真吉伝完結編」ではP347>
慶応4年閏5月6日未明、東村(=芹沢である、と欄外に記入あり)の農民が来て言う、
『昨夜から東村の近くに賊が屯たむろしている。今日あたり御陣を襲うつもりでは』
即座にかれを同行して本営に行き、その旨を報告する。終わって、宿舎の如来寺に戻って碁をうつ。
(さあ、本営はどうするつもりか・・・・)
このとき寺の南門の方から砲声が聞こえ、(進軍を促す)ラッパの音も追々響くなど慌しくなってきた。
(ラッパの音からすると敵は洋式訓練を受けている。強敵だな)
何局打ったか、頭に棋譜を残すかのようにざっと布石を見渡し石を碁笥ごけに納め、立ち上がった。朝五つ(
八時頃)である。
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真吉、陣頭に立つ。
敵の軍勢は700人ばかりと思うが日光街道に立つ両側の巨大な杉並木の蔭に身を隠し、あるいは麦畑に伏せるなどしてその総数(多少)は分からない。このため敵を撹乱しようと十字架の形の棒に笠をかぶせ、蓑みのを着せて兵隊に見紛うように麦畑の中から突き出させることにした。雨天だから敵も識別は容易でないはず。
わが兵隊は最初堤の外側にいたから胸壁(身を隠す障害物)がない。このため背後の堤に後退させて安全を図る。後退したとみた敵は猛襲をかけて急迫し弾丸を雨、霰<あられ>と降らせる。
真吉らが滞在している如来寺は街の中心部にあり、敵はこれが目指す本営と思ったようだ。しきりに発砲する。とうとう寺の境内になだれ込んで来たから、予備の弾丸を寺の空き部屋に運び入れた。
砲弾の直撃を受けた庭の樹が織物のように織り重なって倒れる。真吉らの兵隊は全力を尽して懸命に戦う。砲隊は東の川原から敵の側面を攻撃する。兵は鯨声(ときの声)を挙げ、敵を威嚇する。激闘続く。
戦いは七ツ時(16時ころ)に至り、敵の退却逃亡をもって終了した。
迅衝隊は勝ちに乗じて1里ばかりも追い討ちをかけた。
敵の首を獲ること26、傷を負って逃げる途中で敵・加藤麟三郎を生け捕りした。迅衝隊にも死傷者が出た。大砲一門を戦利品として分捕った。戦闘が終わったころ、南方にいた宇都宮兵(=土佐胡蝶隊と砲隊)が援軍に駆けつけた。
小野隼太が敵弾で戦死、「大沢」口でのことだ。「今市」口では谷本忠一郎、小松駒之助、小松克馬が戦死した。
戦死者の氏名を見ると、いずれもが幡多出身と思われる節がある。この推測が正しければ真吉は遺族に報告する備忘として記録したか。
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慶応4年閏5月7日
併任の輜重奉行・久万氏が到着する。
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慶応4年閏5月8日
雨、壬生に在留していた小荷駄の総勢が真吉のいる今市に着く。
野本源太と梶浦佐二右ヱ門が本藩に帰る。
小百<こもも>(日光市小百)にいた賊の兵舎を焼く。
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慶応4年閏5月9日
大桑(日光市大桑)の賊兵舎を焼き捨てる。
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慶応4年閏5月10日 雨、
土佐藩主からの御使者が到来する。
持参した書付に言う
◆書付の内容
先だって関東へ先鋒として出兵させたが、各々怠気も無く、皆仲良く心を合わせた。
甲府の敵兵を速やかに退治し、この頃は下野表(南方戦線)で特に苦戦し勝利を得たことを聞いて殿(藩主)は大いに満足している。
今後も皇軍の威光を輝かせ戦功をうちたてよ。
右の通り、藩主のご意向を伝えるために派遣された使者が・・・云々
土州へと宛名書きされた東山道総督からの感状も記されるが、これは省略する。
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慶応4年閏5月11日 雨、
今日、明組と輜重隊が倉崎(栃木県日光市倉ケ崎)に進み入る。
