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土佐の森・文芸 融通無碍
真吉日記に登場する人々
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<令和7年9月5日発信>
【第57話】
真吉日記に登場する人々
届かなかった手紙
龍馬を見抜いた男 樋口真吉伝
南寿吉著(発行/有限会社テラ)
第一章 真吉の生きた時代
第二章 幡多の志士・樋口真吉
第三章 西洋砲術の導入
第四章 龍馬と真吉の出逢い
第五章 激動の時代
第六章 龍馬赦免、伊豆下田に吹いた神風
第七章 勤王党弾圧・雌伏の時代
第八章 届かなかった手紙
龍馬を見抜いた男 樋口真吉伝(平成23年度高知県出版文化賞/2011.3.15発行)

幕末足軽物語 樋口真吉伝 完結編
南寿吉著(発行/テラ・ハウス)
第一章 幕末足軽物語一
第二章 幕末足軽物語二
第三章 幕末足軽物語三
第四章 真吉九州へ、大石流の免許皆伝
第五章 免許皆伝~九州から高知そして中村へ
第六章 鎮西再遊
第七章 鎮西再遊と砲術
第八章 大坂への旅
第九章 鎮西三遊
第十章 真吉の結婚決まる
第十一章 長崎行き
第十二章 銃用自他
第十三章 日本漫遊~九州・江戸・土佐
第十四章 息子、鵬丸を失う
第十五章 砲術その他、遣捲録
第十六章 慶応四年戊辰戦争従軍~帰高まで
最終章 大名小路・明治三年(1870)
幕末足軽物語/樋口真吉伝完結編(リーブル出版/2021.6.10発行)ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
樋口真吉(1815~1870)

幕末足軽物語の主人公は樋口真吉という男である。
幕末の混乱期を生き抜き、明治新政府の基礎の固まらない明治3年、路上に死体をさらされることなく戦死することもなく、畳の上で死んだ。
その生涯は今まで世に知られることはなかった。
為したことは大きいのに何故埋もれたのか。
彼の思いと行動を知ってもらおうとの思いから、南寿吉氏が世に出したのが「幕末足軽物語」である。
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幕末足軽物語/融通無碍/人物評伝樋口真吉の生涯には、縦糸と横糸が織りなすように、よく知られる数々の著名人、そしてまったく無名の人々が絡んでいる。
幕末足軽物語(真吉日記)に登場する人々を落ち穂拾い的に取り纏めた。延べ300名を越えた。
しかし、日記には人物評伝の手がかりすらない<ほとんどが真吉のトモダチであろうが>まったく無名の人々が数多く登場している。(再々編集人/山藤花)
人物評伝のこと(融通無碍/第54話) 幕末足軽物語/人物評伝 ・・・・・・・・・・・・
坂本龍馬(1836~1867)
樋口真吉(1815~1870)
坂本龍馬真吉と龍馬の最初の出逢いは、嘉永3年まで遡る。その時、竜馬16歳、真吉36歳。
出逢いの場所は、幡多(土佐中村)の四万十川。
真吉と龍馬の出逢い(融通無碍/関連話) <「幕末足軽物語樋口真吉伝完結編」ではP83>
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連年の水害
嘉永2年、天候が不順で大雨が幡多に大惨事を引き起こした。5月1日から5日間降り続いた雨が洪水となり町仲水浸しとなる。
二月<ふたつき>経って、7月9日は大風雨、翌日も続いて猛烈な北東の風が樹木をなぎ倒す。さらに翌々日11日になっても風雨は止まない。四万十川は大洪水、堤防が決壊した。
その結果、中村の小姓町(市街地の平均的な海抜高にある区域)で、水位は地上四尺五寸(135cm)に達したから町の過半が水没した。
四万十川は暴れ川(融通無碍/関連話)四万十川流域の被害は甚大であった。
土佐藩も民の窮状を座視できず、罹災後わずか一週間で藩の米蔵を開け備蓄米を避難民に施し、さらに、翌年(嘉永3年)には、藩の直営工事として(真吉が足軽として勤務する幡多奉行所が所管)、四万十川の崩れた堤を修復することになった。
この四万十川の河川改修工事の現場監督として、龍馬がはるばる高知からやってきたという伝承がある。

龍馬が「四万十川に来た」という、いわゆる「一次資料」は無い。
しかし、維新土佐勤王史(瑞山会編纂)にその記述があり、それを根拠に『竜馬の四万十川伝説』が生まれた。
竜馬の四万十川伝説 (融通無碍/関連話)======
[融通無碍]
坂本龍馬考(幕末足軽物語/関連話)・・・・・・・・・・・・
吉田東洋(1816~1862)
樋口真吉(1815~1870)
吉田東洋<「幕末足軽物語樋口真吉伝完結編」ではP166>
(真吉は)参政・吉田東洋氏に上書を提出する。
吉田東洋に提出した上書(融通無碍/関連話)======
[融通無碍]
吉田東洋考(幕末足軽物語/関連話)・・・・・・・・・・・・
武市半平太(1829~1865)
樋口真吉(1815~1870)
武市半平太<「幕末足軽物語樋口真吉伝完結編」ではP163>
文久元年9月3日、武市半平太が江戸を発し、土佐に帰国する。(と聞いた)
この日、真吉は土佐藩の下級官吏(足軽)として高知城下におり、日記(遣倦録)に武市半平太の帰国を記録している。
真吉の日記「遣倦録」は、武市半平太が江戸から土佐に帰国するところに始まり、慶応3年2月山内容堂に随伴して混迷の京都に上るところで終わっている。
日記:遣倦録(融通無碍/第30話) ======
[融通無碍]
武市半平太考(幕末足軽物語/関連話)・・・・・・・・・・・・
佐々木高行(1830~1910)
樋口真吉(1815~1870)
佐々木高行<「幕末足軽物語樋口真吉伝完結編」ではP288>
真吉は佐々木高行(=三四郎)に相談して、中岡慎太郎傘下の浪士達を白川邸(土佐藩京都藩邸)に入れる。長崎の龍馬・海援隊と並び称される
陸援隊の誕生である。
陸援隊(幕末足軽物語/関連話)======
[融通無碍]
佐々木高行考(幕末足軽物語/関連話)・・・・・・・・・・・・
福岡孝弟(1835~1919)
樋口真吉(1815~1870)
福岡孝弟(藤次)<「幕末足軽物語樋口真吉伝完結編」ではP157>
嘉永5年5月から翌年3月までの長期旅行(
日本漫遊の旅)から戻った後、翌4月に偶々<たまたま>高知のお城下から公務で中村に来た上士・福岡藤次(=孝弟)が旅宿に真吉を招く。
日本漫遊の旅(融通無碍/第12話) ======
[融通無碍]
福岡藤次考(幕末足軽物語/関連話)・・・・・・・・・・・・
谷干城(1837~1911)
樋口真吉(1815~1870)
谷干城<「幕末足軽物語樋口真吉伝完結編」ではP187>
文久2年9月1日、真吉は「西国筋探索御用」を命じられた。この西国探索は肥後・熊本藩を朝廷側に引き寄せるための工作活動で、三条実美公から熊本藩主への直書(密書)を携行する。正使は若輩の上士・谷守部(後の谷干城)で、熟年の下士・真吉は副使、付添いのような立場であった。
谷干城と二人旅/西国筋探索御用(融通無碍/関連話)======
[融通無碍]
谷干城考(幕末足軽物語/関連話)・・・・・・・・・・・・
板垣退助(1834~1863)
樋口真吉(1815~1870)
板垣退助<「幕末足軽物語樋口真吉伝完結編」ではP343>
総督・板垣退助の英断もあっただろう。日光東照宮という文化財はその後の戦火も免れて現在に至る。世界文化遺産である。
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[融通無碍]
板垣退助考(幕末足軽物語/関連話)・・・・・・・・・・・・
後藤 象二郎(1848~1897)
樋口真吉(1815~1870)
後藤象二郎<「幕末足軽物語樋口真吉伝完結編」ではP285>
慶応3年7月4日、坂本龍馬が後藤象二郎氏の見送り(大政奉還の最終調整)のため大坂に行く。(その後、長崎で海援隊の隊員が英国人を殺害した事件<
イカルス号事件>)に関連し、龍馬も急遽、高知に出向くことに。)
イカルス号事件<英国水兵殺害事件>(融通無碍/関連話)イカルス号事件の処理で土佐に乗り込んできた英国公使パークスとの交渉で時間を消耗したが、後藤象二郎は大政奉還への努力を続け、10月3日に山内容堂とともに連署して大政奉還建白書を提出した。
後藤象二郎の長崎物語(融通無碍/第44話)・・・・・・・・・・・・
中岡慎太郎(1838~1867)
樋口真吉(1815~1870)
中岡慎太郎<「幕末足軽物語樋口真吉伝完結編」ではP300>
慶応3年11月15日、この夜、才谷梅太郎(坂本龍馬)の宿へ横山勘蔵(中岡慎太郎)が行き(2人で)談話中のところに下婢が「度津川人の手紙が来ました」と言いながら(2人のいる)2階に上がり来たる。両人がその書を燈火に閲する時、賊2人が襲来して矢庭<やにわ>に両人に斬り掛かる。
真吉日記・日新録<龍馬・慎太郎暗殺の日>(融通無碍/関連話)
龍馬と慎太郎が暗殺された夜、真吉は京都の土佐藩邸にいた。
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[融通無碍]
中岡慎太郎考(幕末足軽物語/関連話)・・・・・・・・・・・・
岩崎弥太郎(1835~1885)
樋口真吉(1815~1870)
岩崎弥太郎<「幕末足軽物語樋口真吉伝完結編」ではP182>
文久2年8月21日、土佐稲荷神社に参る予定があったが東邸の訃報(山内家の分家・豊道が8月12日に歿した)が届いたため御延引になる。
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[融通無碍]
真吉には、藩主・山内豊範の病気(麻疹)平癒を祈願するための稲荷神社へ参拝、あるいは快気の御礼参りの予定があったようだ。
土佐稲荷神社は長堀川畔の土佐藩蔵屋敷に古くから鎮座していた。山内氏は参勤交代で大坂を通る際には必ず参拝し、社殿の修繕は藩費で行われた。
明治初年、土佐藩蔵屋敷とともに岩崎弥太郎に譲り渡された。岩崎弥太郎は当地で事業を営み三菱財閥の発祥の地となった。で、土佐稲荷神社は三菱グループの守護神になっている。

