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土佐の森・文芸 幕末足軽物語(南寿吉著)
[関連話]
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亀山社中幕末足軽物語 樋口真吉伝完結編<「幕末足軽物語樋口真吉伝完結編」ではP274>
慶応元年閏5月~翌2年8月まで真吉日記は記録されていない。
この空白の1年数ヶ月の間には、幕末のキーポイントとなる様々な事件などが起こっている。
慶応元年9月16日 英・米・仏・蘭の四カ国公使らが兵庫の開港を求め、兵庫沖に軍艦を集結させて圧力をかけた。
慶応2年1月21日
薩長同盟が成立
薩長同盟(融通無碍/第38話)慶応2年6月3日 長州を攻撃するため幕府軍が出発する。
第二次長州征伐だ。
第二次長州征伐(融通無碍/南史観<私観>)慶応2年8月21日 朝廷は将軍・徳川家茂が死んだため征長の兵を停止させる。
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[融通無碍]
何故、真吉の日記がこの期間に欠落するのか考えても無意味だろう。
ないものはないのだから。特に個人的な事情もないだろう。
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元治元年(=慶応元年<1865>)
勝海舟の神戸の海軍塾が閉鎖された。
勝海舟の要請で薩摩藩は、航海術の専門知識を有する龍馬ら塾生の庇護を引き受けた。
神戸海軍操練所跡
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塾頭の坂本龍馬、塾生の
近藤長次郎、
池内蔵太、
千屋寅之助、
高松太郎らは勝海舟の口利きで薩摩へ。
近藤長次郎(融通無碍/南史観<人物評伝>)池内蔵太(融通無碍/南史観<人物評伝>)千屋寅之助(融通無碍/南史観<人物評伝>)高松太郎(融通無碍/南史観<人物評伝>)~~~~~~~~~~
◆亀山社中
慶応元年5月
坂本龍馬ら薩摩藩に引き取られた神戸海軍操練所の塾生によって亀山社中が結成された。
武器や艦船などをグラバー商会と取引し、藩に販売するという海運業も含めた総合貿易商社だ。
亀山社中(NHK動画)勝海舟の要請で龍馬ら塾生の庇護を引き受けた薩摩藩は彼らの航海術の専門知識・実践力を重視/高評価しており、龍馬らが設立を目論む「亀山社中」に出資・支援することになった。
長崎での亀山社中の結成に際しては薩摩藩の小松帯刀が長崎入りし、「亀山社中」のメンバーには薩摩藩から一人3両2分の支度金が支給されたという。(薩摩藩が亀山社中のオーナー的立ち位置になった。)
亀山社中は商業活動に従事する近代的な株式会社に類似した性格を持つ組織として設立され、当時商人が参集していた長崎の豪商・
小曽根英四郎邸を根拠地として、下関の豪商・
伊藤助太夫邸、そして京都の酢屋に事務所を設置した。
龍馬が亀山社中の近況を知らせた三吉慎蔵宛ての「龍馬の手紙」が残されている。
三吉慎蔵宛て小曽根英四郎(幕末足軽物語/関連話<人物評伝>)伊藤助太夫(融幕末足軽物語/関連話<人物評伝>)亀山社中の成立は商業活動の儲けによって利潤を上げることのほかに、当時、水火のごとき関係にあった薩長両藩和解の目的も含まれており、のちの
薩長同盟成立に貢献することになる。
「薩長同盟」までのこと(融幕末足軽物語/関連話)「英語入門書」を出版(長崎龍馬便り)その他、「万国公法」の出版も企画されていた。
万国公法:国立公文書館
亀山社中の事務処理を一手に引き受けていた
長岡謙吉に宛てた「龍馬の手紙<万国公法の出版話>」がある。
龍馬の手紙(長岡謙吉宛て<幕末足軽物語/関連話>長岡謙吉(融通無碍/南史観<人物評伝>)~~~~~~~~~~~