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慶応4年閏5月15日
江戸・上野の戦争は1日で終わった。
この日、江戸・上野で賊巣(彰義隊のたてこもった場所・設備)を屠る(ほふる・完全に葬りさる)。
上野戦争だ
上野戦争(融通無碍/関連話)======
《融通無碍》
この報が真吉らに届いたのは、3日後の18日であった。従ってこの記述は日記を整理する際に追記されたもの。真吉日記には過去にも今後にも例が多々ある。
同日、慰労のため御酒七樽を添えた感状が使者・森寺大和守を通じて届くが、これは省略する。
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《今市宿攻防戦/余話①<とあるブログより/引用>》
■山川浩(=
山川大蔵)将軍と
谷干城将軍(諏訪常次郎/会津会雑誌54号)
(5月6日の今市戦の時)加藤麟三郎が負傷して逃げおくれ自刎せんとした所を、土佐軍の兵に擒になった。
谷将軍は之を自ら調べて
「幕府既に恭順、天下の大勢は定まって居るのに、汝等何故に官軍に抗するや」と、
加藤麟三郎、答えていう、
「私は沼間慎次郎先生の教を受くるや久しく、其恩義が深い。只私は沼間慎次郎先生の指図に従える計りで、其他を知らぬ。不幸にして負傷し自刎せんとする所を捕えられた。天命の尽くる所であるから、生死は只貴意に任せんのみ」と、
谷将軍は其言に感じて赦して陣中においた。
それから谷将軍が
「近頃会津方が大層よく戦うが、其の隊の大将は誰であるか」と尋ねた時、加藤麟三郎が考えて「大鳥総督と幕兵許りでいかぬから、会津から山川大蔵と申す大将が副総督となって来て居るのである」と答えた。
それで谷将軍は会津に山川将軍のある事を知ったわけである。夫れ迄は双方敵が誰れであるかを知らずに戦って居ったのであるが、これで谷将軍だけは相手方がわかったのである。この加藤麟三郎の一條は、会津に来た沼間の一行中士官で少尉格であった山内英太郎(後の貴族院議員陸軍中将男爵・山内長人)により明かになったのである。
山川大蔵(融通無碍/人物評伝)谷干城(融通無碍/人物評伝)・・・・・・・・・・・
沼間慎次郎が第二次今市の戦いで
板垣退助らに敗れて、その配下の加藤麟三郎が捕まる。
板垣退助は加藤麟三郎に尋問し、その加藤が「自分は沼間慎次郎のために戦う」といったことから、板垣退助は敵ながら沼間慎次郎に興味をもったという。
板垣退助は大鳥圭介の死を悼んで寄稿文を送った。その中でも「大鳥はまず道を普請してから来るのでたいして怖くはないが、沼間慎次郎はどこから襲ってくるのかわからないので、こちらのほうがよほど怖かった」と評したという。
明治2年、沼間慎次郎が英語を教えるため塾を開いたが、それが政府転覆を図るため同士を募ると疑われて、新政府が彼を捕縛しそうになる。
このことを聞いた谷干城は、板垣退助らと相談の上、沼間慎次郎を土佐藩に招聘することを決める。沼間慎次郎はこの申し出に、
「自分は徳川のために兵術を修めたのであって、これを敵だった貴藩に伝習するのは情において忍びない。自分の片腕である松浦巳三郎を推薦するので、彼を兵の教育にあたらせてくれ。自分は英語を教えよう」と丁重な返答をする。
そして、明治4年の廃藩置県になるまで、沼間慎次郎は土佐藩邸で英語を教えていたという。
戦場で敵として死力を尽くして戦った相手に、このような友情が生まれることもあるとは驚きである。果たして21世紀の戦場ではこのようなドラマがうまれようか。
板垣退助(融通無碍/人物評伝)***********************
《今市宿攻防戦/余話②<とあるブログより/引用>》
■第二次今市宿攻防戦<詳細な合戦経緯>
慶応4年5月6日前日に今市宿再攻撃を決意した旧幕府・会津連合軍は、小百村の守りを青龍寄合二番隊(隊長原平太夫)に任せて、総督の
大鳥圭介<旧幕府陸軍奉行>と副総督の
山川大蔵<会津藩若年寄>が残りの全軍を率いて小百村を出発、大桑宿を経由して荊沢村付近で、地元の領民を徴発して設けた橋を渡り、今市宿東方の森友村に到着。この地を本営として、
午前八時頃に今市宿への攻撃を開始します。
大鳥圭介(1833~1911)