土佐稲荷神社(大阪市西区北堀江)
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吉村虎太郎(1837~1863)
樋口真吉(1815~1870)
吉村虎太郎<「幕末足軽物語樋口真吉伝完結編」ではP235>
文久3年8月23日、鶏鳴、京報が初めて届く。18日発出だ。8月18日の京での政変の報せが届いた。京での政変勃発とその影響を報告する使いが続々と高知に帰って来る。
文久3年8月27日、3度目の京報が到る。中山源太兵衛が持ってきた。「幕命を待たずに掃攘(追い払え)」との勅書が到る。
真吉が京報で知った「8月18日の政変」に連動して、吉村虎太郎の大和義挙(天誅組の変)が勃発していた。
8月18日の政変(融通無碍/関連話)天誅組始末記(東吉野村HPより)・・・・・・・・・・・
池内蔵太(1841~1866)
樋口真吉(1815~1870)
池内蔵太<「幕末足軽物語樋口真吉伝完結編」ではP384>
明治2年3月7日、長府を発す。壇の浦には砲台もあった。御裾川が流れている。九州の小倉台は僅か八丁(800m)しか離れていない。この地は地形が要害となるから守備には適地だと思う。馬関に入る。伊勢屋に泊。
佐々木男也を訪うて、龍馬と行動をともにしていた
池内蔵太のことを聞く。
馬関にて(融通無碍/関連話)・・・・・・・・・・・・
間崎哲馬(1834~1863)
樋口真吉(1815~1870)
間崎哲馬<「幕末足軽物語樋口真吉伝完結編」ではP229>
文久3年6月8日、昨夜、弘瀬健太と平井収二郎と間崎哲馬が賜死(切腹)した。
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平井収二郎(1835~1863)
樋口真吉(1815~1870)

NHK大河ドラマ龍馬伝(竜馬<福山雅治>と加尾<広末涼子>と平井収二郎)
馴しミ国の 春なわすれそ(NHK動画)平井収二郎<「幕末足軽物語樋口真吉伝完結編」ではP178>
文久2年7月23日、竜馬に逢う。一円贈る。
平井収二郎は京に帰る。
壬戊日記には「市中に於いて竜馬に逢い、一円を与えて別れる」とある。
竜馬に逢う 一円贈る(融通無碍/関連話)・・・・・・・・・・・・
岡本健三郎(1842~1885)
樋口真吉(1815~1870)
岡本健三郎<「幕末足軽物語樋口真吉伝完結編」ではP299>
慶応3年10月24日、才谷梅太郎(=坂本龍馬)が下横目・岡本健三郎に見張られながら越前に行く。
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安岡亮太郎(1825~1876)
樋口真吉(1815~1870)
安岡亮太郎<「幕末足軽物語樋口真吉伝完結編」ではP347>
慶応4年5月朔日、真吉が、高知から英国船籍のミアカに乗せて来た砲隊がこの夜、千住まで進む。
慶応4年5月3日、安岡亮太郎(=真吉の中村・樋口道場門人、一番弟子)が江戸に行く。真吉の命で砲隊の受入れか。
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池道之助(1821~1876)
樋口真吉(1815~1870)
池道之助<「幕末足軽物語樋口真吉伝完結編」ではP356>
池道之助という人物がいる。ジョン万次郎と同じく幡多・中の濱生まれの裕福な郷士。真吉の弟子でもあったが、万次郎が後藤象二郎らと蒸気船と帆船を購入するため長崎へ行った際には万次郎の推選で同行した。
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清岡道之助(1833~1864)
樋口真吉(1815~1870)
清岡道之助<「幕末足軽物語樋口真吉伝完結編」ではP255>
元治元年7月26日、清岡道之助ら二人が野根山に立て籠もり、国事(藩政に関わる箏)を嘆願するに及んで高知城下の御侍中(上士以上の者)が大いに動揺する。それぞれ槍を持って御屋敷を警護して郭中(城近く上士達の住む区画、下士はそれを取り囲むような地域に住んだ。真吉の住む小高坂もその一部)を巡回する。続いて3,4百人にも及ぶ討伐隊(足軽など下士中心で編成)が東に行く。
野根山二十三烈士(融通無碍/関連話)・・・・・・・・・・・・
清岡半四郎(1841~1901)
樋口真吉(1815~1870)
清岡半四郎<「幕末足軽物語樋口真吉伝完結編」ではP357>
慶応4年6月29日、真吉は江戸城に登城して、正五位を叙位されている土佐出身の高官・清岡半四郎に面会する。かれは官軍の実質的な指揮官・大村益二郎と真吉をひきあわせた。
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ジョン万次郎(1827~1898)
樋口真吉(1815~1870)
ジョン万次郎<「幕末足軽物語樋口真吉伝完結編」ではP354>
慶応4年6月28日、真吉は、この日(江戸深川・砂村の土佐藩下屋敷に住む)中浜万次郎を招いて飲む。
真吉とジョン万(融通無碍/関連話)======
[融通無碍]
ジョン万次郎考(幕末足軽物語/関連話)・・・・・・・・・・・・
山内容堂(1827~1872)
樋口真吉(1815~1870)
山内容堂<「幕末足軽物語樋口真吉伝完結編」ではP210>
文久3年1月15日、伊豆下田・宝福寺で行なわれた土佐藩主山内容堂と幕臣・勝海舟(麟太郎)との会談で坂本龍馬は前年3月に犯した脱藩の罪を許された。赦免である。
伊豆・下田でのこと(融通無碍/第4話)======
[融通無碍]
山内容堂考(幕末足軽物語/関連話)・・・・・・・・・・・・
北添佶磨(1835~1864)
樋口真吉(1815~1870)
北添佶磨<「幕末足軽物語樋口真吉伝完結編」ではP250>
元治元年6月5日,池田屋騒動が起きた。京都の池田屋に集まった勤王の浪士達を会津藩の指揮下にあった新撰組が事前に集合情報を入手、襲撃した事件。
午後10時ごろに戦いは始まって浪士側は9人死亡、6人が捕縛された。土佐藩の北添佶磨はその場で惨殺され、望月亀弥太は脱出しようと必死で新撰組の隊員に斬りこみ逃亡。望月は負傷しつつも長州藩邸付近まで逃げ延びたが、長州藩邸には入れず追っ手に追いつかれ自刃した。
池田屋事件(融通無碍/関連話)・・・・・・・・・・・・
渡辺弥久馬(1822~1881)
樋口真吉(1815~1870)
渡辺弥久馬<「幕末足軽物語樋口真吉伝完結編」ではP297>
慶応3年9月、龍馬は長崎で買い込んだ大量の新式銃を芸州藩から借入れた蒸気船を使って土佐まで送る計画で長崎を出発した。四国の西南端の足摺岬を回り高知の浦戸湾に船を停泊。
土佐藩は平和路線(大政奉還)を取っているも、薩摩とも武力倒幕の密約も結んでおり、事態はどう転ぶか予測できない。和にしろ戦にしろ武器は必要だった。
龍馬は土佐藩家老・渡辺弥久馬と接触して好感触を得たから、直接交渉に踏み切り、五台山下の料亭で懇談。結果、土佐藩の銃購入が決まった。
渡辺弥久馬は龍馬に帰宅を勧める。脱藩以来初めての帰宅だった。銃の売却代金の他に謝礼も追加され、自宅で開かれた龍馬帰郷の祝いの席で、姉・乙女らに気前良く分け与えた。
龍馬 最後の帰郷(NHK動画)・・・・・・・・・・・・
本山只一郎(1826~1887)
樋口真吉(1815~1870)