幕府勢力から一連の打撃を受けて、長州藩には彼らを京都政治から駆逐した中心勢力である薩摩・会津両藩に対する根強い反感が生じており、一部の藩士はともには天を戴かずと心中に誓い、たとえば「薩奸會賊(「さっかんかいぞく」薩摩の薩と會津<会津の旧漢字の會>)」の四文字を下駄底に書き踏みつけて鬱憤を晴らす者がいたほどだった。
このような雰囲気の中でも、
中岡慎太郎と
土方久元は、薩摩、長州の如き雄藩の結盟をもって武力討幕を成し遂げることをを目論んでいた。
中岡慎太郎(融通無碍/片岡正法<人物評伝>) 土方久元(融通無碍/南史観<人物評伝>)龍馬は慎太郎の武力による倒幕には少し距離を置いていたが、薩摩と長州が同盟することには異論がなく、亀山社中の仕事として協力することに。
龍馬は大村藩志士の渡辺昇と会談し、薩長同盟の必要性を力説する。
渡辺は元練兵館塾頭で桂小五郎らと昵懇であったため、長州藩と坂本龍馬を周旋。長崎で龍馬と桂を引き合わせた。
土方と龍馬が協同して桂を説諭し、下関で薩摩の西郷隆盛と会談することを承服させる。
同時に中岡は薩摩に赴き、西郷に会談を応じるよう説いた。
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慶応元年5月21日
龍馬と桂は下関で西郷の到来を待ったが、「茫然と」した中岡慎太郎が漁船に乗って現れただけであった。
中岡の説得に応じ西郷は下関へ向かっていたが、途中で朝議が幕府の主張する長州再征(第二次長州征伐)に傾くことを阻止するために急ぎ京都へ向かってしまったのだ。
桂は激怒して、和談の進展は不可能になったかに見えたが、龍馬と中岡は薩長和解(=薩長同盟)を諦めなかった。
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討幕急先鋒の立場にある長州藩に対して、幕府は国外勢力に対して長州との武器弾薬類の取り引きを全面的に禁止しており、長州藩は近代的兵器の導入が難しくなっていた。
一方、薩摩藩は兵糧米の調達に苦慮していた。
ここで龍馬は薩摩藩名義で武器を調達して密かに長州に転売し、その代わりに長州から薩摩へ不足していた米を回送する策を提案した。取り引きの実行と貨物の搬送は亀山社中が担当する。
この策略によって両藩の焦眉の急が解決することになるため、両藩とも自然に首肯した。亀山社中の初仕事であった。
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慶応元年7月
近藤長次郎が薩摩藩に赴く。大久保利通(当時は大久保一蔵)ら薩摩藩の要人と話し合った。
このとき近藤長次郎は、
「薩長が手を結んで幕府を倒し朝廷に政権を戻して国家統一と開国をなすべき」と説いたという。
近藤長次郎(融通無碍/南史観<人物評伝>)・・・・・・・・・
慶応元年8月
亀山社中は長崎のグラバー商会からミニエー銃4,300挺、ゲベール銃3,000挺の薩摩藩名義での長州藩への買いつけ斡旋に成功した。これは同時に薩長和解の最初の契機となった。
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慶応元年10月
また、近藤長次郎(この当時は上杉宗次郎と改名)の働きにより、薩摩藩名義でイギリス製蒸気軍艦
ユニオン号(薩摩名「桜島丸」、長州名「乙丑丸」)の購入にも成功し、所有権を巡って紆余曲折はあったが10月と12月に長州藩と桜島丸条約を結び、同船の運航は亀山社中に委ねられることになった。
ユニオン号のこと(融通無碍/第33話)・・・・・・・・・
慶応2年1月14日
龍馬不在の長崎の亀山社中では、ユニオン号購入で活躍した近藤長次郎(=上杉宗次郎)が独断で英国留学を企てて露見、亀山社中の規約に違反したとして、自刃させられる事件が起きていた。
事件を知らされた龍馬は『手帳摘要』に
「術数はあるが誠が足らず。上杉氏(近藤)の身を亡ぼすところなり」 と書き残している。
後年のお龍の回顧では
「自分がいたら殺しはしなかった」と嘆いたという。