山川大蔵(1845~1898)
この時の会幕連合軍の布陣は、日光街道を進行する主力を第三大隊(大隊長米田桂次郎)が勤め、その第三大隊の右翼に朱雀寄合三番隊(隊長城取新九郎)、左翼に朱雀士中二番隊(隊長田中蔵人)が配置され、副総督の山川が引き手今市宿に攻撃を開始します。また本営が置かれた森友村には大鳥が残り、その手元には第二大隊が予備戦力として残されました。このようにこの日の戦いでは、大鳥も前回のように戦力の出し惜しみはせず、自分が掌握する戦力の大半を投入して戦いに望みました。
一方の土佐藩兵は、5日夜に会幕連合軍の動きを察知し、翌日今市宿が攻撃を受けるのを覚悟します。
土佐藩兵を率いる板垣退助は、上記した1旦宇都宮城に寄った高屋左兵衛率いる増援軍(2個小隊と半砲兵隊)に「明日(6日)正午までに今市宿に到着するように」との使者を送り、今市宿を守る土佐藩兵には会幕連合軍の攻撃に対しては、高屋率いる増援軍が到着次第反撃に転ずるので、それまでは防戦に終始するようにとの指示を下します。
尚、この日の土佐藩
迅衝隊(総督<大隊司令>板垣退助、副総督<大軍監>谷干城)の布陣は

迅衝隊(融通無碍/第56話)
前列左から、
伴正順、
板垣退助(中央)、谷乙猪(少年)、
山地忠七。
中列左から、
谷重喜、
谷干城(襟巻をして刀を持つ男性)、
山田喜久馬(刀を立てて持つ恰幅の良い男性)
吉本祐雄。
後列左から、
片岡健吉、
真辺正精、西山 榮、
北村重頼、別府彦九郎)
伴正順(融通無碍/人物評伝)板垣退助(融通無碍/人物評伝)山地忠七(融通無碍/人物評伝)谷重喜(融通無碍/人物評伝)谷千城(融通無碍/人物評伝)山田喜久馬(融通無碍/人物評伝)吉本祐雄(融通無碍/人物評伝)片岡健吉(融通無碍/人物評伝)真辺正精(融通無碍/人物評伝)北村重頼(融通無碍/人物評伝)~~~~~~~~~~
東側関門に迅衝隊1番隊(隊長
日比虎作)・同10番隊(隊長二川元助)・同11番隊(隊長平尾左近吾)の3個小隊が布陣。
日比虎作(融通無碍/人物評伝)西側関門に迅衝隊7番隊(隊長
山地忠七)・同8番隊(隊長
吉松速之助)・斉武隊の3個小隊布陣。今市宿の北、会津西街道の大谷川沿いに迅衝隊3番隊(隊長小笠原謙吉)・同4番隊(隊長谷重喜(=谷神兵衛))・13番隊(隊長行宗進之助/援軍として宇都宮城に送られていたが、呼び返されて、この日は今市宿の守備に当っていた)の3個小隊と
北村重頼(=北村長兵衛)砲兵隊が布陣。
山地忠七(融通無碍/人物評伝)吉松速之助(融通無碍/人物評伝)北村重頼(融通無碍/人物評伝)今市宿の南方の平ヶ崎村には迅衝隊九番隊(隊長
山田喜久馬)が布陣。
山田喜久馬(融通無碍/人物評伝)また予備戦力として迅衝隊五番隊(隊長宮崎合介)・同十二番隊(隊長谷口伝八)・
断金隊の3個小隊が待機しており、総戦力13個小隊と砲兵隊で今市宿を文字通り四方するようにして布陣していた。
谷口伝八(融通無碍/人物評伝)板垣退助と断金隊(融通無碍/関連話)板垣自身は上記の通り5日夜の時点で、会幕連合軍の動きをある程度は把握していたものの、5月1日の会幕連合軍浅田隊による日光攻撃の件もあり、今市宿の全周囲布陣の体制を崩す事は出来ませんでした。そのような意味では5月1日の攻撃は陽動作戦としては十分成功したと言えると思います。
このように土佐藩兵が今市宿の全面守備を続ける中、今市宿の東側関門方面に会幕連合軍が殺到します。
前回の第一次今市宿攻防戦の時とは違い、今回は全戦力を東側関門に投入している為、兵力で大きく上回る会幕連合軍は土佐藩兵の防戦を圧倒し、東側関門に肉薄します。
しかし前回の戦い以降、土佐藩兵は今市宿の陣地構築を更に進め、さしづめ本戦時の今市宿は半ば要塞化しており、第一次今市宿攻防戦時とは異なる様相を見せていました。
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この為に土佐藩兵の抵抗を圧倒したとは言え、強化された胸壁を突破するのは難しく、会幕連合軍も土佐藩兵の抵抗を圧倒しつつも陣地を突破出来ないでいました。