本山只一郎宛の坂本龍馬 書状(霊山歴史館蔵<京都東山>)
本山只一郎(融通無碍/人物評伝)<「幕末足軽物語樋口真吉伝完結編」ではP313>
◆土佐に錦旗が授与された
慶応4年1月13日、真吉は錦旗を守護して本藩に帰る予定で動き始める。
土佐に錦旗が授与された(融通無碍/関連話)その一行は大監察・本山只一郎、小監察・伴周吉、徒監察・樋口真吉。その余は吉川捨吉、下横目・吉永良吉、濱田清蔵、本山左近九郎、脚子(足軽の意か)武市慶七、池本傳助、友松鏆兵衛など12人、京師を発して伏見で乗船し夜八頃(26時)大坂に着く。
同14日午後出発し同夜九つ過(24時過ぎ)神戸に着、過日ここを備前侯一行が通行の際、夷人が不敬(無礼)を働き、備前藩兵が怒って斬り捨てたから、通行門が閉ざされ不通(通行止め状態)で、夷人館の西側にある細道を通ることにした。
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徳川慶喜が賊軍として討伐の勅が下ると、本山只一郎は土佐藩への錦旗伝達者(責任者)となり、土佐へ向かう。
その途中、神戸でフランス兵に錦旗を櫃ごと奪われるという「錦旗紛失事件」が起きる。
真吉の不断の交渉で取り戻すことができ、無事に
迅衝隊に錦旗を届けた。(歴史にもしも・・・は禁句であるが、もしも錦旗を取り戻せなかったら、本山只一郎は切腹をして果てていただろう。)
錦旗を守り抜いた(融通無碍/関連話)・・・・・・・・・・・・
寺村左膳(1834~1896)
樋口真吉(1815~1870)

土佐藩校の致道館(表門が武道館正門として当時の姿を残す<県重要文化財>)
致道館は吉田東洋が藩政改革構想の大きな柱(文武教育機関)として開校した。教授内容、教授陣選抜にも吉田東洋の意向が色濃く反映され、剣術には樋口真吉が免許皆伝を受けた大石流が新規採択された。
寺村左膳が専任の教授、谷干城が助教(史学)に抜擢された。
<「幕末足軽物語樋口真吉伝完結編」ではP296>
慶応3年10月3日、後藤象二郎と福岡藤次の両氏が建白書(=大政奉還)を閣老・板倉周防守に提出する。
慶応3年10月4日、寺村左膳と神山左多衛が摂政・二条家に同じ内容の建白書を差し上げる。
寺村左膳・・・・・・・・・・・・
山地忠七(1841~1897)
樋口真吉(1815~1870)
山地忠七<「幕末足軽物語樋口真吉伝完結編」ではP205>
文久2年11月、長州藩の江戸蒲田・梅屋敷でおこなわれた宴席でのこと。長州藩士が酔って土佐の老公(=山内容堂)を痛罵した。この暴言に同席していた土佐家臣連山地忠七、小笠原唯八、林亀一、諏訪助左衛門が激怒して抜刀騒ぎとなった。
梅屋敷騒動(融通無碍/関連話)
梅屋敷騒動(この絵巻物は、周布政之助に暴言を浴びせられた土佐藩の諏訪重中が事件を語る際に作ったものとされている。/坂本龍馬記念館HPより)
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溝淵広之丞(1828~1909)
樋口真吉(1815~1870)

海援隊・左から2人目が溝淵広之丞(他に左から長岡謙吉、坂本龍馬、山本洪堂、千屋寅之助、白峰駿馬)
溝淵広之丞慶応2年、土佐藩は藩政改革・近代化を目論んで後藤象二郎ら視察団を長崎に派遣、さらに上海まで足を延ばし海外貿易を研究、土佐帆船「夕顔丸」などを購入した。この出張には谷干城、ジョン万次郎、池道之助らが同行している。
この時、長崎では溝淵広之丞の仲介で、後藤象二郎が初めて亀山社中の坂本龍馬と会談している。そのあと、後藤象二郎は亀山社中を土佐藩の組織に取り込み「海援隊」と改編した。
清風亭会談(幕末足軽物語/関連話)・・・・・・・・・・・・
石田英吉(1839~1901)
樋口真吉(1815~1870)
石田英吉<「幕末足軽物語樋口真吉伝完結編」ではP274>
慶応2年6月3日、長州を攻撃するため幕府軍が出発する。第二次長州征伐だ。
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第二次長州征伐(四境戦争・長幕戦争)では、小倉藩への渡海作戦において坂本龍馬とともに参戦、ユニオン号(艦長は千屋寅之助)に砲手長として乗り組み、戦果を挙げた。
伏見戦争が起こると幕府の長崎奉行が江戸へ逃走したので、土佐藩の大目付/大監察・佐々木高行とともに海援隊士らと長崎奉行所に入り、長崎裁判所として長崎の治安維持を担った。
その後の戊辰戦争では、長崎振遠隊を結成して隊長となり、海援隊の同志・千屋寅之助らと
秋田戦争に官軍として従軍した。
秋田での戊辰戦争秋田の戊辰戦争・・・・・・・・・・・・
佐井寅次郎(1842~1871)
樋口真吉(1815~1870)

墓石/高知県高知市三ノ丸
佐井寅次郎<「幕末足軽物語/樋口真吉伝完結編」ではP261>
元治元年10月朔日、佐井寅次郎が金受取り(活動資金か)に幡多郡へ行く。
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小笠原唯八(1829~1868)
樋口真吉(1815~1870)
小笠原唯八
<「幕末足軽物語/樋口真吉伝完結編」ではP337>
慶応4年4月14日、前日に配置した三門警備の兵を引き上げた。小笠原唯八が京都に帰る。
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<「幕末足軽物語樋口真吉伝完結編」ではP374>
慶応4年9月26日、小笠原彦彌(八吉)が足軽一人を従え御使者として高知に派遣された。小笠原彦彌は
小笠原三兄弟の末っ子である。兄二人(小笠原唯八、小笠原謙吉)は若松城の攻防で同じ日に戦死したから、高知派遣は小笠原家廃絶を防ぐため迅衝隊幹部による温情であったか。
小笠原三兄弟(融通無碍/関連話)・・・・・・・・・・・・
樋口甚内(1822~1869)
樋口真吉(1815~1870)
樋口甚内
樋口甚内は長崎の五島列島にいた(「幕末足軽物語樋口真吉伝/完結編」ではP70)
<「幕末足軽物語樋口真吉伝完結編」ではP221>
文久3年3月9日、弟・甚内が来る。国許(中村と思われる)を2月17日に出て甲浦で乗船、3月7日夜着坂した。淀舟に乗って大坂から伏見へ、この日の午前に京都土佐藩邸の兄に姿を見せた。樋口兄弟が再会を喜ぶ姿が見えるようだ。7歳下の弟、兄と言うより父親気分の真吉。
「お雇いを以って御臨時御用、立ち帰り差し立てらる。よって三人扶持高、御補<おぎない>として金八両を成し遣わさる」という辞令で京に来た。
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田所左右次(1812~1873)
樋口真吉(1815~1870)
樋口真吉伝<「樋口真吉伝」ではP115~116>
田所左右次<「幕末足軽物語樋口真吉伝完結編」ではP88>
嘉永4年7月25日、(砲術の師)田所左右次先生の家に行く。先生言う。
「安芸にある野戦銃をこっちに引き取り、幡多に移送する予定だ。(吹田屋から注文された)大砲の件も大変遅れて申し訳ない。中村がお急ぎだから(高知にある)捨蔵又は大庭氏の所有筒をとりあえず中村に送ることにした。追って新しい大筒が出来次第、それと引き換えることにしよう。現在、捨蔵が所有する筒の値段交渉をしている」
旅日記『銃用自他』より・・・・・・・・・・・・
柏原玄碩(1834~1864)
樋口真吉(1815~1870)