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慶応2年1月21日
坂本龍馬や中岡慎太郎の仲介もあって薩長同盟が成立し、長州側から出された「両藩の合意事項の覚え書」に龍馬が朱筆をもって裏書きする。
坂本龍馬自筆「薩長同盟裏書」/宮内庁書陵部図書課図書寮文庫蔵。
龍馬の手紙<木戸孝允宛て①>(幕末足軽物語/関連話)この直後、龍馬は伏見・寺田屋で幕吏に襲われ(=
寺田屋遭難)重傷を負うが薩摩藩邸に逃れる。
寺田屋遭難(融通無碍/南史観<私観>)寺田屋遭難(YouTube)その後鹿児島に渡る。勝海舟の神戸の海軍塾が閉鎖された際にも塾生らの身柄は薩摩に引き取られたこともある。
この事件と、その後の経過が真吉にどう映ったか。
薩長の仲介は良いとしても、その後薩摩の保護下に入りさらに薩摩入りしたという事は
「龍馬は何を考えているのか。まるで薩摩の手下じゃないか」と思ったとしても無理ないかも知れぬ。
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慶応2年4月
薩摩から長州への武器供与の見返りとして兵糧500俵を積んだ蒸気船・ユニオン号が薩摩に向けて馬関を出発、長崎に寄港すると、薩摩藩から亀山社中に供与された小型帆船・ワイルウェフ号が鹿児島に向かう出港準備の真っ最中であった。
ワイル・ウェフ号は、荒鉄や銅地金、大砲、小銃等を薩摩に運ぶ任務で
池内蔵太らが操船していた。
池内蔵太(融通無碍/南史観<人物評伝>)・・・・・・・・・・
慶応2年4月28日
小型帆船・ワイルウェフ号が大型蒸気船のユニオン号に曳航されて長崎を出港した。
順調な航海をして一路南下、4月30日に薩摩領の甑島に辿り着いた。
しかし天候が急変、暴風雨となり曳航していたユニオン号は危険を感じ、やむなく引き綱を解いた。
単独行動となったワイル・ウェフ号は、当初は天草に避難しようとしたが果たせず漂流を続け、上五島の潮合崎近くまで押し流された。
5月2日未明、激しい東風に煽られて、浅瀬に乗り上げ転覆、船体は一瞬のうちに破壊してしまった。
池内蔵太ら12名が犠牲になった。池内蔵太は溺死、享年26。
ワイル・ウェフ号遭難位置図
ユニオン号は無事、鹿児島に入港した。
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慶応2年6月14日
龍馬は同志の死を悼み、ユニオン号で鹿児島より馬関に帰る途中、五島に立ち寄り、自らが碑文を書き、土地の庄屋に金を渡して碑を建てさせ、業半ばにして散っていった同志の霊を慰めている。
長崎/上五島・江ノ浜郷にある墓と墓碑銘
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ワイル・ウェフ号の悲劇(長崎龍馬便り)五島祈りの龍馬像
龍馬が弟のように可愛がっていた池内蔵太をはじめ、12名の亀山社中の同志が若くして五島の海へ散った。
この地に建つ龍馬は仲間への鎮魂の想いを込めて、遭難した場所を見つめながら合掌している。
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慶応2年6月16日
龍馬がユニオン号で下関に帰港した。
長州藩の求めにより
第二次長州征伐の戦いに参戦することになった。龍馬にとって初めての、そして最後の戦争体験だ。
第二次長州征伐(融通無碍/南史観<私観>)高杉晋作が指揮する6月17日の小倉藩への渡海作戦で龍馬はユニオン号(艦長は
千屋寅之助、砲手長は
石田英吉)を指揮して最初で最後の海戦を経験した。
千屋寅之助(融通無碍/南史観<人物評伝>)石田英吉(融通無碍/南史観<人物評伝>)高杉晋作/戦場で三味線
下関海戦図(手前の山は下関市の火の山で現在展望台があり、そこへ登るとこの通りに見える。龍馬は最初門司の半島右側からの攻撃に参加したが、のち下船して火の山に登り、大砲を使って援護射撃をした。「戦のはなしはやった者でなければ分からない」「鉄砲の音がゴマを煎るように聞こえる」など、絵の海部分いっぱいに感想を書いている。/高知県立坂本龍馬記念館より)