一方の土佐藩兵を率いる板垣もまた判断に悩んでいました。今の戦況が続けば東側関門を突破されるのは時間の問題なものの、会幕連合軍の別働隊を警戒して、他の戦線から援軍を向かわせる事も出来ない状況だったのです。実際小百村を守っていた青龍寄合2番隊が南下して瀬尾村周辺に進出したり、茶臼山に布陣していた猟師隊も山を降りて、大谷川を挟んで土佐藩兵の北川守備隊と対峙するなどの動きを見せた為、板垣も迂闊に他の戦線から兵を引き抜いて東側関門の援軍に向かわす事は出来ませんでした。
このように戦局としては会幕連合軍優位で進んだものの、
正午頃まで半ばこう着状態が続く事になります。特に板垣としては正午には宇都宮城から援軍が駆け付け、今市宿守備隊と挟撃する腹づもりだったものの、援軍が一向に到着しない事に次第に焦りを募らせる事になります。
しかし焦りを募らせているのは大鳥も同じで、予備戦力の第2大隊を前線に投入するかで悩んでいました。前線からは第2大隊を投入するようにとの声が届いていたものの、第2大隊を前線に投入した場合、正に板垣が目論んでいた新政府軍の別働隊が現れても対応が出来ない為、大鳥としては躊躇していたものの、
沼間守一等の要請に遂に折れ、第2大隊を東側関門の攻撃に投入します。自分達の出番を今か今かと待っていた第2大隊は、沼間や瀧川充太郎・大川正次郎の指揮の元で勇敢に奮戦し、東側関門の防備はもはや風前の灯火と化したのです。
沼間守一この劣勢を受けた板垣は、遂に今市宿守備の土佐藩兵のみで事態の打開を決断します。幸いにも、土佐藩兵の苦戦を知った日光在陣の彦根藩兵から2個小隊が援軍に駆け付けたため(もう1個小隊は大谷川を渡河し、小百村を襲う姿勢を見せます)、板垣はこの彦根藩兵に西側関門の守備を任せ、これによって生じた余剰戦力を持って反撃を試みます。まず西側関門の守備に当っていた吉松の8番隊の半小隊と断金隊の半小隊を、平ヶ崎村・千本木村・吉沢村と迂回させ、例幣使街道を超えて会幕連合軍の左翼の後方に回り込むように指示します。また山地忠七の7番隊は、この迂回部隊の左を進み直接例幣使街道から会幕連合軍の左翼を攻撃するに指示しします。
かくして会幕連合軍が東側関門を突破しようとしていた今正にその時の
午後二時頃、土佐藩兵の迂回部隊が会幕連合軍の左翼に襲い掛かります。この土佐藩兵の奇襲を受けた朱雀士中2番隊が瞬く間に崩れ去り、更に主力の第2・第3大隊の左側面に攻めかかった為、それまで怒涛の攻撃を続けていた会幕連合軍の攻勢も遂に止まる事になります。更に彦根藩兵1個小隊の進出により、青龍寄合2番隊と猟師隊の動きも拘束された事を受けた板垣は、今市宿の北側を守っていた小笠原の3番隊と谷の4番隊を前進させ、会幕連合軍の右翼を襲わせます。かくしてそれまでの攻守が入れ替わり、土佐藩兵が会幕連合軍を両翼包囲する状況となります。この土佐藩兵の反撃により、会幕連合軍には死傷者が続出し、第3大隊長の米田桂次郎が重傷を負うなど、士官でも死傷者が続出しました。
森友村で指揮する大鳥としては、ここで予備戦力を投入して戦線の建て直しを計りたかったものの、前述の通り既に予備戦力の第2大隊を前線に投入してしまっていたため、崩れ去る自軍の両翼を黙って見逃す事しか出来ませんでした。大鳥にとっては更に悪い事に、
午後3時頃には板垣待望の高屋左兵衛率いる増援軍が、日光街道を進軍し大鳥の後方に現れます。宇都宮守備に当っていた迅衝隊14番隊(隊長桑津一兵衛)に同行をせがまれた為、戦場に到着するのが遅れた高屋率いる増援軍だったものの、14番隊を加えた事により、戦力は増強され3個小隊(14番隊・15番隊・
胡蝶隊)及び半砲兵隊となっていました。
前述の通り本部要員くらいしか居ない大鳥の司令部は、この高屋率いる増援軍の攻撃を受けると一たまりも無く崩れ去り、
午後四時頃、大鳥自身も命からがら大谷川を渡河して敗走する事により、会幕連合軍はまず本営が壊滅する事になります。
土佐藩兵に両翼包囲されつつも、それまで何とか戦線を保っていた会幕連合軍だったものの、後方の本営が壊滅した事により、言わば裏崩れとなりました。前面・左右両翼・後方から攻撃された会幕連合軍にはもはや組織的な撤退は出来ず、各自がてんでばらばらの状態で敗走する事になり、第3代隊長の米田を始め、士官でも多くの死傷者を出して敗走します。前線で指揮していた沼間は、この裏崩れに対して大鳥を批判するものの、流石の沼間にもこの裏崩れを止める事が出来ず、結局沼間もまた敗走する事になりました。