旧柏原医院(安田町/町立の文化施設として利用されている。)
柏原玄碩<「幕末足軽物語/樋口真吉伝完結編」ではP193>
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文久2年10月4日
(高知城下)北奉公人町の医学生・島田洞愿、土佐東部安田浦(現・安田町)の医学生・
柏原玄碩が来た。
両生とも大徳寺境内に逗留して
医学伝習所に学んでいる。真吉の出崎<しゅっき>(長崎に出ること)を知って来訪した。
長崎の医学伝習所(融通無碍/関連話)・・・・・・・・・・・・
安岡金馬(1844~1894)
樋口真吉(1815~1870)
安岡金馬<「幕末足軽物語樋口真吉伝完結編」ではP203>
文久2年11月6日、高知から中岡慎太郎、安岡金馬ら土佐勤王党の郷士ら50人の一行と同宿する。
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江戸へ向かっていた真吉は、桑名の宿で「江戸に在住する隠居・山内容堂の身辺警護」を名目に江戸に向かっていた土佐藩の志士達と出会った。手短に両者は会話を交わしたか。阿吽の呼吸で「すべて了解!」ということか。
五十人組(融通無碍/関連話)<「幕末足軽物語樋口真吉伝完結編」ではP221>
文久3年3月6日、坂本龍馬並びに土居(現安芸市)庄屋助六の二男・安岡金馬の2名が航海術修行を命令される。
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小南五郎右衛門(1812~1882)
樋口真吉(1815~1870)

高知市大川筋
小南五郎右衛門<「幕末足軽物語樋口真吉伝完結編」ではP179>
文久2年8月3日、この晩、小南五郎右衛門氏が江戸に出立する。
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土佐藩・大監察の小南五郎右衛門は山内容堂の意向を確認するため、江戸への急使となった。要件は、沙汰書の件(山内容堂の上洛)、及び大坂に留まっている藩主・山内豊範が入洛(京都に入ること)することについての是非。現藩主・山内豊範は年少ということもあり、実権は全て後見人たる隠居・山内容堂に握られていたから、とりあえずは山内容堂へのお伺いだ。
この使いの結果、小南五郎右衛門は山内容堂から「藩主・山内豊範の入洛」の承認は得たが、「山内容堂の上洛」は曖昧模糊の状況だった。(結果的には、この年の暮れに山内容堂は海路で上洛することになる。)
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土方久元(1833~1918)
樋口真吉(1815~1870)
土方久元<「幕末足軽物語樋口真吉伝完結編」ではP353>
慶応4年6月、戊辰戦争の真っ最中、真吉は迅衝隊の輜重用務で江戸へ来ていた。江戸では、様々な人との接触があった。
26日、土方大一郎(土佐藩上士・後の土方久元)が来る。
27日、大石彌太郎が奥州に戻る。
28日、ジョン万次郎を招いて飲む。
29日、江戸城で、大村益次郎と面談する。
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土方久元は、中岡慎太郎、田中光顕、坂本龍馬らと連係し、
薩長同盟の成立に尽力した。馬関での薩摩・西郷隆盛と長州・木戸孝允との会談を周旋したが、連絡の行き違いにより実現しなかった。
薩長同盟(融通無碍/第38話)
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千屋寅之助(=菅野覚兵衛)(1842~1893)
樋口真吉(1815~1870)
千屋寅之助<「幕末足軽物語樋口真吉伝完結編」ではP209>
文久3年1月15日、伊豆・下田/宝福寺で、前土佐藩主・山内容堂と幕臣・勝海舟(麟太郎)との会談が行なわれた。千屋寅之助はこの会談に、勝海舟の随行者として高松太郎、望月亀彌太とともに同席している。(真吉も立会)

伊豆・下田の宝福寺
伊豆・下田でのこと(融通無碍/第4話)・・・・・・・・・・・・
高松太郎(1842~1898)
樋口真吉(1815~1870)
高松太郎<「幕末足軽物語樋口真吉伝完結編」ではP280>
慶応3年5月12日、石川清之助(=中岡慎太郎)及び高松太郎(真吉と親交のあった安田の髙松順蔵と龍馬の長姉夫婦の間に生まれた子。龍馬の甥にあたる。)と会う。
この日、薩摩と越前と宇和島の三侯が土佐藩邸に来る。山内容堂が二条城での会見(四侯会議)のすりあわせをしたものと思われる。(四侯会議は5月14日に、二条城で開催された。)
四侯会議 (融通無碍/関連話)・・・・・・・・・・・・
沢村惣之丞(1843~1868)
樋口真吉(1815~1870)
沢村惣之丞<「幕末足軽物語樋口真吉伝完結編」ではP305>
慶応4年1月、伏見戦争が始まり、幕府軍が敗北した報に接した長崎奉行・河津伊豆守が長崎を退去、江戸へ逃走した。
これを察知した長崎駐在の土佐藩重役・佐々木高行は、沢村惣之丞ら海援隊士を率いて長崎奉行所を占拠し、長崎の町と港を警備することになった。
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長岡謙吉(1834~1872)
樋口真吉(1815~1870)
長岡謙吉<「幕末足軽物語樋口真吉伝完結編」ではP289>
慶応3年8月5日、英国人を斬った事件(イカルス号事件)は幕府の陰謀であること疑いない。
イカルス号事件(融通無碍/関連話)~~~~~~~~
真吉が日記に記録した「イカルス号事件」、犯人とされたのは海援隊士だった。この日、龍馬は自分が取るべき行動予定を海援隊の(事務局長ともいうべき)長岡謙吉に知らせた。(急遽、高知の須崎で幕府、英国公使、土佐藩、海援隊で談判が行なわれた。)

国宝 - 坂本龍馬関係書状 慶応三年八月五日 長岡謙吉あて/京都国立博物館HPより
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大石彌太郎(1829~1916)
樋口真吉(1815~1870)
大石彌太郎<「幕末足軽物語樋口真吉伝完結編」ではP365>
慶応4年7月29日、先発組は二本松に進む。輜重隊がこの後に続く。二本松まで2里。二本松城主・丹羽左京大夫は城を棄て逃げていたが、徹底抗戦を決意した勢力は大手門外に出て迎え撃つ態勢だ。(戦いが始まった)この戦いで小兵の大石彌太郎が敵と組み打ちとなったがおおかたの予想に反し、大兵の敵を組み敷き見事に首級を揚げた。(城を出て戦ったから)城を占領された敵は逆に大手門を破って侵入し、ついに城に火を放つ。敵は多くの死傷者を出した。真吉が指揮する輜重隊は城中に入り、小憩する。