長州藩は西洋の新式兵器を装備していたのに対して幕府軍は総じて旧式であり、指揮統制も拙劣だった。
幕府軍は圧倒的な兵力を投入しても長州軍には敵わず、長州軍は連戦連勝した。
思わしくない戦況に幕府軍総司令官の将軍・徳川家茂は心労が重なり7月10日に大坂城で病に倒れ、7月20日に21歳の短い人生を終えた。
家茂の死後、将軍後見職・一橋慶喜の第15代将軍就任が衆望されたが、慶喜は将軍職に就くことを望まず、まずは徳川宗家の家督のみを継承していた。
慶喜は、徳川家茂の代行として出陣を決意するが、九州の小倉城が陥落したことで、戦況不利を悟って休戦を主張、孝明天皇は長州征討を休戦するよう勅命を出す。
このため、第二次長州征伐は立ち消えとなり、勝海舟が長州藩と談判を行い9月19日に幕府軍は撤兵。(小倉口では交戦が続き和議が成立したのは翌慶応3年1月23日)
幕府の求心力も堕ち、長州・薩摩・土佐らの倒幕の気運が高まることに。
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◆龍馬の手紙
(慶応2年8月16日)
さて、さる8月1日、小倉城がついに落城しました。
はたして、幕府の海軍が関門海峡を封鎖することはないとは思いますが、用心に越したことはありません。
龍馬の手紙(三吉慎蔵宛て②<幕末足軽物語/関連話>~~~~~~~~~~~
龍馬は薩摩藩から供与された帆船帆船ワイルウェフ号を遭難・沈没させ、ユニオン号も戦時の長州藩へ引き渡すことになり、亀山社中には船がなくなってしまった。
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慶応2年7月28日
長州藩士・
三吉慎蔵宛の手紙で龍馬は
「船がなくなったので、水夫たちに暇を出したが、大方は離れようとしない」と窮状を伝えている。
このため、薩摩藩は10月にワイルウェフ号の代船として帆船「大極丸」を亀山社中に供与した。
龍馬の手紙(三吉慎蔵宛て①<幕末足軽物語/関連話>三吉慎蔵(融通無碍/南史観<人物評伝>)大極丸は、ユニオン号の艦長・千屋寅之助の相方・
白峰駿馬が船将として運航された。
白峰駿馬(融通無碍/南史観<人物評伝>)・・・・・・・・・・・・・・・
[長崎市亀山社中記念館HPより]
◆亀山社中とは?
坂本龍馬(1835~1867)は、土佐国高知城下(現在の高知県高知市)に生まれ、江戸で剣術や砲術の修業の後、帰国して土佐勤王党に加盟しました。
その後土佐を脱藩して幕臣・勝海舟の門人となり、勝塾や神戸海軍操練所に学びました。
元治元年(1864)以降操練所が閉鎖されたため、脱藩者の龍馬と同志たちは薩摩藩に保護され、鹿児島を経由して長崎にやってきます。
そして、慶応元年(1865)夏頃、薩摩藩や長崎商人・小曽根(こぞね)家の援助を受け、日本最初の商社といわれる「亀山社中」を結成しました。
この団体は、龍馬らが最初に拠点を構えた地「亀山」と、仲間・結社を意味する「社中」をあわせてそう呼ばれました。
亀山社中の最大の業績は、慶応2年(1866)に、長州藩のために薩摩藩名義で大量の小銃や蒸気船ユニオン号(桜島丸・乙丑丸)の購入・運搬に成功したことです。
そのことが、慶応2年(1866)1月の薩長盟約締結へとつながり、新しい時代をひらくための足がかりとなったのです。
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◆亀山社中から海援隊に
慶応3(1867)年4月、龍馬や中岡慎太郎の脱藩罪が許され、亀山社中は土佐藩直属の海援隊に改編された。
この時に明文化された規則が「海援隊約規(高知県立坂本龍馬記念館蔵)」
5則から成り、隊士の資格は脱藩者と海外への志ある者、隊の課業は航海術や英語を勉強することなど、明確に表している。
海援隊(左から
長岡謙吉、
溝渕広之丞、