●石川安次郎著「沼間守一」に、
「大鳥は敗走して行く所を知らすと、須藤大ひに驚き、再び沼間隊の苦戦せる所に赴き、大鳥の既に敗走せるを告ぐ、沼間大ひに憤慨して曰く、大鳥何者ぞ、我が戦機を誤れりと、直ちに速退の令を下し、大谷川を乱れて走る」との記述があります。
尚、沼間はこの敗戦で余程大鳥に腹を立てたらしく、第二次今市宿攻防戦後に部下を率いて大鳥の元を去り、庄内藩へ向かいます。
土佐藩兵は敗走した会幕連合軍を追って、大谷川を渡河しての追撃を試みたものの、増水した大谷川を渡河する事は出来ず、暫くは大谷川越に銃砲撃を行っていたものの、
午後五事頃には雨がまた降ってきた為、これ以上の攻撃を諦め今市宿に後退します。
一方、命からがら大谷川を渡河して戦線を脱出した会幕連合軍は損害があまりにも多く、もはや攻勢に移る事など出来ず、かろうじて守勢が可能な継戦能力しか有してなかった為、小百村はおろか小佐越村すら保持する事は出来ず、会津西街道沿い隘路の奥地である藤原宿まで撤退します。
これに対し土佐藩兵は
翌日<5月7日>大谷川を渡河し、会幕連合軍が利用した栗原村・大桑宿・小百村・小佐越村等の大谷川北岸・会津西街道沿いの集落を放火して、会幕連合軍がこれらの集落を使用出来ないようにしました。
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<「幕末足軽物語/樋口真吉伝完結編」ではP348>
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慶応4年5月7日
併任の輜重奉行・久万氏が到着する。
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慶応4年5月8日
雨、壬生に在留していた小荷駄の総勢が真吉のいる今市に着く。小百<こもも>(日光市小百)にいた賊の兵舎を焼く。
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慶応4年5月9日
大桑(日光市大桑)の賊兵舎を焼き捨てる。
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《今市宿攻防戦/余話③<とあるブログより/引用>》
こうして凡そ2ヶ月もの間、今市宿を巡って2度もの激戦を繰り広げた会幕連合軍と土佐藩兵だったものの、2度の敗北により、もはや会幕連合軍には隘路から進出して攻勢に転じる余力はありませんでした。
そして2度の勝利を収めた土佐藩兵もまた、会幕連合軍が隘路から出てくる事はないと判断すると、これまで在陣した今市宿を引き払い、
伊知地正治が守る白河城の増援の為に、白河城に転進します。
伊知地正治尚、板垣退助は会幕連合軍に隘路から出てくる余力はないと判断したものの、継戦能力を失った訳ではなく、地形の複雑な隘路内に攻め込むのは危険と、後任の佐賀藩兵に告げるものの、板垣退助の判断が正しかった事を佐賀藩兵は身を持って知る事となるのです。
第一次今市宿攻防戦の敗戦を受けた大鳥は、その作戦を反省し、沼間の建策を受け入れて今市宿東側に兵力を一点集中しての攻撃を行います。その攻撃に先立ち今市宿西方の日光への陽動作戦を行い、土佐藩兵の注意を西方に向かわしての作戦実施だった為、今市宿東側に集中攻撃を受けても、土佐藩兵を率いる板垣も中々他の戦線の兵を東側に送る事が出来ませんでした。これに対して戦力の集中により、兵力面でも優勢となった会幕連合軍は東側関門を突破寸前に追い込むなど、前回の反省を踏まえた大鳥の作戦は、土佐藩兵を凌駕したと言えるのではないでしょうか。