二本松城
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大石団蔵(1831~1896)
樋口真吉(1815~1870)
大石団蔵<「幕末足軽物語樋口真吉伝完結編」ではP173>
文久2年4月8日、大石団蔵は那須信吾、安岡嘉助と計って、高知城下で土佐藩参政の吉田東洋を暗殺、首級を鏡川河原に晒す。3人はそのまま脱藩して京都の長州藩邸に逃げ込み、久坂玄瑞に保護されている。
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那須信吾(1831~1896)
樋口真吉(1815~1870)
那須信吾<「幕末足軽物語樋口真吉伝完結編」ではP236>
◆天誅組の変(真吉の上書より/文久3年9月11日)
大和義挙(天誅組の変)は放置できない。使者を出し「勅命である。暴行は許されない。追って沙汰あるまで遠慮せよ。その地の寺院に閑居せよ」と命ずべきだ。不束なことがないようきっとせよ。
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文久3年8月、那須信吾は先に土佐藩を脱藩していた吉村虎太郎らと
天誅組の変に参加。大和十津川郷の鷲家口(奈良県東吉野村)で銃撃を受け絶命した。享年35。
天誅組(融通無碍/関連話) 
脱藩/那須俊平と那須信吾
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岡田以蔵(1838~1865)
樋口真吉(1815~1870)
岡田以蔵<「幕末足軽物語樋口真吉伝完結編」ではP271>
慶応元年5月11日
岡田以蔵、久松喜久馬、村田忠三郎、岡本次郎が牢屋において斬首された。
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望月亀弥太(1838~1864)
樋口真吉(1815~1870)
望月亀弥太文久2年10月、望月亀弥太は山内容堂を警護する五十人組に参加。五十人組(中岡慎太郎、千屋寅之助、安岡金馬ら)は徒党を組んで東海道を下り江戸へ。
江戸に向かっていた真吉と、桑名で出会った。手短に両者は会話を交わしたか。阿吽の呼吸で「すべて了解。」
五十人組(融通無碍/関連話)<「幕末足軽物語樋口真吉伝完結編」ではP203>
文久2年11月6日、桑名に宿す。高知から田所島太郎ら50人の一行と同宿する。
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近藤長次郎(1838~1866)
樋口真吉(1815~1870)
近藤長次郎<「幕末足軽物語樋口真吉伝完結編」ではP274>
慶応元年閏5月26日から慶応2年8月まで真吉日記は記録されていない。この空白のとき、
慶応2年1月14日、龍馬不在の長崎の亀山社中で、ユニオン号購入で活躍した近藤長次郎(=上杉宗次郎)が(独断で)英国留学を企てて露見し、自刃させられる事件が起きている。
事件を知らされた龍馬は『手帳摘要』に「術数はあるが誠が足らず。上杉氏(=近藤長次郎)の身を亡ぼすところなり」 と書き残している。
後年、お龍は「自分がいたら、長次郎を殺させはしなかった」と龍馬が嘆いていたと回顧している。
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美正貫一郎(1844~1868)
樋口真吉(1815~1870)
美正貫一郎<「幕末足軽物語/樋口真吉伝完結編」ではP363>
慶応4年7月27日、迅衝隊の2,3,4、6の小隊が小浜(福島県二本松市小浜)に向かって進発した。阿武隈川を渡る時、断金隊小頭・美正貫一郎が日の丸の鉢巻を巻いて濁流に飛び込んだ。川の水は深く、かれの肩が見えなくなるほど。これを見た岸の敵兵が狙撃する。やんぬるかな、一弾がかれを貫いた。姿はついに水仲に没す。享年25。

三春城跡(福島県三春町)
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河田小龍(1824~1898)
樋口真吉(1815~1870)
河田小龍<「幕末足軽物語樋口真吉伝完結編」ではP354/真吉とジョン万>
ジョン万二郎の漂流談を絵入りで紹介した。(
漂巽紀略)
河田小龍(NHK動画)漂巽紀略
漂巽紀畧に描かれているジョン万次郎
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[融通無碍]
河田小龍考(幕末足軽物語/関連話)・・・・・・・・・・・・
片岡健吉(1844~1903)
樋口真吉(1815~1870)
片岡健吉<「幕末足軽物語樋口真吉伝完結編」ではP314>
慶応4年1月18日、午時丸亀に達す。深尾丹波(土佐藩佐川領主で一万石)が本藩から兵隊を約一千人引き連れ川ノ江に宿陣していると聞き、行軍を急がせるためそこに赴く。和田城まで行った時この兵隊たちが来た。土佐藩の
迅衝隊だ。
迅衝隊(融通無碍/第56話)
(前列左から伴権太夫、板垣退助(中央)、谷乙猪(少年)、山地忠七。 中列、谷神兵衛、谷干城(襟巻をして刀を持つ男性)、山田喜久馬<平左衛門>(刀を立てて持つ恰幅の良い男性)、吉本平之助祐雄。 後列、
片岡健吉、真辺正精、西山 榮、北村重頼、別府彦九郎)
迅衝隊の構成
大隊司令・乾退助(のち、板垣と改姓)
半大隊司令・片岡健吉
同・祖父江可成
一番司令・日比虎作、二番司令・野本平吉、三番司令・横田祐造、四番司令・野々村権四郎、五番司令・宮崎合助、真辺戒作、輜重衝司令・平尾左金吾、同・谷口傳八、
大監察・小南五郎右衛門
参政・森権四郎、使役・乾三四郎、同加役・谷神兵衛、
小監察・谷守部(=谷千城)
同・谷兎毛、小頭・土方理左衛門、同・楠山与五郎、徒士とし目付・佐井寅二郎、小荷駄高差配役・村松彦蔵、同・吉田孫蔵、同・波越喜平
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古沢迂郎(1847~1911)
樋口真吉(1815~1870)
古沢迂郎<「幕末足軽物語樋口真吉伝完結編」ではP256>
元治元年8月15日、此の暁<あかつき>(朝焼けの頃)佐川人・伊原応助、濱田辰彌、橋本鉄猪、那須守馬、池大六の5人が佐川から脱走・脱藩した。
佐川組の集団脱藩(融通無碍/関連話)佐川人が禁固処分された。脱藩した5人を除く、岩神主一郎、土方左平、鳥羽健三郎、古沢迂郎、中山刺撃の諸氏が入獄となった。

佐川(高知県佐川町)は仁淀川の中流域にある小京都的な文教の町である。
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田中光顕(=浜田辰彌)(1843~1939)
樋口真吉(1815~1870)
田中光顕<「幕末足軽物語樋口真吉伝完結編」ではP256>
元治元年8月15日
此の暁<あかつき>(朝焼けの頃)、佐川人・伊原応助、浜田辰彌(=田中光顕)、橋本鉄猪、那須守馬、池大六の5人が佐川から集団脱走・脱藩した。
田中光顕らが集団脱藩した時、5人は佐川と越知の境にある
赤土峠に待ち合わせした。決死の誓いをしただろう。

赤土峠(高知県佐川町)