坂本龍馬、山本洪堂、
千屋寅之助、
白峰駿馬)
長岡謙吉(融通無碍/南史観<人物評伝>)溝渕広之丞(融通無碍/南史観<人物評伝>)坂本龍馬(融通無碍/南史観<人物評伝>)千屋寅之助(融通無碍/南史観<人物評伝>)白峰駿馬(融通無碍/南史観<人物評伝>)山本洪堂・・・・・・・・・・・
慶応2年、
土佐藩士・
溝渕広之丞が砲術を学ぶために長崎に遊学した。
溝渕広之丞(融通無碍/南史観<人物評伝>)この溝淵の長崎遊学は、砲術を学ぶのは建前で本来の目的は長崎の情勢探索であった。
長崎にいた亀山社中の坂本龍馬と面会した時、龍馬脱藩の真意を問うたのに対して龍馬は、
「土佐のことを忘れたことはないが志のために浪人の道を選んだ」と言ったという。(龍馬の思いを述べた溝淵宛の
龍馬の手紙が残る)
龍馬の手紙(溝渕広之丞 宛て①<幕末足軽物語/関連話>)このあと、龍馬は土佐藩のために銃を外国商人から買い入れる交渉に当たり、溝淵に買価を相談している。(具体的な金額を明記した溝淵宛の
龍馬の手紙か残る)
龍馬の手紙(溝渕広之丞 宛て②<幕末足軽物語/関連話>さらに、年末には溝淵は龍馬に連れられて長州藩に赴き、木戸孝允を紹介された。長崎に戻った溝淵は木戸との会見を、偶々長崎に出張で来ていた土佐藩参政・後藤象二郎に報告した。後藤は長崎の後、上海まで出張している。
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この時の、龍馬と後藤との関係は
「土佐藩からの公式な支援が欲しい龍馬。が、後藤は土佐勤王党を弾圧した張本人、建前上は逢いたくない、逢えない人物」
「龍馬の人脈と組織を土佐藩に取り込みたい象二郎。が、龍馬は脱藩の罪を犯した犯罪人、建前上は逢うことができない人物、逢えない人物」
この両者の思惑と感情を、溝淵が調整する役割を果たした。
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慶応3年1月、
溝淵の仲介で龍馬と後藤の会談が実現した。会談の場所は長崎清風亭。
長崎清風亭会談この会談の結果、土佐藩は龍馬らの脱藩を赦免し、亀山社中を土佐藩直属の外郭団体的な組織とすることが決まり、4月上旬頃に亀山社中は「海援隊」と改称した。
海援隊(融通無碍/南史観<私観>) 海援隊規約によると、隊の主要目的は土佐藩の援助を受けて土佐藩士や藩の脱藩者、海外事業に志を持つ者を引き受け、運輸、交易、開拓、投機や土佐藩を助けることなどとされ、海軍と会社を兼ねたような組織だった。
隊長は坂本龍馬、隊士は土佐藩士(千屋寅之助、沢村惣之丞、
高松太郎、
安岡金馬、新宮馬之助、長岡謙吉、溝渕広之丞、
石田英吉、中島作太郎)および他藩出身者(紀州藩の
陸奥宗光、越後長岡藩の白峰駿馬)など16 - 28人、水夫を加えて約50人からなっていた。 同時期、中岡慎太郎は陸援隊を結成している。
高松太郎(融通無碍/南史観<人物評伝>)安岡金馬(融通無碍/南史観<人物評伝>)石田英吉(融通無碍/南史観<人物評伝>)陸奧宗光(融通無碍/南史観<人物評伝>)この時に明文化された規則が「海援隊約規(高知県立坂本龍馬記念館蔵)」
5則から成り、隊士の資格は脱藩者と海外への志ある者、隊の課業は航海術や英語を勉強することなど、明確に表している。
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慶応3年1月13日
航海と通商の専門技術があり、薩長とも関係の深い龍馬に注目した土佐藩は溝淵広之丞を介して龍馬と接触を取り、龍馬と土佐藩大監察・参政の
後藤象二郎が会談した。(清風亭会談)
後藤象二郎(融通無碍/南史観<人物評伝>)龍馬が後藤象二郎の印象を記述した、三吉慎蔵宛ての「龍馬の手紙」が残されている。
三吉慎蔵宛て(後藤象二郎は面白い人)
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慶応3年4月