しかしそれにも関わらず、結局会幕連合軍が今市宿東側関門を突破出来なかったのは、やはり「火力面で土佐藩兵に劣っていた」のを克服出来なかったと言えましょう。戦力の集中により、東側関門を巡る戦いでは、兵力的に優勢となった会幕連合軍とは言え、対する土佐藩兵が篭る今市宿も、第一次今市宿攻防戦後更に強化され、半ば要塞化の域に達していました。幾ら兵力で凌駕していたとは言え、ゲベール弾やヤーゲル弾を使用する会幕連合軍では、この要塞化された今市宿の防衛ラインを突破する事は出来ず、結局会幕連合軍の攻勢は力尽きたのです。
一方土佐藩兵の勝因としては、上記の通り「火力面の優勢」と「今市宿の要塞化」は勿論の事ですが、この第二次今市宿攻防戦では、土佐藩兵を率いる板垣退助の決断力が勝敗に与えた影響が大きかったと言えましょう。
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《融通無碍》
「火力面の優勢」と「今市宿の要塞化」は、樋口真吉の輜重隊の活躍によるところが大きい。
火力については、
土佐藩は江戸の砂村(江東区)にあった土佐藩邸で職人(刀工)を集めて輸入品の西洋銃を元に新式銃を製造していた。(「幕末足軽物語/樋口真吉伝完結編P206」より)
また、土佐藩迅衝隊が土佐を出発する直前には、坂本龍馬(海援隊)がスペンサー銃1000挺を長崎から土佐へ持ち込んでいる。また、中岡慎太郎(陸援隊)も土佐藩命によりアルミニー銃を購入している。

さらに真吉自身も横浜でアメリカの商人から最新式の16連発銃を、スイツ(=スイス)の時計商人・
James Favre-Brandtから頻繁に購入している。
James Favre-Brandt(融通無碍/人物評伝)真吉、10連発銃を買う(融通無碍/関連話)
1865年型ガトリング砲
軍資金については、真吉が江戸城に登城し官軍の実質的な指揮官・
大村益二郎と直接談判をしている。
真吉は軍資金不足を直訴する。
「手持ちの金では一月<ひとつき>半がやっとだ、天金がもらえないと負ける。」
その答えに大村益二郎は
「降心(=安心)いたされよ。これ以後は兵事の差し支えに及ぶことは決してない。」
大村益二郎から最高の言質を得て、安堵と満足に浸りながら、真吉は奥州戦線に出陣することになる。
大村益二郎(融通無碍/人物評伝)また、戦闘に必須の軍夫の不足については、その募集のため本藩(高知)に派遣されることになり、戦闘真っ最中の1ヶ月足らずの間に600人余の兵士・軍夫と武器弾薬を英国の蒸気船を借り上げて戦場に運び込んだ。兵は(下士で構成された迅衝隊の活躍に触発された)上士が殆どで、かれらで編成された『胡蝶隊』と呼ばれる兵団であった。
真吉、人集めのため奔走する(融通無碍/関連話)==========
戦闘前日に部下に語った通り、板垣退助としては高屋率いる増援軍が到着するまでは守勢に徹し、増援軍が到着次第反撃に転ずると言う構想を抱いていた模様です。その構想通り緒戦から防戦に徹していた土佐藩兵だったものの、予定していた時間になっても一向に増援軍は到着せず、逆に大鳥が予備戦力である第二大隊を投入した事により、東側の関門は陥落寸前に陥りました。
もしこの時板垣退助が前日の構想に拘り、増援軍が到着するまで守勢を続けていたら今市宿も陥落した事でしょう。
しかし板垣退助はこの苦しい戦況の中、彦根藩兵の援軍により余裕が出た戦線から兵力を抽出し、この余剰戦力に会幕連合軍の左翼を包囲させる事により、戦局を逆転させる事に成功します。
更にはようやく到着した増援軍と挟撃する事により、会幕連合軍を壊滅させたのです。
そのような意味では、「火力面の優勢」と「今市宿の要塞化」が土佐藩兵勝利の要因だったのは間違いないものの、最後に勝敗を分けたのは板垣退助の軍略的決断だったと言えるのかもしれません。
後年天才的野戦軍司令官と称される板垣退助ですが、この第二次今市宿攻防戦での決断が、板垣退助の評価に与えた影響は大きいと思われます。
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《融通無碍》
板垣退助考**************
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元高知県知事橋本大二郎氏
南寿吉先生の遺作(高知新聞/2021.7.2)2025.11.05.12.00.