峠は物思いする場所。
人は峠に立ち、来し方と行く末を思う。
峠(最後のサムライ)/司馬遼太郎峠(融通無碍/第7話)・・・・・・・・・・・・
高松順蔵(1807~1876)
樋口真吉(1815~1870)
高松順蔵<「幕末足軽物語樋口真吉伝完結編」ではP161>
真吉が赤岡から高知・吸江に転居したことを知った安田町に住む勤王医師(龍馬の長姉の連れ合い)高松順蔵(号:小埜<しょうや>)は歌を読み真吉に送った。
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島津久光(1817~1887)
樋口真吉(1815~1870)
島津久光<「幕末足軽物語樋口真吉伝完結編」ではP173>
文久2年4月23日、伏見寺田屋の騒動が起こる。薩摩の過激勤王派が、藩主の父親で、後見人である藩父島津久光の命令で惨殺された事件である。
寺田屋に集結した薩摩藩士・有馬新七らが粛清された。藩士同士の惨劇だった。藩主の命の下、一致団結して動くのが家臣団の大原則であったが、ときにこのような悲劇も起きた。
寺田屋騒動 (融通無碍/関連話)・・・・・・・・・・・・
西郷隆盛(1828~1877)
樋口真吉(1815~1870)
西郷隆盛<「幕末足軽物語樋口真吉伝完結編」ではP397>
明治2年4月4日、真吉は薩摩で西郷隆盛と会談をした。10時過ぎ、西郷が来る。談論は2時頃に終わった。
西郷吉之助と談論(融通無碍/関連話)・・・・・・・・・・・・
吉井耕助(1828~1891)
樋口真吉(1815~1870)
吉井耕助<「幕末足軽物語樋口真吉伝完結編」ではP309>
慶応4年1月4日、樋口真吉は伏見戦争で、八幡下(京阪電鉄「八幡市駅」の近くか)を守備していた。鳥羽の土手に登ると薩摩・吉井耕助に会った。聞くと
「今日の戦争、弊藩の戦死者は幸い少々であったが、長州は少ない戦力で難敵に当たったから死傷者が多い。賊はことごとく水西(伏見の西)に逃亡したから、ここには敵は一人もいない。うちの兵も疲れ切っている。ひとまず休息のため帰京するところだ。後の守備をお頼み申す」と言う。
吉井耕助を見送ったあと、土手を下りると勝利した天兵が続々と帰還して来る。樋口真吉は安堵し、伏見を離れる。
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佐藤健之助(1843~1929)
樋口真吉(1815~1870)
佐藤健之助(アーネスト・サトウ)<「幕末足軽物語樋口真吉伝完結編」ではP292>
慶応3年8月15日、佐々木三四郎(=高行)と才谷梅太郎(=坂本龍馬)は本藩高知から夕顔丸に乗船して長崎に行く。
この船に英国の通訳・佐藤健之助(アーネスト・サトウ、佐藤愛之助とも号した)が加わり同乗した。
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徳川慶喜(1837~1913)
樋口真吉(1815~1870)
徳川慶喜<「幕末足軽物語樋口真吉伝完結編」ではP297>
慶応3年10月15日、15代将軍・徳川慶喜による大政奉還が勅許された。
大政奉還 歴史を動かした龍馬たち(NHK動画)大政奉還~竜馬暗殺まで(融通無碍/関連話)大政奉還(YouTube)・・・・・・・・・・・・
原 市之進(1830~1867)
樋口真吉(1815~1870)
原 市之進<「幕末足軽物語樋口真吉伝完結編」ではP281>
慶応3年5月20日、幕臣・原市之進が将軍・徳川慶喜の代理として病床の容堂を見舞いに来た。(原市之進は、徳川慶喜の懐刀)、朝廷からは御酒を4樽、鯉20尾を賜る。(容堂は朝廷からも幕府からもお呼びがかかる。)
<「幕末足軽物語樋口真吉伝完結編」ではP291>
慶応3年8月14日、水戸の浪士3人が幕府の大監察・原市之進の旅館に押し入り刺して首を取った。原の家臣が必死で賊を追い駆け全員を報復・斬殺する。
<「幕末足軽物語樋口真吉伝完結編」ではP296>
慶応3年9月29日、(暗殺された)原市之進の遺族に「家督相違いなく相続」が認められたという。
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木戸孝允(桂小五郎)(1833~1877)
樋口真吉(1815~1870)
木戸孝允(桂小五郎)<「幕末足軽物語樋口真吉伝完結編」ではP274>
慶応2年1月21日、京都の薩摩・小松邸で坂本龍馬、中岡慎太郎を介して、薩摩藩と長州藩の「薩長同盟」が成立した。長州側(木戸孝允)から出された「両藩の合意事項の覚え書」に龍馬が朱筆をもって裏書きする。
薩長同盟(融通無碍/第38話)薩長同盟までのこと(幕末足軽物語/関連話)慶応3年の幕末動乱の動きを「慶応3年の大芝居」と見立て、龍馬と手紙のやりとりをして面白がったりもしている。
慶応3年の大芝居(融通無碍/第39話)・・・・・・・・・・・・
松平容保(1836~1893)
樋口真吉(1815~1870)
松平容保<「幕末足軽物語樋口真吉伝完結編」ではP183>
文久2年8月、京都で不穏な動きが頻発し、既存の京都所司代では治安維持が難しいとみた幕府は、新たに会津藩主・松平容保を京都守護職に任ずる。
就任受諾に際し、会津藩内では反対意見が相次いだが、松平容保は「火中の栗を拾う」決意で入京する。
文久2年8月(空白の日々)(幕末足軽物語/関連話)・・・・・・・・・・・・
佐久間象山(1811~1864)
樋口真吉(1815~1870)
佐久間象山<「幕末足軽物語樋口真吉伝完結編」ではP151>
嘉永5年12月22日、佐久間氏を訪ねる。その人物は都下の醜気を脱し、その語るところ、真吉の心に適う。黄昏(夕刻)まで話し込んで帰る。
真吉は初めて佐久間象山にあって意気投合する。西洋砲術の専門家。勝海舟の妹の亭主でもある。
佐久間象山の「五月塾」(融通無碍/関連話) 
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石山孫六(1828~1904)
樋口真吉(1815~1870)

土佐藩の剣道師範・石山孫六を讃える記念碑(高知市丸ノ内・高知城丸の内緑地公園)
石山孫六<「幕末足軽物語樋口真吉伝完結編」ではP97>
嘉永5年4月、江戸・本郷生まれの剣士で、土佐に滞在中の長い刀を使う石山孫六と九州を経て江戸に行くという『日本漫遊の旅』の計画を真吉は立てた。
旅の同行者は高知からの石山孫六、大石神陰流・大石進を土佐に招聘するための公務出張を兼ねた高知の上士・寺田忠二の2名。中村からの参加者は樋口道場の門下生・山崎文三郎、桑原助馬、それに文学修行が目的の私塾鶴鳴堂・遠近晋八、真吉を加えて4名、総勢6人であった。
日本漫遊の旅(融通無碍/第12話)・・・・・・・・・・・・
永井尚志(1816~1891)
樋口真吉(1815~1870)
永井尚志<「幕末足軽物語樋口真吉伝完結編」ではP274>
龍馬の手紙<幕府若年寄・永井尚志 宛て>この「龍馬の手紙」は、慶応2年1月、
薩長同盟が締結されたあと、龍馬は伏見の
寺田屋で遭難にあったが、その直後こともあろうに幕府の要人・
永井尚志(職席上は京都守護職・松平容保<京都見廻組、新撰組を支配下>の配下ではあったが、実務的には幕府大目付として監督する立場にあった。)に、寺田騒動のことやら幕府の内乱のことなどを、皮肉・揶揄混じりでつらつらと書き綴った「
龍馬の手紙」である。(このことが伏線となり、龍馬暗殺の黒幕は永井尚志という説もある。)
薩長同盟(融通無碍/第38話)「薩長同盟」までのこと(幕末足軽物語/関連話)寺田屋遭難(融通無碍/関連話)・・・・・・・・・・・・
由利公正(1829~1909)
樋口真吉(1815~1870)
由利公正<「幕末足軽物語樋口真吉伝完結編」ではP299>
慶応3年10月24日、才谷梅太郎(=龍馬)が下横目・岡本健三郎に見張られながら越前に行く。越前の動きは。
坂本龍馬は後藤象二郎の依頼で山内容堂の書状を持って越前福井藩へ出向き、松平春嶽の上京を促して由利公正(=三岡八郎)と会談した。
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陸奥宗光(1844~1897)
樋口真吉(1815~1870)
陸奥宗光<「幕末足軽物語樋口真吉伝完結編」ではP302>
慶応3年12月7日、この夜、紀州の大奸・三浦休太郎を討つも、死ななかった。
龍馬暗殺後、陸奧宗光は紀州藩士・三浦休太郎を暗殺の黒幕と主張し、海援隊の同志15人と共に三浦休太郎の滞在する天満屋を襲撃する事件(天満屋事件)を起こしている。
龍馬暗殺(融通無碍/関連話)天満屋事件<龍馬暗殺復仇隊>(融通無碍/関連話)・・・・・・・・・・・・
左行秀(1813~1887)
樋口真吉(1815~1870)
左行秀<「幕末足軽物語樋口真吉伝完結編」ではP206>
文久2年12月12日、刀工・左行秀らが抜擢される。土佐藩は江戸の砂村(江東区)にあった土佐藩邸で輸入品の西洋銃を元に新式銃を造る計画を立て、その製造責任者に行秀を抜擢、職人を集めて鉄砲を製造した。
<「幕末足軽物語樋口真吉伝完結編」ではP293>
慶応3年9月9日、この日、江戸から豊永久左衛門(=左行秀)が来た。行秀は江戸藩邸での板垣退助の行動(水戸浪士の隠匿)に反発し、本藩に告発すべく江戸から京都へ来て真吉と相談のうえ高知に向かう。
<「幕末足軽物語樋口真吉伝完結編」ではP333>
十三連発銃(=スペンサー銃)の代金600両を刀工・豊永久左ヱ門(左行秀)に渡す。
スペンサー銃のこと(融通無碍/関連話)・・・・・・・・・・・・
三条実美(1837~1891)
樋口真吉(1815~1870)
三条実美<「幕末足軽物語樋口真吉伝完結編」ではP232>
文久3年7月3日
真吉は長官へ上書して、長州応援のことを言う。やはり真吉は長州ひいきのようだ。
文久3年8月18日の政変で三条実美ら公家7人が長州へ向かうことになるが、その直前の7月3日、真吉が三条実美に出した上申書がある。
真吉の上書(文久3年7月3日)(融通無碍/関連話)・・・・・・・・・・・・
白石正一郎(1812~1880)
樋口真吉(1815~1870)