亀山社中は坂本龍馬が隊長となり海援隊と名を改め、正式に土佐藩公認の外郭機関(商業・海運/有事には海軍として活動)になった。
以後、海援隊が商売することになり、商才に長けた陸奥宗光が主導して行なった。
龍馬が「海援隊が商売する話」を記述した、陸奥宗光宛ての「龍馬の手紙」が残されている。
龍馬の手紙(陸奥宗光宛て)・・・・・・・・・・・
慶応3年11月15日
龍馬が京都の近江屋で陸援隊隊長の中岡慎太郎とともに
暗殺される。
龍馬暗殺 (融通無碍/南史観<私観>)・・・・・・・・・・・
慶応4年4月
龍馬暗殺後、
長岡兼吉が土佐藩より海援隊長に任命されたが、龍馬の暗殺で求心力を失い分裂(京都と長崎)。
長岡謙吉(融通無碍/南史観<人物評伝>)戊辰戦争が始まると、長岡謙吉らの一派<京都に在>は天領である讃岐国の小豆島などを占領・統治した。
一方、千屋寅之助(菅野覚兵衛)らの一派<長崎に在>は土佐藩大目付(大監察)・
佐々木高行とともに
長崎奉行所を占領した。
長崎奉行所(幕末足軽物語/関連話)九州鎮撫総督澤宣嘉が下向し、長崎奉行所は長崎裁判所となった。
佐々木高行は長崎奉行所を接収後、長崎に赴任して来た長崎裁判所総督澤宣嘉と参謀井上馨の推薦で参謀助役に任命され、空白地帯の長崎取り締まりを任された。
振遠隊(総員300人以上の隊員はイギリス式の教練を受け西洋式の軍隊組織であった)を組織して任に当たった。
佐々木高行(融通無碍/南史観<人物評伝>)長崎振遠隊(幕末足軽物語/関連話)長崎振遠隊は戊辰戦争(
秋田戦争)に従軍した。
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[融通無碍]
◆秋田戦争
戊辰戦争時、奥羽越列藩同盟を離脱して新政府軍に参加した久保田藩(秋田藩)が官軍と共に、庄内藩・盛岡藩を中心とする列藩同盟軍を相手に繰り広げた一連の戦い。秋田庄内戊辰戦争ともいう。
秋田での戊辰戦争秋田の戊辰戦争・・・・・・・・・・・
慶応4年閏4月27日
海援隊は藩命により解散される。
後藤象二郎は海援隊を土佐商会に吸収合併、岩崎弥太郎が九十九商会・三菱商会・郵便汽船三菱会社(後の日本郵船株式会社)・三菱商事などに発展させる。
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◆土佐商会(「土佐商会跡・板碑より)
土佐藩の貿易関係の役所で、開成館貨殖局と呼ばれた。
長崎出張所は、慶応3年2月頃、長崎市西浜町(現在の浜町)に開設された。
最初は、後藤象二郎が、後には岩崎彌太郎が主任となり、辣腕を振るった。
同出張所の目的は、大砲や弾薬、さらには艦船等を調達することであったが、そのための資金は、土佐の樟脳や鰹節などを売却、捻出した。
また、坂本龍馬率いる海援隊には、隊員それぞれに月々金5両を支給するなど、その運用資金なども調達した。
このように、海援隊は土佐藩の保護のもとにあったので、海援隊旗は土佐藩旗と同様に、「赤白赤」の二曳(にびき)と呼ばれるものであった。
土佐商会跡/長崎市浜町
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◆海援隊日史
慶応3年(1867)4月から7月頃の海援隊の記録。
その内容の主なものは、海援隊約記の写、いろは丸衝突事故の簡単な記録、新政権構想素案などである。
筆者は海援隊の文官で龍馬の秘書役だった長岡謙吉とみられる。
特に「新政権構想素案」は慶応3年前半段階に海援隊で考えられていた政府構想としてとても重要な内容をもっている。
海援隊日史*****************
ブログ
土佐の森・文芸/融通無碍(南寿吉著)
編集・発行
土佐の森グループ/ブログ事務局
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元高知県知事橋本大二郎氏
南寿吉先生の遺作(高知新聞/2021.7.2)融通無碍/総集版2023.12.01。23.46