白石正一郎と伝えられる人物(中央のヒゲの老人)
白石正一郎<「幕末足軽物語樋口真吉伝完結編」ではP199>
文久2年10月19日、赤間関の白石正一郎を訪ねる。正一郎は薩摩の仕送り屋(薩摩産品を一手に扱う問屋)である。
白石邸(招賢閣)に泊まる(融通無碍/関連話)
白石正一郎旧宅跡 (奇兵隊結成の地<下関>)
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本間精一郎(1834~1862)
樋口真吉(1815~1870)
本間精一郎<「幕末足軽物語樋口真吉伝完結編」ではP186>
文久2年8月21日、昨夜、本間精一郎が先斗町で横死する。四条河原に首がさらされ、胴体は高瀬川に投げ込まれた。

この年の3月、本間精一郎(偽名=名張良蔵)は真吉との接触を求めて幡多へ来ている。
<「幕末足軽物語樋口真吉伝完結編」ではP169>
文久2年3月10日、伝助が帰って言う。「名張良蔵は7日に(藩境の)西ヶ方(現四万十市西土佐)に泊まった」
土佐に入り一番に武市半平太への接触を試みるが果たせず、次目標として県西部の盟主と目される真吉との対面をしようと幡多入りした。しかし、真吉との面談はすれ違いのため叶わなかった。
・・・・・・・・・・・・
白峰駿馬(1847~1909)
樋口真吉(1815~1870)

日本造船界の先駆者 白峰駿馬
白峰駿馬<「幕末足軽物語樋口真吉伝完結編」ではP274>
元治元年、長岡藩を脱藩して
神戸海軍操練所に参加する。
神戸海軍操練所(融通無碍/関連話)神戸海軍操練所の閉鎖後は坂本龍馬が結成した亀山社中に参加、薩摩名義で長州が購入したユニオン号で薩摩と長州の中をとりもつ。薩摩から長州へ武器を、長州から薩摩へ食糧を運ぶ。
ユニオン号のこと(融通無碍/関連話)その後、(船舶・海運の熟達者として)海援隊の幹部となり龍馬の片腕として活発に活動している。
龍馬が京都河原町の近江屋で暗殺されたとき、報せを聞いて現場へ駆けつけた海援隊士の中に白峰駿馬がいた。(龍馬が殺されたとき、まだ息のある龍馬が「酢屋にいる白峰駿馬を呼んでくれ」と云ったという。)
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小曽根英四郎(1840~1890)
樋口真吉(1815~1870)
小曽根英四郎<「幕末足軽物語樋口真吉伝完結編」ではP81>
嘉永2年12月23日、長崎の豪商・小曽根英四郎氏を訪問する。
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慶応2年、長崎で坂本龍馬に出会う。その後、龍馬は小曽根英四郎邸に
亀山社中の事務所を置いた。小曽根英四郎邸では、近藤長次郎が
ユニオン号購入をめぐり社中の盟約に違反した咎で切腹している。
亀山社中(幕末足軽物語/関連話)ユニオン号のこと(融通無碍/第33話)・・・・・・・・・・・・
伊藤助太夫(1830~1872)
樋口真吉(1815~1870)
伊藤助太夫<「幕末足軽物語樋口真吉伝完結編」ではP282>
慶応3年5月26日、「大洲船(いろは丸)を借りて器械を長崎から運ぶ途中、箱の岬で紀州船(明光丸)と衝突して沈められた」という報せが届いた。
いろは丸事件だ。
いろは丸事件(融通無碍/関連話)~~~~~~~
龍馬は紀州藩との交渉経緯・善後策など、いろは丸事件について伊藤助太夫に面白可笑しく報告している。
龍馬の手紙(伊藤助太夫宛て)
NHK龍馬伝 第42回 「いろは丸事件」・・・・・・・・・・・・
三吉 慎蔵(1831~1901)
樋口真吉(1815~1870)
三吉 慎蔵<「幕末足軽物語樋口真吉伝完結編」ではP274>
慶応2年1月21日、坂本龍馬や中岡慎太郎の仲介もあって、薩長同盟が成立した。
慶応2年1月23日、龍馬は伏見・寺田屋で幕吏に襲われ重傷を負うが薩摩藩邸に逃れる。
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寺田屋では三吉慎蔵と酒を飲みながら懇談をしていたところを、伏見奉行配下の捕り方に踏み込まれた。
三吉慎蔵は槍を振るって応戦し、包囲された寺田屋を奇跡的に脱出。傷を負った龍馬を材木小屋に隠すと単身薩摩藩邸に走り、救援を要請して龍馬の命を助けた。
寺田屋遭難(融通無碍/関連話)寺田屋遭難(YouTube)・・・・・・・・・・・・
印藤聿(1831~1911)
樋口真吉(1815~1870)
印藤聿長府藩内では坂本龍馬と最も早く知り合った人物で、龍馬と長府藩(長州)のパイプ役を果たす。龍馬の身辺警護に
三吉慎蔵を紹介した。
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[龍馬の手紙<印藤聿 宛>]慶応2年2月3日
伏見の寺田屋で、三吉慎蔵(=長府藩士/龍馬の護衛役)と飲んでいたところ、幕府の役人数人から襲撃されました。三吉慎蔵は一緒に薩摩藩邸に入りましたのでご安心下さい。なので、今回は寺内新右門(=海援隊士/新宮馬之助のこと)がそちらへ行きますので話を聞いて下さい。あとは、お会いして話しましょう。
2月3日、印藤様 龍馬より
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隅谷寅之助(1818~1867)
樋口真吉(1815~1870)

隅谷寅之助は
立川御殿の近くの荷宿で龍馬と会見した。
隅谷寅之助<「幕末足軽物語樋口真吉伝完結編」ではP225>
文久3年3月16日、水戸藩・
隅谷寅之助と本国寺で会う。
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大村益二郎(1825~1869)
樋口真吉(1815~1870)
大村益二郎<「幕末足軽物語樋口真吉伝完結編」ではP357>
慶応4年6月29日、真吉は江戸城に登城して正五位を叙位されている土佐出身の高官・清岡半四郎に面会する。清岡は官軍の実質的な指揮官・大村益二郎と真吉をひきあわせた。真吉は軍資金不足を直訴する。
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<「幕末足軽物語樋口真吉伝完結編」ではP358>
大村益次郎と真吉新政府軍の総元締め・大村益二郎は真吉に
「安心して下さい。今後、軍資金面で御心配は無用です」と明言した。これ以上の担保はあり得ない。
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[融通無碍]
大村益次郎考(幕末足軽物語/関連話)・・・・・・・・・・・・
大石進(1797~1863)
樋口真吉(1815~1870)
大石進<「幕末足軽物語樋口真吉伝完結編」ではP34>
天保8年11月26日、この日大石進氏より皆伝を授けられる。
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礼装を着用し、先生の前に威儀を正す。神文に名前を記し、神に誓う。

(この皆伝書は四万十市中村の資料館に展示されている)
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高嶋秋帆(1798~1866)
樋口真吉(1815~1870)
高嶋秋帆<「幕末足軽物語樋口真吉伝完結編」ではP80>
嘉永2年12月5日、高嶋秋帆氏に喝し入門を為す。真吉はついに高嶋流砲術への入門を果たす。
砲術(融通無碍/第9話)~~~~~~~~
<「幕末足軽物語樋口真吉伝完結編」ではP55>
天保11年9月、長崎の高嶋秋帆は幕府に後世『天保上書』とよばれる砲術改革についての意見書を提出した。
かれの提案する洋式砲術と操兵術は斬新で、外国船の日本近海への出没など海防問題で打つ手なく困惑するだけだった幕府の窮状を救うものであった。
なお、『天保上書』については、南寿吉氏の著書:「樋口真吉伝」(2011/高知県出版文化賞受賞)に詳細な記述があります。

<「樋口真吉伝」ではP104>
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来島又兵衛(1817~1864)
樋口真吉(1815~1870)
来島又兵衛<「幕末足軽物語樋口真吉伝完結編」ではP127>
嘉永5年8月10日、旧来の朋友・来島光次郎が又兵衛と改名して来訪する。又兵衛は真吉より2歳若い。剣も槍も使える。大石流への入門も天保12年と互いに接近している。今の世をどう見るか、どう行動するかについてざっくりと話したら、凡庸でない見識の持ち主であることを互いに確認した。
長州藩士の来島又兵衛は自己の主張を貫きとおして、
蛤御門の変(=禁門の変)で討ち死にする。享年48。
蛤御門の変(融通無碍/関連話)・・・・・・・・・・・・
松平春嶽(1828~1890)
樋口真吉(1815~1870)
松平春嶽<「幕末足軽物語樋口真吉伝完結編」ではP216>
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文久3年2月4日、福井の松平春嶽侯が上洛した。京都は長州藩など尊王攘夷派の勢力が強く、また勢いに乗じた過激浪士が天誅と称しての暗殺が繰り返されていた。
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伊達宗城(1818~1892)
樋口真吉(1815~1870)
伊達宗城<「幕末足軽物語樋口真吉伝完結編」ではP217>
文久3年2月15日、松平春嶽・伊達宗城の両殿が来る。真吉は外夷拒絶の策略を隠居(=山内容堂)の承認を得て、上書する。
攘夷策略<樋口真吉>(融通無碍/関連話)・・・・・・・・・・・・
平野富次郎 (1846~1892)
樋口真吉(1815~1870)
平野富次郎慶応3年7月、長崎で起きた
イカルス号事件、平野富治郎が運航する土佐藩船・夕顔丸の船員が犯人(海援隊士との疑義)とされ、その逃亡を土佐藩が幇助したと疑われた。高知の須崎に関係者(英国・幕府・土佐藩・海援隊)が集まり尋問が行なわれた。
<「幕末足軽物語樋口真吉伝完結編」ではP288>
慶応3年7月28日、佐々木高行が大坂に下る。用務は長崎において土佐藩の夕顔丸の船員(海援隊士)が英国水兵を殺害した事件について、幕府の大坂奉行に確認と質問をするためだ。
イカルス号事件(融通無碍/関連話)・・・・・・・・・・・・
広瀬淡窓(1782~1856)
樋口真吉(1815~1870)
広瀬淡窓<「幕末足軽物語樋口真吉伝完結編」ではP82>
嘉永3年1月8日、日田で広瀬淡窓先生を訪問する。真吉は亀井学との関連から広瀬淡窓の思想に傾注していたようだ。
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河上彦斎(1834~1872)
樋口真吉(1815~1870)
河上彦斎<「幕末足軽物語樋口真吉伝完結編」ではP399>
明治2年4月8日、夜来の風雨が朝になっても続き、舟は発せず、鶴崎に滞留する。夜中の一時に馬に乗って来たのは、河上彦斎、毛利至の息子(=登)の2人。話が弾んで終わったのは明け方の4時、そして別れた。東方の空が薄明るくなっていた。
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山本洪堂(1842~1899)
樋口真吉(1815~1870)
山本洪堂海援隊
海援隊(左から長岡謙吉、溝渕広之丞、坂本龍馬、山本洪堂、千屋寅之助、白峰駿馬)
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渡辺昇(1838~1913)
樋口真吉(1815~1870)
渡辺昇<「幕末足軽物語樋口真吉伝完結編」ではP274>
慶応元年、長崎で坂本龍馬と会談、龍馬から薩長同盟の必要性を説かれ、長州藩への働きかけを頼まれる。
渡辺昇は元練兵館塾頭で桂小五郎らと昵懇であったため、長州藩と坂本龍馬を周旋。長崎で龍馬と桂小五郎を引き合わせ、
薩長同盟の成立に尽力した。
薩長同盟(融通無碍/第38話)・・・・・・・・・・・・
河田左久馬(1828~1897)
樋口真吉(1815~1870)
河田左久馬慶応2年10月、龍馬が
北方開拓計画に使用するため薩摩藩の保証で大極丸を購入した。の請人は小曽根英四郎だった。船代金は薩摩藩が立て替えたが、その後土佐藩(=後藤象二郎)が買い戻して、最終的には土佐藩(亀山社中)のものとなった。
◆北方開拓計画
この龍馬、積年の夢(蝦夷に渡って新国を開くという)『北方開拓計画』については、鳥取藩伏見京都御留守居役の河田佐久馬に宛てた「
龍馬の手紙」に記述がある。
龍馬の手紙(河田左久馬 宛て)<慶応3年3月>(北方開拓計画)

「坂本龍馬書簡 慶応3年2月14日 河田左久馬宛」(個人所蔵 鳥取県立博物館寄託)
《蝦夷地行きの準備が整いつつあることを、龍馬が意気揚々と報告する内容》
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岩倉具視(1825~1883)
樋口真吉(1815~1870)
岩倉具視<「幕末足軽物語樋口真吉伝完結編」ではP306>
慶応4年1月4日、聡明の頃から、鳥羽の方面に砲声がすさまじく、辺り一体に響き渡るのを聞く。いよいよ決戦だ。薩軍の攻撃で賊軍(幕府軍)が応戦を始め、両軍から戦火が上がる。銃砲の音が天にこだまし、朝まで続く。
朝廷(岩倉具視)は、仁和寺親王を征討将軍に任じ錦旗を授けた。

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副島種臣(1828~1905)
樋口真吉(1815~1870)
副島種臣<「幕末足軽物語樋口真吉伝完結編」ではP55~>
樋口真吉は天保11年に砲術修行などで長崎を訪れている。
その帰路、佐賀藩に立ち寄り、1カ月余り
弘道館で学び多くの塾生と交流している。(弘道館での人脈が後々、真吉の中央情勢の情報源となる。)
この時、真吉26歳、副島種臣は13年下の13歳であった。(副島は弘道館には6歳の頃から関わっていたというから、記録はないが何らかの接点があったかもしれない。)
佐賀藩校・弘道館(融通無碍/関連話)・・・・・・・・・・・・
江藤新平(1834~1874)
樋口真吉(1815~1870)
江藤新平<「幕末足軽物語樋口真吉伝完結編」ではP55~>
樋口真吉は天保11年に砲術修行などで長崎を訪れている。
その帰路、
佐賀藩に立ち寄り、1カ月余り弘道館で学び多くの塾生と交流している。(弘道館での人脈が後々、真吉の中央情勢の情報源となる。)
佐賀藩のこと(幕末足軽物語/関連話)・・・・・・・・・・・・
望月清平(生没年不明)/弟の亀弥太は(1838~1864)
樋口真吉(1815~1870)

望月家墓所(高知市塚ノ原)、望月清平とされる墓は台石のみで墓石はない。
望月清平<「幕末足軽物語樋口真吉伝完結編」ではP280>
慶応3年7月29日、望月清平が大坂から戻る。
この望月清平という名を記憶に留めておいてほしい。この男が幕末足軽物語の鍵になる一人だから。
<「幕末足軽物語樋口真吉伝完結編」ではP298>
慶応3年10月19日
望月清平が勅書を持って帰国する。下横目・俊太郎も同行する。この前日(18日)、清平はすぐ近くの町屋・近江屋に潜伏する龍馬からの手紙を受け取っていた。その中身。
「今、住む近江屋が危険なことは承知。だが薩摩の世話になるのもまずい。真吉に頼んで安全な隠れ家を探してくれ」というものであった。

龍馬暗殺の直前、安全な宿の確保を真吉に頼んでいるが、手紙は届かなかった・・・。
届かなかった龍馬の手紙(融通無碍/関連話)・・・・・・・・・・・・
三浦休太郎(1829~1910)
樋口真吉(1815~1870)
三浦休太郎<「幕末足軽物語樋口真吉伝完結編」ではP302>
慶応3年12月7日、この夜、紀州の大奸・三浦休太郎を討つも死ななかった。
・・・・・・・・・・・・
道家隆助(不詳)
樋口真吉(1815~1870)

「壬子漫遊日記」
真吉の『
日本漫遊の旅(剣術、砲術、文学の修行)』の旅日記は「壬子漫遊日記」と題されている。
日本漫遊の旅(融通無碍/第12話)<「幕末足軽物語樋口真吉伝完結編」ではP129>
嘉永5年8月13日、昨日、道家隆助(竜介:佐久間象山の門人でもある)に手紙を送っていたところ、今日返事が来た。
道家隆助・・・・・・・・・・・・
寺田知己之助(1836~没年不明)
樋口真吉(1815~1870)
寺田知己之助<「幕末足軽物語樋口真吉伝完結編」ではP370>
慶応4年9月5日、寺田知己之助が白河に行く。昨夜、若松城の方角が焼けた。真吉らの持ち場の前の空屋に潜んでいた敵が混乱させるためにこの空屋に火を放ち、折からの風に煽られ広がって、大垣藩兵の持ち場にも延焼した。 薩摩兵が急迫し、橋の破壊作業中の敵兵を狙い撃ちする。
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幕末足軽物語(融通無碍/人物評伝)人物評伝のこと(融通無碍/第54話)**************
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土佐の森・文芸/融通無碍

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南寿吉先生の遺作(高知新聞/2021.7.2)ーーーーーーーーーーーーーー
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2025.09.21.01.51
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